忘れもの

  • 2017.08.18 Friday
  • 17:51

何かを置き忘れてきたような気がする

初めて借りた六畳の部屋の中に

 

何かを置いてくるのを忘れてきたような気がする

かつての教え子たちの心の中に

病に倒れ亡くなった

父や母との暮らしの中に

 

置いてきたことよりも

置いてくるのを忘れたことの方が多い

そんな気がする

二十世紀の終わり

 

(1999年11月5日)

「気がつけば、こんな詩が」201

演劇って、こういうものなのだろうか?

  • 2017.08.17 Thursday
  • 18:49

「お芝居つまみ食い」その201

 

「テアトロ」2017年8月号に高橋豊という方の、「現代の女性劇作家が描く戦争」という文章が載っていました。その中で、高橋氏は石原燃氏の「白い花を隠す」について、このように書いています。

 

“今年、Pカンパニーで発表した『白い花を隠す』が佳品だった。〇一年、旧日本軍による「慰安婦」制度を裁く女性国際戦犯法廷が開かれたのだが、NHKによるドキュメンタリー番組は、政治家による圧力を受け、ずたずたに改編された。石原は実際に制作した会社のプロデューサー、ディレクターに焦点を当てた。「従軍慰安」問題は、その頃より日本でもっとタブーになっている。演劇という手法による問題提起がよく活きていた。”

 

これを読み、「ああ、やっぱりなあ」と感じました。

 

戯曲「白い花を隠す」は、「テアトロ」の2017年5月号に掲載され、私も読みました。

この戯曲を読んだ私の感想は、「演劇って、こういうものなのかなあ」という疑問でした。

 

「白い花を隠す」で、最初に「女性国際戦犯法廷」という言葉が出てくるのは、制作会社のディレクター・雅彦と、その後輩・谷の会話の中です。

 

“雅彦 女性国際戦犯法廷。

 谷 あれ、旧日本軍の戦争責任裁くんですよね、「慰安婦」にされた人たち世界中から集めて。

 雅彦 民衆法廷だよ、市民団体が提唱した。

 谷 要は東京裁判で裁かれなかった罪を裁こうって話ですよね。

 雅彦 国際的にも注目されてるらしいよ。ついに日本が天皇裕仁の戦争責任を問うって。“

 

この制作会社が、MHK(NではなくM)で放送する、女性国際戦犯法廷のドキュメンタリーを撮ることになります。

ディレクターたちは、この疑似的な「法廷」を意義のあるものとしてとらえています。ですから、MHKの指示によって、いろいろと内容の変更をさせられることを、当然、理不尽なことと考えます。

そして、その背景には、MHKの会長の姿勢や、政治家の圧力や介入があるのだと、この戯曲は書き進められていきます。

 

もちろん、この戯曲を読んで、また、実際の上演を見て、共感したり、感動したりする人はいると思います。

ですが、中には、「女性国際戦犯法廷」についてよく知らなかったり、意見を異にする人もいるはずです。

「白い花を隠す」では、「女性国際戦犯法廷」を、疑うことなく良いものとして書かれていましたので、私は読後、「演劇って、こういうものなのかなあ」と感じてしまった次第です。

 

私は、演劇というのは、もっと広くて、深いものではないかと思っています。

「広さ」というのは、一つの立場や考え方からだけ物事を見るのではなく、別の立場や考え方からも見る、そういう広さです。

「深さ」というのは、観念で「理解」するだけでなく、感覚や感情、もっと言えば、魂に熱く触れてくるような演劇的な体験、そういう深さです。

 

自分が思っているような演劇を、私が創り得ているとは考えていません。けれど、そんな演劇を目指して、細々とではありますが、お芝居作りをしていこうと思っています。

どうして、「広くて、深い」演劇にこだわっているのかといいますと、かつて若いときに、「狭くて、浅い」演劇を作ったという苦い思いがあるからです。

 

40数年ぶりに、再びお芝居作りを始め、昔のように現代演劇をまた見に出かけるようになりました。演劇の雑誌なども、若い頃のように読み始めました。

お芝居を見、本を読んで、また「勉強」をしてみると、時代の変化を感じるとともに、なんだか全然変わっていないなあと感じることもあります。

 

今の、新しいお芝居を見ても、「なんだか昔の新劇のままだ」と思ったり、現在の劇評を読んでも、「なんだか、変わらないなあ」と思ったりします。

冒頭に引用した、高橋豊という方の「白い花を隠す」の劇評にも、そんな感想を抱きました。それで、「ああ、やっぱりなあ」と心の中でつぶやいてしまった訳です。

 

しかし、その一方で、確実に「前に進んでいる」と実感できる舞台にも出会ってもいます。私などが手本にしたい劇作家もいますし、演出家もいます。かつての新劇の名優の上を行くのではないかと思われる俳優の演技に、接することもあります。

ですから、希望は捨てずに持ち続けています。

天皇陛下のご意思と法整備

  • 2017.08.13 Sunday
  • 18:07

「劇団は今日もこむし・こむさ」その201

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」は衆議院では自由党以外のすべての党が賛成して可決され、参議院でも自由党の議員は投票しなかったようで、投票者数と賛成者数はイコールになっています。

 

普段、自分や自分の党の考えを頑迷に主張し続ける人が多く、議論らしい議論になっていかないので、国会は大切なところだとは思うものの、空しい場所であると感じています。

ところが、「皇室典範特例法」については、各党も派手なパフォーマンスを見せることもなく、静かに、大人の対応をしたらしく、ほぼ全員一致で可決されました。

 

安全保障についての法を「戦争法」と言ったり、組織的犯罪についての法を「共謀罪」と言ったりして、反対の意志を表明する人々やマスコミも、今回の「皇室典範特例法」については、穏やかな対応をしているように見えました。

 

このような日本の状況は、国民の考えの成熟の現れとして、果たして喜ぶべきことなのだろうかと、私は考えています。

そんなときに、読んでいた雑誌で、「ああ、こんな考えもあるのだ」と教えられました。

 

雑誌は「正論」2017年5月号。「メディア裏通信簿」と題する、匿名の座談会形式の読み物を読んでいたところ、こんな言葉が目に入ってきました。“教授”という出席者曰く、

『天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義があるわけですから……』

このようなはっきりとした意見を目にするのは、初めてのことでしたので、思わず惹きつけられました。

 

“編集者”という出席者がこう言います。

『しかし、あれは天皇陛下の直接の決定ではなく、陛下のお言葉に共感する国民の声を受けた国会が、高齢化なども考慮して、提言したという論理になっているわけでしょう。しかも、特例法だけではなく、皇室典範もちょっと書き換えて、一体のものとして法整備しようということですから、憲法違反にならないように、論理を整えていますよね。』

 

すると、“先生”という出席者が“、編集者”に反論します。

『そういうのを屁理屈というんだよ。実際はみんな、「天皇陛下のご意思だから」と法整備に動いたんじゃないか。こんなことがまかり通るなら、今後、「国民が共感している」という理屈をつければ、天皇の政治的意思を実行に移すことが、どんどん可能になる。そうなれば、天皇は国民統合の象徴ではなく、権力者になる。それでいいのか。』

 

たしかに、「天皇陛下のご意思だから」という気持ちは、「みんな」にあったように感じます。

 

この話題の言い出しっぺだった“教授”が、また言います。

『摂政設置や国事行為の代行という選択肢もあると指摘されているのに、あえてその方法をとらず、退位にこだわったのは、天皇陛下が摂政に否定的だったからでしょう。そういう意味でも、退位制度は国民や国会の意志という理屈には無理があるでしょうね。』

 

私たちが選んだ国会議員たちが、そろって賛成して成立した法律。

国民の代表たちによる決定は尊重しなければなりませんが、決定したからそれで終わり、考えるのも止める、ということにしたくありません。

 

今回、月刊誌を読んで、『天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義がある』という考え方もあることを知りました。ほかの考えもまたあるのでしょう。

もうしばらく、この問題について考え続けていきたいと思っています。

『劇場』の主人公は誠実?

  • 2017.08.12 Saturday
  • 14:33

「小説についての小説」その106

 

又吉直樹の『劇場』(新潮社)について何回か書いてきたのですが、「新潮」2017年7月号の、佐藤優氏の批評「内在する罪 又吉直樹『劇場』論」を読み、また書きたいと思いました。

 

佐藤氏は、『劇場』には「表層のストーリー」があるとしています。そのストーリーとは、「関西から出てきた演劇青年の永田が、女優を夢見て青森県から上京してきた沙希と出会い、同棲し、別れるという過程を描いた恋愛小説」としての話です。

 

しかし佐藤氏は、『劇場』はそれだけではなく、「なぜ誠実に考え行動するのに愛が成就しないのかという人間存在の謎に又吉氏は迫」っていると、書いています。

私はこの、「誠実に考え行動するのに……」という言葉に、思わず「えっ、誰が?」と疑問を抱きました。

佐藤氏は主人公の「永田」が、誠実に考えて行動していると言うのですが、私の小説を読んでの印象は反対です。誠実な男にはとても思えません。

 

このブログの「その103」で、『劇場』のこんな部分を引用しました。

「その夜、新宿に寄ったついでに紀伊國屋に寄ってみると好きな作家の新作が掲載された文芸誌が並んでいたので、奮発して買うことにした。

 金がない、金がないと言いながら、家賃も支払わずに自分の好きなものばかりを買っていることを、後ろめたく思う気持ちはあったが、がまんしようとは思えなかった。喫茶店の『西武』に行きカレーを食べながら目当てのものをゆっくりと半分ほど読み、ページが折れたりしないように気をつけながらリュックの奥へと隠すように押し込んで家に帰った。」

 

「文學界」2017年7月号の「味な小説」というコラムで、トミヤマユキコ氏がこんな「永田」に対して、ツッコミを入れています。

「彼女の家に転がり込んでいる劇作家の男が、新宿の喫茶店『西武』でカレーを食べるくだりがあるが、彼女のヒモとして生きている男に、西武のカレー(700円)は贅沢というものである。ココイチ(カレーハウスCoCo壱番屋)で我慢しろと言いたい。」

 

トミヤマ氏は「又吉作品に登場する男たちの哀しさ」の一例として、こんな「永田」の行動を挙げているのですが、「哀しさ」という表現に同意は覚えても、佐藤氏の使った「誠実」という言葉は当たっていないように思います。

 

「永田」が誠実かどうかは置いておき、又吉直樹が『劇場』で追究したと佐藤氏が言う「人間存在の謎」とは何なのでしょう?

 

佐藤氏はこう分析しています。

「人間の言葉は本質において悪をはらんでいるという自覚を永田は持たない。そのことに無自覚だから、永田は、沙希との愛をフィリアにおいてもエロースにおいても満たすことができない。」のだと。

(フィリアとは「友人の友人に対する愛」、エロースとは「何かに渇望する愛」だそうです。)

 

佐藤氏は「マルコによる福音書」からイエスの言葉を引用したあとで、

「人間の言葉には罪が内在している。この罪は、悪という形をとって現れるのだ。」

と述べています。

そうして最後に、このようにまとめています。

「『劇場』は、人の中から出て来る言葉が、人を汚す力を持つことを自覚せずに言葉を操ることを試み、悪の引力圏に引き込まれてしまった男の悲劇を描いている。」

 

こうして佐藤氏の批評を読み返してみると、人間の言葉に「内在する罪」に無自覚であったことが悲劇を生んだという、その論理は通っていて、明晰であると感じます。

けれども私は、「内在する罪」の前に、「永田」の具体的な言動に「罪」はあったと考えます。

「内在する罪」以前に、「永田」は分かりやすく、目に見える形で、間違った言動、罪を重ねていたと思います。

もしこれが「悲劇」であるとすれば、自分自身がまいた種が「悲劇」をまねいたに過ぎないのではないでしょうか。

 

 

 

うつつ

  • 2017.08.11 Friday
  • 13:17

生花に見える造花よりも

造花に見える生花が

恐ろしい

 

人間のような動物よりも

動物のような人間が

溢れている

 

子供ような大人が

大人じみた子供を

育てているらしい

 

現実にせまる小説よりも

小説のような現実が

日々を重ね……

 

幻のような日々

確かに生きてだけはいる

私たち

 

(1998年6月19日)

「気がつけば、こんな詩が」200

成河の”様式”的な演技ー「子午線の祀り」

  • 2017.08.09 Wednesday
  • 21:59

「お芝居つまみ食い」その200

 

2017年7月1日〜23日

世田谷パブリックシアター開場20周年記念公演

主催 公益財団法人せたがや文化財団

作 木下順二、演出 野村萬斎

「子午線の祀り」

世田谷パブリックシアター

 

歌舞伎の役者さんが、現代劇の公演に出演するのは珍しいことではありませんが、現代劇の中であっても、歌舞伎風の演技をするパターンは、(私の観劇経験の中では)あまりないように思います。

2013年9月にさいたま芸術劇場で見た「ヴェニスの商人」(蜷川幸雄演出)では、シャイロックの役を、市川猿之助が歌舞伎風に演じていました。

2016年3月の「ETERNAL CHIKAMATSU」(作 谷賢一、演出 デヴィッド・ルヴォ―、シアターコクーン)では、中村七之助が女形の演技で出演していました。

 

歌舞伎が好きな私ですが、現代劇の中で、歌舞伎の役者さんが、歌舞伎風の演技をしているのを見ると、どうしても違和感を覚えてしまいます。

一つのお芝居の中に、歌舞伎風の演技をする役者さんと、普通の現代劇の演技をする役者さんとがいると、落ち着かなくなります。二つの演技の方法がぶつかり合ってしまい、まとまった一つの作品として受け止めにくくなってしまいます。

 

7月に見た「子午線の祀り」は野村萬斎が演出し、自ら新中納言知盛の役も演じていました。

「子午線の祀り」は1979年の初演のときから、能や狂言、歌舞伎の役者さんたちが参加して創られてきたそうで、今回も狂言師の野村萬斎をはじめとして、前進座の女方・河原崎國太郎、八世観世銕之丞の長女の観世葉子などが出演しています。

 

私が気になったのは、野村萬斎の演技でした。もちろん、その演技は狂言の演技とは別なのでしょうが、セリフの言い方が狂言のようでした。

一貫して、狂言風の、様式的なしゃべり方をするので、(私には)新中納言知盛という「人間」がなかなか見えてきませんでした。

 

実は、なぜ「子午線の祀り」を見に出かけたかといいますと、それは、成河が出ていたからでした。成河が「子午線の祀り」に出演し、しかも役は九郎判官義経だといいます。いったい、どんな演技を見せてくれるのだろうかと、期待して行きました。

 

驚きました。成河は、狂言風というのか、歌舞伎風というのか、高いキンキンした声を張り上げて、セリフを言っていました。

野村萬斎は、「悲劇喜劇」2017年7月号で、インタビューに答えて、義経役および成河について、こう語っています。

 

「義経役は今まで狂言師である私の父や歌舞伎役者の市川右近さん(現・市川右團次)、前進座の嵐広也さん(現・嵐芳三郎)が務めており、ある種の様式美が要求されます。成河さんはその様式美に関心を持っている現代劇の役者さんです。」

 

「様式美」……なるほど、成河の演技は、これまでに彼が演じてきた役(と言っても、私が見ることのできた範囲内でのことですが)とは、全く違うものでした。たしかに、伝統芸能を思い起こさせる「様式」がそこに在りました。

しかし、「アドルフに告ぐ」や「スポケーンの左手」で成河の演技に接して、圧倒的な熱量や狂気を感じた者としては、その「様式」をもぶち破って成河流の義経が創れたのではないか、創ってほしかったと思うのです。

 

成河自身は、この義経役をどう考えていたのでしょうか?

「シアターガイド」2017年7月号のインタビューで、こんなことを語っています。

「この作品って、日本のいろいろな演劇様式を一つの鍋の中に入れた、一大実験なんですよね。大別すると、伝統芸能の人たちがやってきた古典的な語りの様式と、新劇の人たちが得意とする西洋的な対話の様式の二つが存在していて、それをどう一つにできるか試みている。」

 

そうして、自分の演技に関してはこう言っています。

「いろいろな表現に興味を持って渡り歩いて、明確に差し出せる様式を持たない僕のような人間が参加することで、何が起こり、何を面白がってもらえるか、心配でもありますが、少しでも伝統芸能の様式を学んだ上で臨みたいですね。」

 

「少しでも伝統芸能の様式を学んだ上で臨みたい」

そうか、真面目だなあ、と思います。

 

インタビュアーが「新たな成河さんを拝見することができそうで楽しみです。」と水を向けると、成河はこう答えていました。

「ただこれは、萬斎さんの演出の方向性にもよること。“自分がどこまでできるか”という成果も個人的には大事ですが、順番としては“萬斎さんの世界の中で自分に何ができるか”が最も重要です。」

 

プロの役者さんとして、このように考えることは正しいのかもしれません。それにしても真面目だと思いますが……。

インタビューの最後は次の通りです。

 

「萬斎さんやいろいろな様式を持った共演者の皆さんと、たくさんのことを話し、試し、失敗も重ねながら、別の様式に歩み寄ったり、自分の方に引き戻したりという作業をし、一つの劇をつくっていきたいです。その作業の中から、僕自身が知らなかった自分を発見することにもなるかもしれません。」

 

今回の「子午線の祀り」の成河の演技は、「別の様式に歩み寄った」もののように見えましたが、「別の様式に歩み寄ったり、自分の方に引き戻したりという作業」の中で、きっと掴んだものがあるのではないかと考えます。

となると、なおさらに、つぎのお芝居の演技に注目したくなります。

 

日本には伝統的な演劇と、その伝統とは別のところからスタートした歴史の新しい現代演劇、大きく分けて2種類のお芝居があること。演技の方法も違うこと。

そういう日本の演劇の独特な歩みについても、「子午線の祀り」の野村萬斎や成河の演技から、改めて考えさせられました。

 

 

ポスター「第1作目」

  • 2017.08.05 Saturday
  • 19:20

「劇団は今日もこむし・こむさ」その200

 

劇団こむし・こむさが4回目の公演にして、初めて行ったことがあります。……などと申し上げると、大層なことのように聞こえますが、済みません、大したことではありません。

「ポスター」を初めて作成しました。

 

今までもポスターを貼ってくださるお店があり、貼っていただいていたのですが、そのポスターはチラシを大きく拡大したものでした。

第4回公演でもまた、チラシを拡大しようと考えていましたが、今年の劇場・シアターX(カイ)では、上演にあたって、何個所かにポスターを掲示してくださるとのことでした。

手描きのポスターでも構わないということでしたが、これを機会に、ポスターを作ろうということになりました。

 

今回の「水の中の塔」のチラシは、例年と同じく、メンバーの中の一人がデザインしたものです。

そのデザインはインパクトがあり、いつものように単純に拡大してもポスターに成り得ると思いましたが、何点か修正が必要でした。

 

一番の修正箇所はキャッチコピーでした。

チラシの表面のコピーは、「わたしたちは何をうけとり/何をわたせるのだろう」です。

しかし、このままだと、お芝居の内容が分かりません。

そこで、チラシの裏面に印刷した、つぎの文言を「わたしたちは……」のコピーと差し替えて、入れることにしました。

曰く、

『今、「逆さ東京スカイツリー」をきれいに映す北十間川の川面/1945年3月10日の朝/そこは、焼夷弾に追われた人々の遺体で埋まっていた』

 

そのほか、チケットの代金や、申し込み先を付け加え、ポスターの「第1作目」が出来上がりました。

出来上がったポスターはシアターXに持参し、何軒かのお店の壁にも貼ってもらいました。

 

チラシとポスターが出来上がり、いよいよ「水の中の塔―東京スカイツリー異聞」のアピールを、皆さんに向けて始めました。

4作目のオリジナル作品。また一つ、挑戦の壁を乗り越えて、印象的な舞台を創り出すために、稽古を積み上げて参ります。

又吉直樹『劇場』のラストシーン

  • 2017.08.04 Friday
  • 15:10

「小説についての小説」その105

 

種村弘氏が、「文學界」2017年7月号に、又吉直樹の『劇場』(新潮社)の書評を書いていました。

 

その中で、『劇場』のラストシーンについて触れていました。

『「僕」と恋人の「沙希」がかつて共に作品化した脚本をもう一度読み合う』というラストシーンですが、この場面について、種村氏が興味深いことを提示しています。

 

『二人の振る舞いを「演劇」と呼べるのか。単なる「現実」の戯れではないのか。』という提起です。

種村氏は『読者である私はその判断ができなくなっていることに気づく。』と書くのですが、『劇場』のラストシーンは、果たして「演劇」なのでしょうか? それとも単なる「現実」の戯れなのでしょうか? 考えてみる価値があるように思いました。

 

「沙希」は東京から青森の実家に帰ってしまいました。

その理由について、「僕」はこう思います。

『沙希は東京というより、沙希にとっての東京の大部分を占めていた僕から離れたかったのだと思う。』

 

住んでいたアパートの荷物をまとめるため、「沙希」が一度東京に戻ってくることになります。

「沙希」がやって来る前に、「僕」が部屋を整理します。

物を段ボール箱に詰める作業の中で、彼は古い台本を見出します。それは「僕」の脚本で、かつて「沙希」が出演した芝居のものでした。

 

部屋を整理し終わったあと、「僕」はおかしな行動をとり始めます。それは……、

『ようやく大雑把にではあるが荷物が片づき、部屋に空間ができてきたので、沙希を迎えるために自分なりの演劇的な空間を組んでみようと思った。』のです。

アパートの部屋に、「演劇的な空間」を作り始めたのです。

「僕」はその部屋で、演劇を行おうという意志を抱いたようです。

 

ところが、……「僕」は梱包したばかりの段ボール箱を開封してしまいます。そうして、その結果、出来上がった「演劇的な空間」というのは、「元の部屋」と同じものになりました。

 

次の日、沙希が上京してきて、二人は渋谷や原宿を歩き回ったり、居酒屋で飲んだりしたあと、アパートに行きます。

沙希は、片づいた部屋を予想していたのに、片づいていない状況を見て驚きます。

『一回片づけてんけど、また戻してん』

「僕」はそう言いながら、自分の行動を自ら分析します。

『もしかしたら、僕はからっぽになった部屋に沙希と帰ってくることを避けたかったのかもしれない。』と。

「演劇的な空間」を作ろうとしたのですが、結局は、「現実」から離れることはできなかったということになります。

 

またこのとき「僕」は、こんな風に思います。

『本当は演劇の舞台のようにして沙希を驚かし、演劇のなかで自分の正直な気持ちを話してみようかと考えていたが、実際に沙希の明るい顔を見ると、取りつくろった演出的な発想がやけに拙く感じられ、へたな失敗に終わりそうな気もするし自然な流れにゆだねることにした。こんな時でさえも演劇的に考えてしまうことが、ほとんど病気だなと思った。』

 

どうして「僕」が、アパートの部屋を「演劇的な空間」にしようと思ったのか、その訳がはっきりしました。

「僕」は、「演劇のなかで自分の正直な気持ちを話してみようかと考えていた」のです。

しかし、沙希が上京する前に、すでに「演劇的な空間」は「現実」と変わらないものに戻してしまい、「沙希」を驚かすことは出来ませんでした。

 

さらに、実際に「沙希」と会って、その明るい顔を見てしまうと、自分の「演出的な発想がやけに拙く感じられ」て、「自然な流れにゆだねることに」します。

それを、「こんな時でさえも演劇的に考えてしまうことが、ほとんど病気だな」と「僕」は思うのですが、「とりつくろった演出的な発想」を止めて、「自然な流れにゆだね」ようとするのは、むしろ”まとも”な感性であるように思います。

 

つまり、「僕」は、その意図として、演劇的であろうとしているのですが、“舞台装置”は「現実」に戻したり、「演出的な発想」の代わりに「自然な流れにゆだね」たりして、演劇的ではない方向に向かっていくのです。

それは、自分が傷つけた「沙希」という女性に対する姿勢として、むしろ正しい態度だと私は思います。

 

「僕」は昨日見つけた、古い台本を取り出して、「沙希」に見せます。

そのお芝居は、「僕」が思うに、「男女が別れるだけの単純なもの」なのだそうで、その「男女」に「僕」と「沙希」が重なってきます。(作者の意図が見えます。)

 

「沙希」が台本を「読んで読んで」と、「僕」にせがみます。「僕」は、

『この状況では最初から読みたかったみたいで気恥ずかしかったし、いかにも今の二人を象徴しているみたいで嫌だった。』

とは思うものの、案の定、読み始めます。

女性のセリフは「沙希」が読むことになります。

 

二人で台本を読んでいるうちに、やがて「僕」は台本にないセリフを言い始めます。

曰く、

『それにしても、キミには本当に迷惑をかけた』

『夜の仕事も本当はさせたくなかった。俺の収入がもっと安定してればな。才能の問題か』

など。

そのセリフは、「僕」の「正直な気持ち」を表したもののようです。

 

その「僕」の意図に気づいた「沙希」もまた、台本にないセリフを言い始めます。

「沙希」の「正直な気持ち」も語られ、対話が成立して、互いの理解が深まっていきます。

そんな中で、『劇場』のキャッチコピー、

『一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。』

という言葉が「僕」の口から語られ、同じく宣伝の文章、

『夢と現実のはざまでもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う。切なくも胸にせまる恋愛小説。』

へと着地して、小説は終わります。

 

こうして『劇場』のラストシーンについて見てみると、この場面は演劇ではないということが分かります。

古い台本を二人で読み合うというシチュエ―ションにもっていっているので、演劇的に見えますが、二人が「正直な気持ち」を吐露し始めた時点で、それはもう演劇ではなく、普通の男女の会話になっています。

そこには演技はありません。

(決定的に欠けているのは、観客の存在です。たった一人であってもいいのですが、他者の存在がないところで演じたとして、それを演劇と呼ぶことが出来るのか、疑問です。)

 

では、『単なる「現実」の戯れ』かというと、それも当たっていないように思います。

「僕」と「沙希」は一緒に上演したお芝居の台本を読み合った、そこまでは『単なる「現実」の戯れ』でしたが、台本から離れて、二人が本心を話し始めたときから、単なる戯れではなくなっていきました。

 

演劇ではない。単なる「現実」の戯れでもない。

だとしたら、『劇場』のラストシーンは、何だったのか?

「現実」に真正面から向き合えない男が、演劇の装いを借りながら、やっと女性に正対することが出来た瞬間だったのではないでしょうか。

それにしても、あまりにも遅かったと思います。

心いっぱいの子供たち

  • 2017.08.03 Thursday
  • 13:10

予行練習のときからその歌声は一つにまとまっていた

大きくなった体から響いてくる男子生徒の声

すっかり大人びた上品な女子生徒の声

歌声のまとまりは心のまとまりを表していた

 

卒業式

その歌声は人々の心を揺るがした

懸命に歌い上げる女子生徒の声

涙で胸がつまり

高い声が出なくなった女子の分も

頑張ろうとする男子たち

その気持ちが痛く痛く響いてきた

 

答辞でも触れられていた

運動会の閉会式での校歌斉唱

伸び伸びと率先して歌っていた3年生

その3年生たちが聞かせてくれた最後の歌声

 

歌は心で歌うもの

心いっぱいの子供たちが

下級生に保護者に地域の皆さんに教職員に贈ってくれた

心の歌

ありがとう

 

(2000年3月24日)

「気がつけば、こんな詩が」199

『字幕屋の気になる日本語』の”恐ろしい話”

  • 2017.08.02 Wednesday
  • 14:38

「お芝居つまみ食い」その199

 

知り合いの方から勧められて、太田直子氏の著書『字幕屋の気になる日本語』(新日本出版社)を読みました。

 

太田氏は、「ボディガード」など沢山の映画の字幕を作成してきた字幕翻訳者ですが、2016年の1月に56歳で病死してしまったそうです。

本も書かれていて、その著作のうちの1冊が『字幕屋の気になる日本語』で、内容は「その一、字幕屋の気になる日本語」「その二、字幕屋は銀幕の裏側でクダを巻く」「その三、字幕屋・酔眼亭の置手紙」の3部で構成されています。

 

政治家が「〜と認識させていただいております」とか、「〜と申し上げさせていただきました」と言うのをテレビで聴いたが、「〜と認識しております」「〜と申し上げました」でいい。……といった「気になる日本語」についてのエッセイも面白かったのですが、私が特に興味深く感じたのは、最近の日本映画やテレビドラマについて言及している、その二の部分でした。

 

例えば、その二の「独りで泣け」と題したエッセイでは、『ラウンド・ミッドナイト』(米・仏、1986年)という映画を取り上げて、こんな風に書いています。

『映画は青年の回想という体裁をとっているように見えるが、はっきりしない。時系列もあいまいで、断りなしに過去と現在が入り乱れる。いや、現在がどの時点かさえ判然としない。人間関係にしてもそうだ。』

 

こう述べたのち、太田氏は現在の日本の映画・テレビドラマについての批評に入っていきます。

『今、この物語を凡庸な製作スタッフが作ったら、きっと青年のナレーションを入れようとするだろう。昨今の映画もテレビドラマも、わかりやすさばかり求めて説明っぽいものをつくりがちだからだ。ナレーションで心の動きをくどくど説明し、いかにもな音楽をつけて「はい、ここ、泣くとこですよー!」と感動を押しつける。凡作もみんなで泣けば大ヒット、か?』

 

日本の映画やテレビドラマを、最近数えるほどしか見ていない私には、この太田氏の指摘を「その通りだ」と受け止める材料を持っていません。ただ、日本の映画やドラマが、近頃そういう傾向にあるらしいということは分かりました。

 

同じ、その二の「飲むから静かにしてくれ」で書かれていることは、ちょっと(否、だいぶ)驚かされました。それは「恐ろしい話」として、このように紹介されています。

『つい先日、映画関係者の飲み会で聞いた恐ろしい話。「フェイド・アウト、フェイド・インが時間の経過を表すとわからない人が最近いるんですよ。いちいち三日後とか三年後とかテロップを出さないと物語を追えないらしくて」。』

 

念のためにか、太田氏はフェイド・アウトとフェイド・インの説明をしています。

『映像がじわっと暗転するのがフェイド・アウト、続いて別のシーンがじわっと浮かび上がってくるのがフェイド・イン。このひと呼吸でよく時間が飛ぶ。小説における一行空きや章替えに近い。どちらも広義の「文法」だ。』

 

そして、映像や小説の受け手について、つぎのように書きます。

『映像/文脈を読み取る力が衰えてきているのだろうか。あいまいさを嫌い、むやみに説明を求める。安易な言葉や音楽で目と耳を埋めたがる。外部からの情報で脳内が満たされれば、独自の思考は止まる。』

 

読み取る力の衰え。

あいまいさを嫌う。

むやみに説明を求める。

安易な言葉や音楽で目と耳を埋めたがる。

外部からの情報で脳内を満たす。

……これらの言葉は、一つ一つ、鋭い指摘であると受け止めました。

インターネットや携帯電話の普及とも、おそらく関係しているように思われます。

 

「説明」という点では、受け手だけでなく、一つ目に紹介したエッセイにあったように、ナレーションを多く入れ、分かりやすくしようとする作り手側の問題でもあります。「安易な言葉や音楽で目と耳を埋め」ているのは作り手です。

 

太田氏は演劇については言及していませんが、映像や小説の受け手は、演劇の受け手と重なる部分もありますので、こういった傾向は演劇の世界でも、あって当然のこととなります。

 

太田氏のこれらの分析に触れて、ふと、つい最近読んだ『戦後歌舞伎の精神史』(渡辺保著、講談社)のある部分と、通底しているのではないかと感じました。そのことについては、改めて書きたいと思っています。

 

太田直子氏の『字幕屋の気になる日本語』は、映画やドラマの世界の傾向や問題から波及して、演劇についても考えを深めるきっかけを与えてくれました。

PR

calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM