長谷川伸の戯曲「掏摸の家」

  • 2018.04.24 Tuesday
  • 12:01

「小説についての小説」その133

 

長谷川伸の戯曲「掏摸の家」(朝日新聞社、長谷川伸全集第15巻)を読んだ。

 

一幕五場のお芝居で、ページ数にすると17ページしかない。

短い場面がぽんぽんとつながっていくのが小気味好い。先へ先へと話が進んでいくので、飽きる暇が無い。

 

主人公は庄吉という掏摸(すり)。「東京育ち」とあって、セリフもそれらしい。

例えば、「七ッ八十円はまだあると思うのだが、ちょっくら勘定してくんな。」といった調子。

 

庄吉の女房お紋は下町育ち。

「何をするのさこの人は。お前さんの実の弟はあたしにも実の弟だよ。殴(ぶ)ったり蹴ったりして、怪我させたらどうするんだい。」

情が深い。

 

ストーリーは、大雑把に言えば、庄吉に全財産を入れた紙入と財布を掏られ、一家五人(夫婦と子供三人)が心中に追い込まれる。それを知った庄吉がお金を返しに、一家を追いかけて行く。庄吉が掏摸だと知らない新聞記者に美談だと誤解され、庄吉とお紋は長屋に居られなくなって夜逃げをしていくというもの。

いつもは身なりのいい人の懐をねらう庄吉が、ヘマが続いて、つい見境なしに掏ってしまったために、夜逃げするはめになってしまったという、根っから悪い人間ではない庄吉夫婦の、むしろ人間としての魅力が生き生きと描写されたお芝居だ。

きっと、実際の舞台を見れば、幕が下りたとき、観客はみな、微笑を浮かべているのではないだろうか。胸に温かいものを感じて。

 

その舞台を想像しているうちに、上演時間が短い(幕間を除けば、おそらく1時間かからないのではないか)わりには、場面が多い。第一場と第三場は「掏摸の家」、第二場は「銭湯の前」、第四場は「上野駅入口」、第五場は「露路の口」と、装置が四杯も必要だ。

また、びっくりするのは、登場人物の多さだ。

名前の付いている登場人物は10人だが、その他に八百屋、魚屋、炭屋、古着屋、古道具屋、上野駅助役、新聞記者、写真員、お好み焼屋、出前持、チンドン屋一行、上野駅の客その他、長屋の人たち、といった具合だ。

 

上演時間が短いのに、装置の数や役者さんの数が多いお芝居をどのように上演したのだろうか? 単独で上演したのだろうか? 素朴な疑問が湧いてきて、上演記録を調べてみた。

すると、「掏摸の家」の初演は1928年(昭和3年)の4月、市村座で行われたことが分かった。

沢田正二郎率いる新国劇によるもので、「源義朝」(永田衡吉作)と「月形半平太」(行友李風作)と合わせて、三作同時上演されたらしい。

 

新国劇ならば、所属している役者さんも沢山いただろうから、登場人物が多いのも納得できる。

歌舞伎を見にいくと、場面転換が頻繁に行われる。新国劇の場合も、歌舞伎と同じように、お客さんたちは休憩や食事をとりながら、長時間、ゆっくりとお芝居を楽しんでいたのだろう。そんなのんびりとした「芝居見物」の様子が浮かんでくる。

まる

  • 2018.04.19 Thursday
  • 13:28

直線のはしとはし

遠い遠い二点

まるにして結ぼう

あんなに遠かった

二点が一点になる

 

身動きできない直線も

まるにすれば

回転して行ける

 

遠い人と遠い人とが

手をつないだとき

動きだす

きっと何かが

 

2017年3月9日

「気がつけば、こんな詩が」227

「悪人」−小説、映画、そして演劇

  • 2018.04.18 Wednesday
  • 17:00

「お芝居つまみ食い」その227

 

2018年3月29日〜4月8日

主催 テレビマンユニオン

原作 吉田修一、台本・演出 合津直枝

『悪人』

シアタートラム

 

2010年の9月、映画『悪人』(原作 吉田修一、脚本 吉田修一・李相日、監督 李相日)を見た。

映画を見たあと、原作が読みたくなって、小説『悪人』(朝日文庫)を読んだ。

映画を見たあとで原作を読むと、映画の映像が読書の邪魔をすることがあるが、『悪人』の場合、そういうことはなかった。

映画で、妻夫木聡が演じた祐一や、深津絵里が演じた光代も良かったが、小説は小説として、読む者(私)なりの祐一や光代が動いて生きているように感じられた。

 

映画を見たあとに原作を読みたくなったのは、たぶん、映画を見て、分からないことがあったからだと記憶している。

それは、二人して逃亡生活を送っていたのに、パトカーのサイレンが迫る中、祐一が「俺はあんたが思うとるような男じゃない」と言って光代の首をしめようとする場面があり、その祐一の行動の意味が、映画を見た限りでは(あくまでも私の場合だが)つかめなかった。あれはどういうことなのだろうと思い、原作を読めば、分かるのではないだろうか、そう思って、おそらく小説を手にとったのだと思う。「謎」を解きたかったのだと思う。

 

果たして、原作を読み、祐一の「心」をつかむことが出来たように思った。

祐一は自分を悪人にすることによって、光代を悪人に引きずり回された被害者に仕立てようとしたのだった。

 

映画『悪人』から、小説『悪人』へと辿っていった私だが、今度は舞台化されると知って、これはもう是非見届けなければという気になった。

しかも、出演者はたった二人だという。どうやって『悪人』を演劇化するのだろうか。そういう興味も湧いた。

 

芝居『悪人』には、映画で強い個性を放っていた、岡田将生演ずる増尾も、祐一が殺した、満島ひかり演ずる佳乃も、柄本明演ずる佳乃の父親も、樹木希林演ずる祐一の祖母も、登場しなかった。

必要最小限の人物、祐一と光代の二人だけによって、お芝居は進行していった。

たった二人でも(ものによっては一人でも)成立させることが出来るのが演劇の面白さだと、あたりまえのことだが改めて認識した。

 

美波という女優さんが、地味な衣装で光代の役を演じていたが、その容貌、躰の線、身のこなしのせいか、狭い地域の中で埋もれるようにして生きている普通の女性のようには見えないのが残念な気がしたが、お芝居『悪人』はとどこおりなく終末を迎えた。

しかし、お芝居が終わっても、そこには心を動かすものが(私には)無いように感じた。

それは何故なのだろうか、と考えた。

 

お芝居『悪人』では、祐一が警察官に取り押さえられた後のことも描かれていく。

祐一と光代は、刑務所と一般社会、別々の環境に置かれているから、対話をすることが出来ない。

したがって、祐一と光代のモノローグによって芝居が続けられる。

独りで語られたり、手紙が読まれることによって、祐一の思いや行動の意味(例えば私が映画を見ただけでは分からなかったこと)や、光代のその後の思いなどが、たしかによく分かってくる。

 

その祐一と光代のモノローグには、二人が潜伏していた場所にいよいよ警察官たちが踏み込んだあとの、小説『悪人』の最後10ページあまりの記述が部分的に使われている。

長編小説の終わり方として、最後の10ページあまりが必要なものだったとしても、お芝居の終わり方としてはどうだったろうか。

モノローグによって、事柄を整理してみせてくれても、それはもう「事後」のことであって、目の前に「ドラマ」が展開している訳ではない。

だから、お芝居の終盤が淡々としていて、盛り上がらなかったのではないだろうか。

 

そこで思ったのは、映画『悪人』の終わり方だった。映画『悪人』の終わりには、分かりやすい説明がなかった。そのために謎が残ったが、心に残るものもあった。人間の心理や行動の謎に触れたような気がして、考えさせられた。

お芝居『悪人』は、小説『悪人』の終わり方を踏襲するのではなく、映画『悪人』のやり方に倣ったほうが良かったのではないかと思う。

ただし、私のような観客もいることを考慮して、祐一が光代の首を絞めようとする、その動機が分かるように、伏線をはっておいてもらうと有り難い気がする。

 

一人立つ勇気

  • 2018.04.17 Tuesday
  • 17:04

「劇団は今日もこむし・こむさ」その227

 

このところ下火になりましたが、日本レスリング協会の栄和人強化本部長がパワハラを行ったという告発状が、内閣府に提出された問題が、一時は毎日のようにテレビで放送されていました。

レスリング協会はパワハラがあったことを認め、栄氏は強化本部長を辞任しましたが、まだ真相が解明されたとは言えないように思います。

 

今回は女子レスリングの世界でのパワハラ問題ですが、女子柔道界での暴力問題が思い出されます。

2012年末、ロンドンオリンピックに出場した選手を含めて、15人の女子選手たちが日本オリンピック委員会に告発をした、園田隆二五輪女子柔道監督やコーチによる暴力行為・パワハラの問題です。

聞き取り調査の結果、選手たちの訴えはほぼ事実だと確認されて、全日本柔道連盟は監督とコーチを戒告処分にしましたが、監督は続けさせる考えだったようです。

しかし、同時期に、大阪の高等学校で、男子バスケットボール部のキャプテンが、男性顧問から体罰を受け、自殺をするという痛ましい事件が発生して、体罰に対する世の中の批判が高まる中で、園田監督は辞任することになりました。

 

昨年から今年にかけての角界での暴力問題も、弟子の関取貴ノ岩が横綱に暴力を振るわれて、師匠の貴乃花親方が相撲協会と対決の姿勢を見せたものの、当の貴乃花部屋の力士が、付け人に対して暴力をはたらいてしまったために、なんとなくしりつぼみの状況になってしまいました。角界の暴力問題も、それだけ根が深いということなのだろうか、と思わざるを得ません。

 

2012年から2013年にかけて、女子柔道界の暴力の問題がクローズアップされていた当時、小田嶋隆氏の「体罰はわれわれの中にある」(「新潮45」2013年3月号)という文章を読みました。

大事なことを指摘していると感じて、手元に残しておきました。

 

『有り体に言って、わたくしどもの国のスポーツ界は、園田隆二的な根の上に立っている。あえて名付けるなら「パワハラの根」の上に、だ。上の人間が下の人間を恫喝し、訓育し、指導し、無理矢理に方向付けるその圧力で、われわれの国のアスリート組織は成長を果たしてきた。』

ことに大事なのは、これに続く部分です。

 

『スポーツ界に限った話ではない。企業も、学校も、部活や暴力団から政党や官僚組織に至るまで、わが国の集団は、多かれ少なかれ、土の下の見えない部分に、パワーハラスメントを含んだ人間関係を介在させており、そのパワーハラスメントがもたらす同調圧力を根っことして、上部構造を形成している。実に嫌な話だが、事実なのだから仕方がない。われわれは、この事実を直視するところから出発せねばならない。』

 

前々回、このブログで、次回は学校を舞台にしたお芝居を上演しますと書きました。

学校という現場にも、ときにパワハラが発生してしまう人間関係があります。

教師と生徒・児童、部活の顧問と部員、管理職(校長・副校長)と教諭……。一学校内で考えると、こんな関係が思い浮かびます。

 

しかし、次回のお芝居『時代』では、もう一つ、別の人間関係があると知ってほしいと思っています。

それは、教育委員会と学校、という関係です。

校長・副校長は管理職ですが、実は彼らの上には教育委員会という組織があり、その指導を受ける立場にあります。校長・副校長も管理されている訳です。

この関係の中でも、パワハラが起きる可能性があります。

 

もちろん、教育委員会といっても、区や市や町によって違いがあります。私がかつて接したことがあるのは、3つの教育委員会です。このうち、1つの教育委員会はまさにパワハラの体質を根深く持っていました。

『時代』はあくまでも創作物ですが、そんなパワハラ体質の教育委員会の下に置かれた学校に、主人公である副校長が赴任するという設定になっています。

 

パワーハラスメントは、それを行う側の人間の生き方の問題であると同時に、それを受けた側の人間の生き方の問題にもなってきます。

組織や集団の中で、特に上下の関係のある中で、個人としての尊厳を失わずに生きていくためには、ときに勇気を奮うことが必要な場面もあります。日本オリンピック委員会に訴え出た15人の女子柔道家たちも、告発に至るまでに、おそらく逡巡や懊悩など、乗り越えなければならない思いがたくさんあったと想像されます。

 

小田嶋隆氏の文章に出てきた、「同調圧力」に抗することは、現実のあれこれの場面を思い浮かべると、非常に難しいように感じます。言うのは易しくても……。

「同調圧力」に身をゆだね、その一員となる方がどんなに楽か分かりません。しかし、そうして「同調圧力」を許すことが、パワーハラスメントを容認する結果につながることにもなる。そう考えるとき、一市井の徒が、ときに勇気を持って、たった一人であっても立つことの貴重さを感じないではいられません。

初めての青来作品ー「珊瑚礁の外で」

  • 2018.04.15 Sunday
  • 20:15

「小説についての小説」その132

 

「文學界」2018年5月号に、青来有一という人の「珊瑚礁の外で」という、240枚の小説が載っていた。

 

お芝居を見に行って、我慢して見続けられなくなったときは出てきてしまうのと同じように、小説も、読み続けられなくなると、すぐに止めてしまう。止めてしまわないで読み続けると、なにかの修行になるのかもしれないが、止めてしまう。劇場を独り出てくることと比べて、読むのを止めるのはとても簡単な行為なので、どんどん止めてしまう。

「珊瑚礁の外で」は読むのを止めなかった。312ページの雑誌のうち、「珊瑚礁の外で」だけで79ページを占める長い作品だったが、興味深くて最後まで読んだ。

 

青来有一という作家の作品を読んだ記憶が無い。

青来有一の作品を読んだことがあれば、すぐ了解したのかもしれないが、初めて青来作品に触れたので、基本的なことを知るまでに何ページかを要した。

 

語り手である「わたし」は珊瑚礁の海を泳いだりしているので、「わたし」は若い人なのだと想像して読んでいったが、そのうち、「わたし」の「母」が誕生日がきたら87歳になるという記述があって、そんなに若い人の話ではないのだと合点した。

また、「わたし」は作者とは別の人なのかと思っていたが、これも「わたしはこれまでにその口ごもりのなかに文学を探ってきた。」という文が出てきて、どうやら「わたし」=作者らしいと分かってきた。(とは言っても、完全なイコールでは決してないと思うが)

「わたし」が長崎で、公の仕事(公務員)をしていることも段々と分かっていった。

 

ある読者が、ある作品に興味を抱き、途中で止めてしまわずに、読み進めていくとき、そこにはどんな力が働いているのだろう。何が魅力、原動力になって、読もうという気持ちを持続させるのだろう。

きっと、それは人によって、作品によって、さまざまなのだろうが、今回、私が「珊瑚礁の外で」を中途で放り出さずに読むことが出来たのは、「共感」のようなものを感じたからだった。「共感」と言うと、言葉が強すぎるかもしれない。ああ、そういう感覚、あるなあという感じ、と言ったほうが正確かもしれない。

 

長崎には造船所があって、クルーズ船を造るのに、「かつてない数のガイジンたちがやってき」て、「わたし」の住むマンションの21室のうち「七室にガイジンのグループが住み始め」る。

「外国人にも、礼儀正しく、誠実で、その土地の人々に敬意をもって接していこうとする人々」もいるのだが、傍若無人なガイジンもいる。後者のようなガイジンたちと「わたし」の間の軋轢・確執・格闘が描写されていく。

 

「珊瑚礁の外で」に出てくるガイジンのような男たちに遭遇したことはないけれども、外国人の存在は日常にあふれている。町を歩いても、お店に入っても、外国人が存在し、外国語が聞こえてくる。私の最寄りのJR駅近くの商店街のうちの一つは、いつの間にか別の国のような趣になってきている。

外国人はもう遠い存在ではなくなって、同じ町、同じマンションで暮らす状況になった。違う文化を持つ人とどう接したらよいのかが、身近な問題となってきた。「珊瑚礁の外で」を読んで思ったのは、そういう状況にあるのが今の日本なのだという感覚・実感だった。

 

「珊瑚礁の外で」で、「ああ、そうだなあ」と最も強く思わされたのは、この外国人との関係の問題だったが、ほかにも、小説のそこここで「これは」と思い、チェックした記述が多かった。

 

『相撲にもガイジンはいらない、ガイジンをいれるなら別にスモウレスリングという興行をはじめたらいい……、白鵬が懸賞金を受けとったときの、ガッツポーズまじりの下品な身振りがどうしようもなく嫌だ……』

こんな文章も飛び出してきて、思わず微笑ってしまったが、よくぞ言ってくれました。

 

戦争についての重い記述もある。

『真珠湾もあれば、ガダルカナルもあり、硫黄島もあり、沖縄もあり、東京大空襲も、広島も、長崎もある……、もちろんインパールもあり、南京入城もあり、重慶の爆撃もある……、これらはどれひとつとっても戦争の複雑さ、怪奇、混沌のあらわれであり、どれがどの原因であり結果であるか、因果関係は簡単にはわりきれない。』

 

例えばここで、日本人が受けた、非戦闘員への無差別攻撃に触れつつ、日本軍が行った重慶の無差別爆撃にも筆を及ぼしているところに、私は作者の誠実さを見たように思った。

なぞなぞ

  • 2018.04.14 Saturday
  • 13:36

ひとのために身を

削るものってなあに?

「鰹節」

と言っても

今はパック入りですね

「白墨」

チョークのことを

昔そう呼んだんです

そう「お母さん」

そう「お父さん」

変わらないはずです

たとえ今どんな事件が

起きていても

信じていますその心

 

2016年10月25日

「気がつけば、こんな詩が」226

「At The Bench」の中の一つのエピソード

  • 2018.04.13 Friday
  • 15:17

「お芝居つまみ食い」その226

 

2018年3月30日〜4月1日

脚本 A245884、演出 小林篤

『At The Bench』

APOC THEATER

 

公園に置かれた一台のベンチ。背景に一本の桜の木。

狂言回しの青年が現われ、その場所にまつわる幾組かのエピソードが展開していく。

最後には、狂言回しの青年自身の、その場所との関係が明らかになり、お芝居は結ばれる。

 

幾つかのエピソードのうち、「これは」と思うものがあった。

父親と母親、息子と娘、4人家族のエピソードなのだが、普通の家族ではないのだった。

両親と子供に血のつながりはなく、息子と娘も他人同士なのだった。

この両親は、育児放棄された子供を、自分たちの子供として育ててきて、彼らが成人した時点で、家族を「解散」しようとする。

その「解散」の日の4人が描かれていた。

 

小劇場のお芝居によくある、変に笑いをとろうとする演技が見えたり、何故か父親がギターで一曲長々と歌ったり(上演後、演者が衣裳からCDを取り出し、ロビーで販売してますと言っていた)、演技や演出に疑問は感じたのだが、このような「家族」の設定には関心を抱かされた。

 

もっと突き詰めて、幾つかのエピソードの中の一つとしてではなく、一つのお芝居として独立させてみたら、いい作品になるのではないかと感じた。

育児放棄という問題から、「家族」とは何なのか、血のつながりとは、親子とは、兄弟とは、……等々、深めることが出来るのではないかと思った。

現代の社会に切り込んだお芝居が誕生するような気がする。

 

話は変わるが、今回、客席について考えてしまった。

小劇場なので狭いのは仕方がないとして、役者が肝心の「ベンチ」に座って演技をすると、前の座席の人の体に隠れて見えなくなってしまうというのは、どうなのだろうかと思った。

すべての座席がそうではないにしろ、平場に並べられた最前列の次、2列目に座った観客は、「ベンチ」に座った役者の顔を見ず、声だけを聞くことになるのだ。

お客さんからどう見えるのか? ひょっとして見えないのではないか? 公演前の劇場での稽古の際に、座席に座ったり、いろいろ移動してみて、点検しないのだろうかと思った。

私どものお芝居では、そんな点検をしているつもりだが、もしかしたら見づらかったこともあるかもしれない。自戒しなければと思う。

アクセントについての意識

  • 2018.04.12 Thursday
  • 16:58

「劇団は今日もこむし・こむさ」その226

 

最近テレビに流れている、ペットボトルのお茶のコマーシャルで、男性タレントが「来たかったんです、この茶屋に」と言うのだが、「茶屋」の「ちゃ」にアクセントがついているのが気になっている。

「や」の方にアクセントをつけるべきだと思うのだが。

 

私ども劇団も、5作目となって、ようやく発声についての意識が演技者の中に芽生えてきている。

後ろの方の席に座ったお客さんにまで、声を届けるにはどうしたらよいのか。言葉を正確に伝えるにはどうしたらよいのか。そういったことを、出演者が自覚的に考えるようになってきた。

声が通らなければ、マイクに声を拾ってもらえばいいじゃないか、という発想をする人は幸いなことに居ない。

 

現在は台本を読み合わせている段階だが、アクセントについても、細かいチェックを入れている。

間際。おくび。主従。家老。アドバイス。カリキュラム。醍醐味。世代。……等々。

どこにアクセントを置くべきなのか、確認しながら台本を読んでいる。

発声や活舌に対する意識とともに、正しいアクセントでセリフを言わなければならないという意識が全体としてうかがえるようになり、好ましいことだと感じている。

 

第5回公演に向けての稽古回数は50数回を予定している。

仕事などの関係があり、プロの劇団のように、短期集中型の稽古が私どもは出来ない。

そこで、こつこつと、来年1月の公演に向けて、ほぼ1年がかりの稽古をしていくことになる。

テレビを見たり、ラジオを聞いたりしていても、アクセントやイントネーションの間違いに気づかされることが、近頃、ますます増えている。アナウンサーという職業の人でさえ、おかしな言い方をしている。

今までの私どものお芝居でも、間違ったアクセントでセリフを言っていたことがあるので、決して上から目線で批判は出来ない。

けれど、アクセントやイントネーションが乱れつつある世の中で、少しでも正しいアクセントやイントネーションでセリフを言えるよう、こつこつと稽古を続けていきたい。

文學界新人賞ー受賞作なしの選評

  • 2018.04.11 Wednesday
  • 21:07

「小説についての小説」その131

 

第123回文學界新人賞の発表が、「文學界」2018年5月号誌上であった。

結果は「受賞作なし」だった。

 

2593篇の応募があり、その中から最終候補に残ったのは5作。しかし、受賞作なし。

受賞に至らなくても、候補作が雑誌に掲載されることがあるが、それも無かった。

 

こんな場合でも「選評」はしっかり載っていて、受賞作なしのときの選評というのは、どんな風に書かれるのか、それはそれで興味が湧いて読んでみた。

 

選考委員の一人、川上未映子氏がこんなことを書いていた。

“佳作、奨励賞、そして受賞と、さまざまな可能性を話しあったが、どの作品にどの賞を授賞するにしても、この作品をもってデビューとすることが書き手にとっても作品にとってもよいことではないだろうという判断で最終的に一致し、今回は受賞作なしという結果になった。”

 

なんとなく分かる気がするが、本当のところは、やはり候補作を読んでみないと分からないのかもしれない。

 

永嶋有氏の選評が、最もよく「分かった」。

“でもたとえば「やけに大きく振動した」「不意に気付いた」「ふと考えた」の、「やけに」「不意に」「ふと」本当に必要かを吟味した上で書いてますか。”

ドキッとさせられる言葉だ。

 

“僕は九八年にリトルモアという文芸誌で佳作をとった際、編集者から「長嶋君、この小説には『屈託』という言葉が二回出てくるけど、一回でいいと思う」と言われたのを今も覚えてる。言葉はただあるだけで作用する。「同じ語を多用するな」って単純な話じゃないよ。単語一個一個までキリキリと自己検閲しろってことでもない。むしろダラダラした態度で書いて、なおかつ正解してくれ。”

こんな言葉を読むと、小説を書くのは難しいけれども、意欲も湧いてくる気がする。

「言葉はただあるだけで作用する。」というのも、その通りだと思う。

 

“*や空白行や「1」「2」とか章題などの区切り、本当に必要だったか、全作者、考えてみてください(全作者だけでなく、応募した全員)。”

私は応募しなかったけれど、考えてみます。

 

「受賞作なしのときの選評」も、普通の選評と同じように、当事者ではなくても得るものがあると知った。

人生

  • 2018.04.07 Saturday
  • 10:24

「一杯やろうか?」

でも

一杯で終わらない

 

「一口ちょうだい」

こっそり

二口食べたりする

 

「一度だけ」

うん

こればっかりは

一度っきり

ゆっくり噛みしめて

生きなくっちゃ

 

2014年1月12日

「気がつけば、こんな詩が」225

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