長い題名の松浦寿輝の短編小説に幻惑される

  • 2018.06.23 Saturday
  • 11:55

「小説についての小説」その138

 

また松浦寿輝が、長い題名の短編小説を「文學界」(2018年7月号)に載せている。

「途中の茶店の怪あるいは秋の川辺の葦原になぜいきなり断崖が現出するのか」

 

「二羽の鶴の怪あるいはなぜ歌仙「夕東風の巻」はたった十二句で途絶しなければならなかったのか」(2017年7月号)

「穴と滑り棒の謎あるいは老俳人はいかにしてマセラティ・グランカブリオを手に入れたか」(2018年1月号)

と比べると、少し短くなったが。

 

今回も、主人公が月岡草飛という老俳人であること、小説中に俳句が挿入されることは、前2作と変わらない。

また、月岡草飛が存在しているらしい世界が、確固とした世界ではなく、おぼろおぼろしているという点も同じだ。

 

ただし、月岡草飛が居るらしい場所は変化している。

今回は、川辺の葦原で月岡草飛がカネタタキの鳴き声を聴いている場面から始まっている。

ただし、虫の音を聴くというと風流な感じがするが、

「陰々とした鬱の気が外から、うえからかぶさってくる」

「鬱を病む人が自死するのは治りかけの時期だという」

などという記述があって、月岡草飛の精神の状況はけっして良いものではないと分かる。

 

月岡草飛が川の流れに沿って、下流に向かって歩いていくと、茶店があった。

店には、ほかの客は居らず、店主らしい痩せた老人がいるばかり。

その店でみつ豆を食べる。食べ終わったあと、

「月岡は自分がどこからどうやってこの川のほとりにやって来たのかにわかには思い出せないことに気づ」く。

 

それでも、

「病院におふくろの見舞いに行った後、ざわついた気持ちを鎮めるのにこのくらい歩かずにはいられなかったのだ。」

と、川辺にやってきた理由を思い出す。

「ざわついた気持ち」というのは、母親とは数年前に激しい言葉の応酬をしたことがあって、それが未だに尾を引いていることから来ているらしい。

 

店主がいなくなったために、みつ豆の代金を置いて、月岡草飛はまた川下に向かって歩き始める。

が、寒さも増し、足腰の痛みもひどくなって、月岡草飛は茶店に引き返す。

さいわい店主の姿があり、迎えの者を呼ぶために電話を拝借したいと言うと、電話も携帯もないと言われる。

 

「どうしたもんか……。」

と、月岡草飛が困って呟くと、店主は笑みを浮かべて、

「なら、いっそ、ここにいることにするかね」

と言う。そうして、

「儂はもういい加減、飽きた、疲れた。」

そんな言葉を残して、店主は店の奥に姿を消してしまう。

 

独り、取り残された月岡草飛は、店の外の暗闇の中に出ていく。すると……。

「すぐ眼前で地面が尽き、その先は何もない空っぽの空間で、つまり切り立った崖の突端に自分が立っていることに卒然と気づき月岡は戦慄した。」

 

題名で予告されていたように、川辺の葦原になぜいきなり断崖が現出するのだろうか。

この不思議な世界の謎はどのように解き明かされるのだろうか。あるいは謎のままなのだろうか。

 

断崖を覗き込む月岡草飛は、ふと思い出す。

「いやおふくろは十何年も前に死んだのだった」と。

母親はまだ病院で生きていたのではなかったか。その母親を見舞ったあと、心を鎮めるために川辺までやって来て、葦原の中を歩き続けたのではなかったか。

 

今回もまた、松浦寿輝の世界に幻惑されることとなった。

長い題名の、月岡草飛の登場する、つぎの短編小説が待たれる。

 

231の詩のようなもの

  • 2018.06.22 Friday
  • 17:16

「気がつけば、こんな詩が」その232

 

「これが私の詩です」と言って、ひとさまにお見せするのは恥ずかしい気がします。

自分が作ったものを、「詩」などと、銘打っていいのだろうかという疑いがあるからです

それなのに、そんな「詩のようなもの」を、なぜかずっと作りつづけてきました。

 

若い知人に勧められ、2015年の1月にこのブログを始めようとしたとき、これまでに作ってきた、たくさんの「詩のようなもの」の存在が思い浮かびました。

そこで、「気がつけば、こんな詩が」と題して、古い古いものから、ごく最近のものまで、順繰りに振り返ってみようと考えました。

 

もちろん、今までに作ってきた「詩のようなもの」のすべてを、ここに載せたわけではありません。

読んでいただく意味が少しでもありそうなものを探す作業をおこなったつもりですが、なにしろ本人の選択なので、選択眼が甘くなり、ずうずうしく231もの「詩のようなもの」を掲載することになってしまいました。

 

231番目の「光の中で」は2017年の10月のものです。

過去に作った「詩のようなもの」を振り返るのは、「光の中で」で終わりました。

 

未来にまた「詩のようなもの」ができたときに、この「気がつけば、こんな詩が」に載せさせていただくかもしれません。そのとき、また、お読みいただけますと幸いです。

 

イム・シワンの変化ー「名もなき野良犬の輪舞」

  • 2018.06.17 Sunday
  • 23:47

「お芝居つまみ食い」その232

 

2018年5月5日 全国公開

2017年 韓国映画

脚本 ビョン・ソンヒョン/キム・ミンス、監督 ビョン・ソンヒョン

『名もなき野良犬の輪舞(ロンド)』

新宿武蔵野館

 

イム・シワンが出演していると知って、映画『名もなき野良犬の輪舞』を見に出かけた。

映画『戦場のメロディ』(2015年)を見たときには、イム・シワンの役どころが、それまでのかよわい「弟」的なキャラクターから、頼れる「兄」的な存在に成長・変化していた。今度の『名もなき野良犬の輪舞』では、どのような人物を演じているのか、期待感があった。

 

イム・シワンは、さらに変化を見せていた

その「変化」については、ビョン・ソンヒョン監督が、パンフレットのインタビュー記事の中で、

「シワンさんは優等生のイメージがあったので、監督は堕落した姿を見せたいと思っていたと聞いたのですが、シワンさん自身も変わりたいと思っていたんでしょうか。」

という質問に対して、こんな風に答えている。

「シワンさんがこのシナリオを読んで、僕と一緒に仕事をしたいと思ってくれた理由が正にそこではないかと。自分を変えてほしい、変わりたいという気持ちがあったから出演してくれたんだと思います。」

 

イム・シワンが演じたヒョンスという若者は新入りの囚人。……たしかに、これまでの役柄と違っている。(映画『ワンライン』⦅2017年⦆では詐欺師を演じていたが)

 

このヒョンスに目をつけたのが、同じ刑務所にすでに服役していた、ソル・ギョングが演じる中年のヤクザ、ジェホ。麻薬密売組織のナンバー2だ。

ヒョンスがケンカをして顔に痣をこしらえると、その痣を見て、ジェホがさらっと吐く「痣まで奇麗だな」というセリフが耽美的だ。

 

この映画、はじめのうちは時系列に従って進んでいかない。刑務所内の場面と、刑務所を出たあとの場面とが、錯綜して映し出される。

この点についても、ビョン・ソンヒョン監督はこう語っている。

「私は時間通りに物語を進めるよりも、時系列が交錯するスタイルを好みます。この作品でも、複数の時間軸を並行して展開させながら、決して噛み合わない2人の主人公の信頼を描きました。」

 

監督さんはそう言うものの、(私には)映画が始まってしばらくの間、話の展開がつかみにくかった。

ところが、氷が融けるように感じた瞬間があった。

それは、まだ刑務所の中に2人が居るとき、ヒョンスが、ジェホに、自分が囚人を装った潜入捜査官だということを打ち明ける場面だった。

 

潜入捜査官といえば、香港映画の『インファナル・アフェア』三部作(2002年〜2003年)を懐かしく思い出すが、この『名もなき野良犬の輪舞』では、なんと、潜入捜査官自身が、潜入先となるべき麻薬密売組織のナンバー2に、自分の身分を明かしてしまうのだ。

『インファナル・アフェア』で潜入捜査官を演じたトニー・レオンもびっくりのストーリーだろう。

 

ストーリー的には驚きだが、このことによって、潜入捜査官と組織のナンバー2が組んで、組織ののっとりを図るという構図が明確になり、この場面以降、映画がぐんぐんと前に進み出したように感じた。

 

ということで、イム・シワンはこの映画で、囚人だけでなく、ヤクザをも演じることになり、役柄の幅がぐんと広がった。

「優等生」的に受け止められていたイム・シワンは、この映画で変わろうとした。

そして確かにイム・シワンは、たとえば『戦場のメロディ』の頼れるお兄さん的な存在から、一匹の「男」へと大きく成長をとげたと言えると思う。

 

しかし、囚人にしても、ヤクザにしても、それは本当の姿ではない。真の姿は警察官なのだ。そこが、やはりイム・シワンの演じる役らしいところだ。

 

映画の最後の最後、ヒョンスがジェホを殺害してしまうという大団円が待っている。

なぜ警察官であるヒョンスがヤクザのジェホを殺害してしまうのか。それには、ヒョンスの母親をジェホが殺したという事実を知ったからだった、という理由がついている。

ヒョンスがジェホを殺害するのは無惨なことではあるけれど、それは仕方のないことだったと、観客に納得してもらう用意がされているのだ。

それもまた、イム・シワンが演じるのに適したストーリーなのかもしれない。

 

イム・シワンにとって、この映画が、兵役前の最後の作品なのだそうだ。

兵役を終えたのちのイム・シワンは、またもう一つ変化した姿を見せてくれることだろう。

 

ゆるんできている?「が」

  • 2018.06.15 Friday
  • 22:10

「劇団は今日もこむし・こむさ」その232

 

ちかごろ気になっている言葉づかいがある。

印刷された文章では見たことがないのだが、テレビなどではよく聞くことがある。

どのような言葉づかいかというと、助詞の「が」のつかい方だ。

 

2018年6月13日夜10時から、「水曜日のダウンタウン」という番組がTBSテレビで放送された。

たまたま見た番組なのだが、その中で、高速道路を走り、サービスエリアがあるごとに立ち寄って、売店でソフトクリーム・メロンパン・アメリカンドッグの3つが売られているかどうかをチェックしていくという試みがされていた。

その際に、フリップというのか、テレビ画面に、「ソフトクリームが売ってないサービスエリアなど存在しない?」という言葉が映し出された。

 

「ソフトクリームが売ってないサービスエリア」

という言い方が、私にはおかしく感じられるのだが、どうだろうか?

 

「が」をつかうのであれば、

「ソフトクリームが売られていないサービスエリア」

と言いかえたほうがいいのではないだろうか。

こうすれば、主語を示す「が」が、正しくつかわれることになる。

 

「売ってない」という言葉をつかうのであれば、

「ソフトクリームを売って(い)ないサービスエリア」

という風に、「が」ではなく、対象を表わす「を」に変えたほうがいいように思う。

 

TBSのこの番組に限らず、このような「が」のつかい方をする人が増えているように感じる。

「が」という助詞のつかい方が、ゆるんできているのではないだろうか。

もし、私の感じ方のほうに間違いがあれば、教えていただけますと幸いです

長谷川伸「母親人形」の母親人形とは?

  • 2018.06.12 Tuesday
  • 21:21

「小説についての小説」その137

 

長谷川伸の戯曲をぽつぽつと読んでいる。

『母親人形』(朝日新聞社、長谷川伸全集第15巻)は、その題名に興味を抱いて読んだ。いったい母親人形とは何だろう?

 

『母親人形』は3幕5場、時代は慶応2年から4年にかけて。

舞台は鬼怒川渓谷、藤原村。

たくさんの人物が登場するが、中心的な人物は、博奕うちの平八と、母親のお作。

いくつかの筋の流れがある中で、平八とお作、2人のストーリーを追っていくと、つぎのようになる。

 

平八の、死んだ父親は、会津街道で一、二と言われた親分だった。

後家のお作は、息子の平八に、夫と同じような偉い親分になってほしいと願っている。だが平八はいつまで経っても三下奴(博奕うちの中で最下位の者)のままで、ウダツが上がらない。

そこで平八は世話になっていた一家に盃を返し、「いずれ、男になって帰ってきて見せてやる」そう言って、あてどのない旅に出る。……そこで、2幕目が終わる。

 

3幕目は大詰め。

2幕目から2年経ち、平八は母親の暮らす藤原村に戻ってくる。

ト書きに、時代背景が書かれている。

「慶応四年八月二十某日、雨の昼。この正月伏見鳥羽に戦いあり、江戸城明渡し終り、奥州路の諸城或は陥り、或は降り。彰義隊江戸に敗る。幕府陸軍の大鳥圭介、伝習隊、草風隊、その他を率いて歴戦藤原に駐在し、那須嶽三斗小屋の会津軍と共に、会津南口(日光方面)を堅守して四ヵ月、その間数回の小戦闘を交えている。」

 

藤原村に駐留しているのは幕府陸軍や伝習隊、草風隊など

一方、平八は今、新政府軍=西軍の軍事探偵(間諜)になっていて、幕府陸軍や伝習隊などとは敵対の関係にある。

 

2年ぶりに再会した平八とお作。

母親のお作は平八を見て、「まさかお前、渡世人にならなかったのではあるまいね。」

と訊く。

すると平八は、「なったよ、なりはなったが、矢張りうまく行かねえので、済みません、廃(や)めちゃった。」

と答える。

母親は、「あたしは、この眼で、お前が立派な男になったのが見たい、その他に慾も得もないんだ。それだのにお前は、元の通りの意気地のない男で帰ってきたんだね。」

と嘆き、

「親不孝者、もう会わないよ。」

そう言って去っていってしまう。

 

大詰めの第二場と第三場はさしずめ、大スペクタクルだ。

『母親人形』は1932年に書かれ、1935年の12月に、島田正吾・辰巳柳太郎・久松喜世子によって上演されたそうだが、お客さんたちは舞台に組み上げられた大道具に圧倒され、その臨場感に興奮したのではないだろうか。

そのくらい、装置の指定が大掛かりだ。

 

第二場の装置は、

「断崖と断崖との中途にある巌の上。」

「崖の下深きところに鬼怒川の流れがあり、その左右がやや遠くに見えている。」

平八は、一度幕府陸軍の隊士に捕らえられたが、ほうほうの態でこの崖の中程まで逃げてくる。

 

第三場は、

「渓谷、鬼怒川の流れと河原。/巨大な巌石ところどころにあり。」

そこへ、息子の平八を探して母親のお作が現われる。

「お作、巌頭に起ち、崖を仰ぎ、平八の在所(ありか)を知ろうとしている。」

お作「平八――平八――平八やあ。」

草風隊や伝習隊の隊士たちがつぎつぎと敗走していく姿も見える。

 

と、平八の姿が、崖の中腹に見える。

ラストのト書き。

「母子相寄らんとすれど、崖の嶮(けん)に隔てられる。/平八、草蔓をたよりに降りんとす。/お作、巌角を踏みて平八を扶けんとす。/勝利を獲たる西軍の行進曲は甚だ遠く聞え、トコトンヤレナ節が次第に近づき、新式歩兵部隊の足音遠きより近づく。」

平八「おッかあ。」

お作「平八や、平八や。」

 

このように、『母親人形』は、息子と母親の情愛が色濃く描かれている。

息子の母親への思慕というと、同じ長谷川伸の『瞼の母』(1930年発表)が有名だ。

その2年後に、長谷川伸は母親と息子が互いの身を案じ合う姿を『母親人形』で造形したことになる。

 

ところで、『母親人形』という題名についてだが、2年の時を経て再会した母親に、上で、すでに引用したように、「お前は、元の通りの意気地のない男で帰ってきたんだね」と言われとき、平八はこんな言葉を思わず吐く。

「おッかあは元と同じで、俺を、自分の思う通りの人間にしてみてえのか。おッかあ、そりゃいけねえ、俺はおッかあの人形じゃねえからねえ。」

 

このセリフから、「母親人形」の意味が理解できる。

……俺は母親の人形じゃない。

ここから、すぐに連想されるのが『人形の家』だ。

ヘンリック・イプセンが書いた戯曲。人形のように愛されていた妻ノラが、夫の弁護士ヘルメルから自立していく姿を描いた有名な作品。

 

ひょっとして長谷川伸の頭の隅に、『人形の家』があったということはないだろうか?

『人形の家』は、日本では1911年に帝国劇場で上演され、ノラは松井須磨子が演じたとのことだ。

1911年(明治44年)というと、長谷川伸はまだ都新聞社の記者をしていた時期にあたるが、芝居好きだった長谷川伸が『人形の家』を見ていた可能性が無いとは言えない。

仮に見ていないにしても、『人形の家』という作品についての知識があり、そこから「母親人形」という題名が思い浮かんだのかもしれない。

あくまでも空想に過ぎないけれども。

 

光の中で

  • 2018.06.05 Tuesday
  • 14:05

夜の蛍光灯の下

見えなかったほこりを

朝の薄日がくっきりと

浮かび上がらせた

 

明るいから

見えるとは限らない

明るいから

見えないものもある

 

光に満ちたこの世界

見なければ

いけないものを

私はきっと見ていない

 

2017年10月9日

「気がつけば、こんな詩が」231

「ビガイルド」と「テオレマ」の構図

  • 2018.06.04 Monday
  • 22:42

「お芝居つまみ食い」その231

 

1968年製作 イタリア映画

原作・脚本・監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ

『テオレマ』

 

池袋のシネマ・ロサでソフィア・コッポラ監督の『ビガイルド』を見て、パゾリーニの『テオレマ』を思い出した。

帰宅して探してみると、1970年の5月、日比谷のみゆき座で買った『テオレマ』のパンフレットが残っていた。

 

『ビガイルド』は南北戦争のとき、男子禁制の寄宿学園の建物の中に助け入れられた負傷兵が、学園内の女性たち・7人全員に影響を与えていく。

『テオレマ』はミラノのブルジョア家族の中に、見知らぬ青年が加わり、父親・母親・長男・長女・女中の5人それぞれと関係していく。

その構造が同じであることに興味を抱いた。

 

『ビガイルド』の原作小説はトーマス・カリナンという作家が書き、1966年にアメリカで出版されたそうだから、1968年に製作された『テオレマ』より2年、世に出るのが早かったことになる。

だから、もしかしたらパゾリーニは『ビガイルド』の原作を読んでいたかもしれない。そんな想像をするのも面白いけれども、実際どうだったのかは分からない。

 

『ビガイルド』の舞台がキリスト教の寄宿学園であり、その生活と信仰とは切っても切り離せない関係にある。

また、パゾリーニは無神論者であるとされているけれども、それだけに、逆に、避けて通れない問題として、『テオレマ』でも神の問題が追究されている。

構図だけでなく、映画の土台に宗教があるように感じられるところも、2つの作品に共通している点だ。(とは言っても、もともとキリスト教圏の人々が創り出すものとキリスト教の問題は不可分なのかもしれないが)

 

それにしても、50年前に撮られた『テオレマ』は破壊的であり、衝撃的な作品である。

『ビガイルド』の負傷兵は、最後に攻撃性を露わにするのだが、そういった破壊とは次元の違う破壊を、『テオレマ』の青年はもたらして去るのである。

 

青年と関係を持った父親・母親・長男・長女・女中のすべてが、青年が去った後、激しい変化をとげていく。

火山の荒地を全裸で歩き続け、咆哮する父親。

若い男に身をまかせ、青年との官能の記憶の中をさまよう母親。

青年を思い出させる青い絵の具を使い、抽象画を描く長男。

原因の分からない硬直状態を起こし、精神病院に入院する長女。

工事現場の泥の中に、自らを「埋葬」する女中。

 

『ビガイルド』の女性たちは負傷兵の遺体を寄宿舎の外に放り出したあと、再び、敬虔な信仰の日常の中に戻っていくが、『テオレマ』の5人の登場人物にはそんな安寧は誰一人もたらされない。

 

『ビガイルド』は負傷兵を受け入れたが、結果的には彼を排除することによって女性たちは日常を取り戻した。

一方『テオレマ』は、青年を受け入れたことによって、家族たちの日常は崩壊・消滅して、咆哮と、狂気と、自裁と、芸術の闇の中に堕ちていく。

 

こう考えると、『ビガイルド』と『テオレマ』の構図は、正確には、同じとは言えないものだということが分かった。

 

監督のピエル・パウロ・パゾリーニは『テオレマ』発表から7年後の、1975年に53歳で亡くなっている。

まるで『テオレマ』の登場人物のその後を監督自身が具現化したのかと思われるように、殺害というかたちでパゾリーニは死んだ。

日大の「加害者」の選手の会見と林真理子氏の言葉

  • 2018.06.03 Sunday
  • 20:09

「劇団は今日もこむし・こむさ」その231

 

5月6日に、日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの試合が調布で行われ、そのときの映像がテレビに何度も何度も映し出された。

日本大学の選手が走っていって、ボールを投げ終わった関西学院大学の選手の両足に後ろから飛びついて倒すなどしている映像。

その日大の選手の行為によって、関学大の選手は3週間のけがを負い、「事件」になった。

 

アメフトは格闘技なのだそうだが、それにしても審判が笛を吹いたあとに、日大の選手は関学大の選手を倒しにいっている。誰が見てもおかしいと思う映像だ。

と思っていると、なんと、そのルール違反をした日大の選手が名前も姿も晒して、記者会見をおこない、謝罪をした。その会見もテレビ中継されて、私も見た。

 

その中継が始まる前、私は(勝手なことだが)心配していた。まだ若い大学生で、しかも加害者の立場での記者会見である。受け答えができなくて、ぐちゃぐちゃな状態になってしまうのではないかと案じていたのだ。

ところが、それは杞憂だった。

 

日大の選手は監督・コーチから、関学大の選手を「つぶせ」という指示があったとは言ったものの、最終的にはその指示に従ってしまった自分が悪かったと話した。今後、アメリカンフットボールをやる権利が自分には無いとまで言った。反省の深さが伝わってくる言葉だった。

 

私が感心したのは、日大の選手が、常に「わたし」と言っていたことだ。「自分」でもなく、「俺」でもなく、「僕」でもなかった。彼が読み上げた陳述書の主語が「わたし」だったので、その続きで、質問の時間に入っても「わたし」という言葉を使っていたのかもしれないが、いろいろな質問をされる中で、普通であれば、つい「俺」とか「僕」とか言ってしまうだろうに、そんなことは一度もなかった。

 

父親を「父」、母親を「母」と呼んでいたことにも好感を抱いた。

すぐには答えられないような質問は、よくよく考えて、長い間が空くことを恐れずに、ゆっくり答えていることにも、腹がすわっている印象を持った。間が空くのを恐れて、心にもないことや、いいかげんなことをへらへらとしゃべりちらすことが一切なかった。

 

その後、関東学生連盟が日大の監督・コーチを除名処分にしたが、日大のアメリカンフットボール部がこれからどのように生まれ変わっていくのか、また警察の捜査はどのような事実を明きらかにするのか、「事件」はまだ終わっていないように見える。

 

ところで、「週刊文春」2018年6月7日号のページをめくっていたら、林真理子がコラムで、この「事件」を取り上げていた。

文章の終わりに、このような「事件」を起こした日大について(林真理子氏は日大藝術学部卒)、3つの「解決策」を挙げている。

 

解決策の「その1」は、「加害者」となった日大の選手に、別の大学で楽しくアメフトをやらせてあげてほしいというお願い。

「その2」は、日大の理事会を解体すること。

 

3つ目は、『こうなったら学生諸君、ぜひ起ち上がってほしい。』と書いている。

『私は経験していないのであるが、七〇年前後に学生運動という大きなムーブメントがあった。その中でも注目を集めたのは「日大闘争」。学生側が大衆団交して、トップに退陣を迫ったのだ。警察も介入して、あの頃は凄い騒ぎだったと記憶している。

 どうか学生の方々、今のその怒りを集めて、学校側に向けて欲しい。』

 

林真理子氏は1954年生まれだそうだから、70年安保を直接体験してはいないのだろう。そのせいかもしれないが、つぎのような、コラムのシメの言葉が、私にはちょっと(いや、だいぶ)軽く感じられてならない。

 

『ここだけの話であるが、学生運動というものはものすごく楽しかったらしい。かかわった人みんなそう言う。「世の中を変える」という大義はあるものの、石投げたり、スクラム組んだり、毎日がお祭り騒ぎ。血沸き肉躍る日々。クラブ活動やバイトなんかよりずっとずっと楽しい。今だったら日本中が応援するよ。』

 

林真理子氏の周囲の、学生運動の経験者は「楽しかった」とみんな言うそうだが、本当だろうか? 本当に、その人たちは経験をしたのだろうか? したとしても、どの程度の経験をしたのだろうか?

「ものすごく楽しかった」と、どのような顔をして林氏に彼等、彼女等は語るのだろうか? 私には、そんな、現在70歳前後の人たちの顔が想像できない。もし目の前に、そういう人が本当に現われて、「楽しかった」などと言ったとしたら、私はきっと黙っていられないと思う。

 

日大の学生さんたちが立ち上がるのは賛成だ。しかし、その方法は70年安保の頃の運動の仕方と同じでいいわけがない。

お祭り騒ぎ。血沸き肉躍る。……林真理子氏が誤解している(と思う)イメージを再現することには意味が感じられない。

むしろ、記者会見に臨んだ、「加害者」の日大の選手のような、真摯な態度に学ぶことの方に、意味があると、私は思う。

 

「戦争を知らない子供たち」と戦争

  • 2018.05.29 Tuesday
  • 20:49

「小説についての小説」その136

 

2018年1月に亡くなった評論家の西部邁氏。

どうして氏は自ら死ぬ道を選んだのか、その訳を少しでも知りたいと思って、死の直前、2017年の12月に上梓された『保守の神髄』(講談社現代新書)を読んだ。

そのことは「劇団は今日もこむし・こむさ」その228に書かせていただいた。

 

ここでは、『保守の神髄』を読んで「これは」と思った別のことについて触れたいと思います。

 

氏が、

「人工死に瀕するほかない状況で病院死と自裁死のいずれかをとるか」

と題して書いているのは、第四章の第十節、最終節なのだが、その一つ前の節の題は、つぎの通りだ。

「人生の最大限綱領は一人の良い女、一人の良い友、一冊の良い書物そして一個の良い思い出」

 

この言葉は、ギルバート・キース・チェスタトンというイギリスの作家・批評家(1874〜1936)が言ったらしく、西部氏はこう紹介している。

『彼がマキシマム・プログラム(最大限綱領)という言葉を使ったのは、当時、社会主義者たちがその言葉を頻用していて「我々の最大限綱領は世界社会主義革命である」などとほざいていたことにたいする皮肉としてであろう。つまり身近のことにおいてすら女性、友人、書物、思い出において良いものを獲得するのがどれほど困難かということに思いを致せば、世界革命のごときは誇大妄想にすぎないと彼はいいたかったに違いない。』

 

つづけて、西部氏はこう言っている。

『述者はこのいわば「人生を良いものにする四点セット」について若者たちに語りかけたことがたぶん十回はある。そして述者自身の判断も含めてこの四点セットを獲得する難易度を難しい順から並べてみると、思い出、友人、女性、そして書物の順になる。』

と。

 

私が「なるほど」と思ったのは、西部氏が難易度のより高いものとして「思い出」と「友人」を挙げている、その理由だった。氏はこう書いている。

『――思い出や友人を得るのが難しいのは(戦争のような)死活の場面を共有することが少なくなったからだ――。』

 

西部氏のこの言葉から、私は「戦友」というものを思い浮かべた。「友人」と「(戦争のような)死活の場面」という言葉からの発想だった。

戦後生まれの私は、一緒に大変な時期を乗り越えた人を「戦友」と思ったりすることはあっても、その「戦友」はあくまでも比喩に過ぎない。

しかし、そんな私の親の代はどうだったかというと、兵役についていた父親には、間違いなく「戦友」が居た。この違いは大きい。

 

戦友に限らず、戦争を肌身で知っている人(世代)と、知らない人(世代)との違い。

50年近く前、まさに戦争を知らない子供として、北山修作詞・杉田二郎のフォークソング「戦争を知らない子供たち」を朗らかに歌ったりしたものだが、戦争を知っていることと、知らないこととの違いなど、当時は何も分かっていなかった気がする。

 

たとえば、小説で「戦友」について書こうとする。しかし、自分には「戦友」を持った経験がない。だから書けない。だが、書こうとする小説には「戦友」がどうしても必要だ。必要だが、難しい。

 

難しいが、たとえば1979年生まれの高橋弘希氏が、『指の骨』で、戦時中、野戦病院に収容された兵士を書いていた。(2014年の新潮新人賞を受賞)

新潮社から出版された本の帯には、桐野夏生氏のこんな言葉が印刷されていた。

『戦争を知らない世代でも「戦争」を書けることは、この作品が証明した。そう、これが戦争だ、と誰もが震撼することだろう。』

 

1958年生まれの青来有一氏も、「文學界」2017年1月号に発表した「小指が燃える」の中で、パプア・ニューギニアのジャングルを逃げていく兵士をリアルに描いている。

『わたしはときどきはるか南方の孤島のジャングルをふらふらとさまようことがあります』という青来有一氏の小説。

芥川賞受賞作品の「聖水」をはじめ、まだ読んでいないたくさんの作品の中で、またジャングルをさまよう敗残兵たちに出会うことになるような気がします。

 

つまりは経験の有無ではないということなのでしょう。

書こうとする小説に「戦友」が必要であるのなら、とにかく書かなければならない。

そんな風に、西部邁氏の言葉から、まわりまわって着地しました。

いつまでも、「戦争を知らない子供たちさ〜」と歌っているわけにはいかないようです。

 

贈り物

  • 2018.05.28 Monday
  • 13:39

幼い日 母と手を

つないだ記憶がない

まして成人後 そんな

機会など皆無だった

母と手をつなげたのは

母が息子の顔を忘れた

あの日からだった

血管が浮き上がって

染みだらけの だけど

やわらかな母の手

私は思う存分その手を

握って歩けた あれは

認知症の母がくれた

贈り物だったと今思う

 

2017年7月16日

「気がつけば、こんな詩が」230

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