不自由という名の鎖

  • 2020.06.05 Friday
  • 18:27

「劇団は今日もこむし・こむさ」その301

 

今回も、小川真利恵氏の『パンと牢獄――チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』(集英社)について書かせていただきます。

 

前回は中国共産党による、チベット侵攻についてでしたが、今回はドゥンドゥップ(フルネームはドゥンドゥップ・ワンチェン)が体験したことを中心にお伝えしたいと思います。

 

 

ドゥンドゥップがどうして「政治犯」となったのか?……小川真利恵氏はつぎのように書いている。

 

「二〇〇八年、北京オリンピック開催直前に、『五輪について、どんな思いを抱いているか?』をチベット人に問うドキュメンタリー映画『恐怖を乗り越えて』をつくったことで中国当局に逮捕された。罪状は国家分裂扇動罪。刑期は六年だった。」

 

13年前の北京オリンピックといえば、日本は、水泳の北島康介氏、レスリングの吉田沙保里氏・伊調馨氏、柔道やソフトボールでも金メダルを獲得した。世界新記録を出して金メダルに輝いた北島康介氏が、涙ながらに「何も言えねえ」と言ったことなど、まだ記憶に新しい。

 

その北京オリンピックの陰で、中国ではこんな現実があったのだと『パンと牢獄』を読んで知った。著者のインタビューに応えて、ドゥンドゥップは語る。

 

「当時、北京五輪開催に向けて、チベット人が置かれている状況はさらに厳しいものになっていました。私たちの主な生業は、農業と放牧です。ですが、土地を奪われ、制限され、遊牧民なのに自由に放牧することができなくなっていました。家畜を減らされたり、農地には棘のある植物を植えさせられたり、強制移住政策もありました。」

 

生活に苦しむチベット人の惨状を、「切実に訴えられる方法」はないかと考えたドゥンドゥップが選んだのは、ドキュメンタリー映画を撮ることだった。

その当時、ドゥンドゥップは33歳。逮捕されることも覚悟しての行動だった。

撮影は2007年の10月から、2008年の3月まで、約5カ月に亘った。

 

「インタビューに応じてくれた人は皆、命の危険をも覚悟のうえで語ってくれています。『この撮影に応じると、あなたは逮捕され、拷問を受ける可能性もある。もしかしたら命に危険が及ぶかもしれない』と、私は伝えていましたから。それでも、『この映像をダライ・ラマ猊下が観てくださるなら、死んでも悔いはない』と言って、撮影に応じてくれたのです。」

 

ついにドゥンドゥップは逮捕され、公安による非人道的な取り調べが始まる。

 

「公安は、何を企んでいるのかと執拗に尋問してきました。手枷をはめられ、七日間ちかく眠らないように立たされたまま暴力もふるわれました。どこに誰がいるかわからないように黒い頭巾をかぶせられ、首に電気ショックをかけられたこともありました。」

 

「その小さな部屋の中には、拷問で使うといわれる鉄の椅子『虎の腰掛け』が置いてありました。『虎のようにおそろしい』という理由から、“虎”という異名がついた拷問道具です。背もたれと座面部分が異様に長く、足を強制的に水平に伸ばす構造になっています。その椅子に手も胴体も足も縛られたうえで、踵の下に煉瓦を重ねて足の高さを上げていくもので、非常に苦しい姿勢を強いられます。」

 

「当時、私のように逮捕された『名もなき人々』はたくさんいました。理由もなく逮捕され、拷問され、監禁され、不自由という名の鎖につながれたのです。」

 

このように語られていることがみな、遠い過去の話などではなく、たった13年前のことだということに愕然とする。(今、中国のテレビドラマ『如懿伝』を見続けているのだが、清の時代に行われていたことと同じような、非人間的な行為が、この現代においてもなされているのだ。)

 

「監禁は四十二日間続きました。なぜ詳細に覚えているかといえば、監禁中、ホテルのテレビから、『五輪開催まであと何日』という放送が終日流れていたからです。私は、そんな五輪に熱狂する人々を見るにつけ、『すべてがまやかしだ』と心の中で叫び続けていました。」

 

「すべてがまやかしだ」? このドゥンドゥップの言葉について、著者はこう解説している。

 

「ドゥンドゥップが、北京五輪について『まやかしだ』と語ったのは、中国政府が国際社会に向けて、『中国では人権が保障されている』と主張し、『“平和の祭典”を開催するにふさわしい』と発言したことによる。」

 

たしかに「まやかし」に違いない。 

その後、ドゥンドゥップは青海省にある労働改造所(ラオガイ)に入れられる。

 

「労働改造所とは、一九五七年に正式に始まった『労働矯正制度』によって、軽犯罪や反革命行為をおこなった者を、労働を通して再教育する場所のことです。旧ソ連にあった『ラーゲリ(強制収容所)』に倣ったもので、刑務所での生活よりも苛酷だといわれています。」

「新人は、まず朝五時から改造所の規則を暗記するために教本を読ませられます。時間を守る、上官に逆らわない、中国共産党がいかに素晴らしいかなど、そういった内容です。その本の内容をすらすらと暗唱できるか、定期的にテストがあるのです。」

「私は『獄舎』にある一畳ほどの部屋に、八十四日ものあいだ、監禁されました。窓ひとつない、真っ暗な小さな部屋に。窓がないので、昼か夜かもわからない状況が続きました。」

 

そんな、理不尽で苛酷な労働改造所での生活を経て、2014年の6月、ドゥンドゥップはようやく釈放される。

最後に、警察から言われた一言が、胸にくさびを打ち込まれように、彼には感じられたという。その一言とは……。

 

「おまえが外へ出ようが、政治的権利も、自由も一切ない。刑務所と何も変わらないんだ。おまえを支配する権利を、私たちは持っているんだからな」

 

刑務所や労働改造所の外にも、自由は存在していなかったのだった。

 

 

釈放されたものの、当局による監視が続けられ、ドゥンドゥップは軟禁状態におかれていた。その後、決死の覚悟で中国を離れ、ベトナム、タイを経てスイスに亡命した。今はアメリカで暮らしている。

『パンと牢獄』では、現在の日々の暮らしや、彼の心境などにも触れられている。それは、けっしてハッピーエンドと言えるものではないと、私には感じられる。

2回に亘って『パンと牢獄』の内容について紹介させていただいた。つぎには、この著作を読んで考えさせられたことを綴らせていただきたいと思っています。

「パンと牢獄」に流れる、重い時の流れ

  • 2020.06.03 Wednesday
  • 18:42

「劇団は今日もこむし・こむさ」その300

 

小川真利恵著『パンと牢獄――チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』(集英社)を読んだ。

 

『パンと牢獄』は、ラジオや映画でドキュメンタリー作品を発表している小川真利恵氏の、初めての著書だという。

副題にもある通り、チベットの政治犯であるドゥンドゥップ氏、奥さん、そして子供たちの体験が、諄々とつづられている。

 

この1冊の本の中には、長い「時」の流れが詰まっている。

中国共産党の統治がチベットに及んだ「時」のこと。

北京オリンピックの直前、ドゥンドゥップ氏が逮捕された「時」のこと。

そして、国外に亡命して生きているドゥンドゥップとその家族たちの、今という「時」。

 

 

チベットの苦難は、1949年に中華人民共和国が建国されてまもなく、チベットを「解放」するという名目で、中国の人民解放軍が東チベットに侵攻したことから始まっている。

のちに、約10万人のチベット人が、インドやネパール、ブータンなどに亡命することになったが、当時、チベットの人々は、唯々諾々と中国に従ったわけではない。

その闘いは「チベット蜂起」というもので、『パンと牢獄』では、つぎのように記述されている。

 

「一九五九年三月十日、運命のときが訪れる。『中国がダライ・ラマ十四世の誘拐をたくらんでいる』という噂が広がり、十四世を守るため、ラサにある宮殿をチベット人が囲んだ。後に『チベット蜂起』と呼ばれる抵抗運動のはじまりだった。」

 

「チベット蜂起」では、8万人以上のチベット人が命を落としたという。

しかし、中国共産党によってチベットは、チベット自治区、青海省、甘粛省・四川省・雲南省の一部に分割統治されることになってしまった。以来、信仰の自由や、チベット語の教育に対する弾圧などが続いてきた。

 

ドゥンドゥップの妻の名前は、ラモ・ツォという。ラモ・ツォの父親は僧侶だったのだが、そのエピソードが痛切である。

 

「『宗教は敵だ』――『新民主主義』による改革を進めた毛沢東の言葉である。この言葉どおり、一九五八年に始まった『民主改革』には、チベット仏教を衰退させることも含まれていた。寺院は破壊され、仏教の美術品は盗まれ、僧侶は強制的に還俗させられた。

 ラモ・ツォの父も、その波を受けて還俗を余儀なくされたひとりだった。寺院から村に戻った彼は、小屋を借りてひっそりと過ごしていたという。母から聞いた話によると、ときに、罪状が書かれた帽子を被らされ、公衆の前にさらされて、皆から罵倒されたり、殴られたり、侮辱を受けたのだそうだ。これは、高僧の権威を失墜させるためにおこなわれたものだった。」

 

問題が深刻かつ重大なのは、これらの破壊が、けっして60年前の、過去の出来事で終わらず、現在も続いているという点にある。

著者の小川真利恵氏は、「あとがき」に、こう書いている。

 

「この本の執筆中も、東チベットの四川省にある世界最大級の僧院だったラルンガルやアチェンガルでは、僧房の解体が続き、1万人以上の僧侶や尼僧たちが強制的に退去させられている。今のチベットの状況を『第二の文化大革命』と呼ぶ人もいるくらいだ。チベットだけではない。同じように、中国で生きるウイグルの人々にも当局の弾圧が続いている。罪のない百万人が強制収容され、思想改造が行われているという。ドゥンドゥップが受けた仕打ちは、今も多くの人々の身に襲いかかっている。」

 

 

『パンと監獄』には、上の事柄のほかにも、ドゥンドゥップの人生や、その家族の現在について、書きとめておきたいことがまだある。

それらについて、また、このブログでご紹介したいと思っています。

 

 

ウイルス禍の中、手に取った「ベニスに死す」

  • 2020.05.31 Sunday
  • 20:08

「お芝居つまみ食い」その298

 

1971年 イタリア・フランス

原作 トーマス・マン

脚本・監督 ルキノ・ヴィスコンティ

『ベニスに死す』

 

早稲田松竹で『ベニスに死す』を見たのは1976年のことだった。

この頃、早稲田松竹では、ジャン・ギャバンとアラン・ドロンの『暗黒街のふたり』や、デビット・リーン監督の『旅情』、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』なども見た。

 

フェデリコ・フェリーニ監督の『道』は、いくつかの場面がまだくっきりと記憶に残っている。アンソニー・クイーンとジュリエッタ・マシーナの、演技とは思えない入魂の演技も、痛切に思い出されてくる。

『ベニスに死す』については、ダーク・ボガードが演じる主人公が、床屋さんの椅子に座り、鏡に向かっている映像だけが、なぜか残っているだけだった。

 

それなのに、TSUTAYAで、どうして『ベニスに死す』をもう一度見ようと思い、手に取ったのか、その訳は自分にも分からなかった。

 

分からないままに見始め、ゆったりとした映像の中を、漂うように身をまかせているうちに、ある場面でハッと気づかされたように感じた。

ダーク・ボガードが演じる作曲家グスタフ(原作では作家だが、映画では作曲家としている)がベニスを去ろうとした際に、駅の雑踏の中で、不可解な男の姿を目撃する。

男は突然へなへなと倒れ込み、苦しい息遣いをする。その様子は、あきらかに生の最期を示すものだった。

それが、グスタフがベニスの町の「異変」を、初めて察知した瞬間だった。

(グスタフと同じように、私もまた、このとき、『ベニスに死す』の底流に存在する、あるものについて思い出していた。)

 

荷物の取り扱いの手違いがあって、グスタフはすぐにはベニスを去ることが出来なくなる。いや、去ろうとすれば、出来ないことではなかったのだが、「荷物がベニスに戻るまで、ベニスを発たない」とグスタフは言う。

そのときのグスタフの表情は、まるで、喜びを隠せない子供のようだ。

そう、グスタフにとって、荷物の取り扱いの手違いは、僥倖だったのだ。なぜなら、ベニスに滞在する口実が出来たからだ。ベニスに居れば、ビョルン・アンドレセン演じる美しい少年=タージオと、また遭えることもあるからだった。

 

グスタフはホテルに戻った。ホテルの人間はベニスの「異変」について、口にしようとしない。

だが、町に出てみれば、消毒液を撒いて歩く男の姿がある。ベニスの町は着実に何かに侵されつつあった。

 

グスタフは銀行員から真実を聞かされる。

「数年前からアジア・コレラが各地で発生しています。源はガンジス川です。最初はヒンドスタンに広がり、次は東の中国、西はアフガニスタン、ペルシャ……」

そして、コレラはヨーロッパを横切って、ベニスにも。

「5月には2人の病死者からコレラ菌が発見されました。この事実は秘密にされましたが、次々に死亡者が増えて、今では数え切れないほどです。どの病院も空いたベッド1つありません。住民はおびえながら、ただ黙っています。ベニスの住民は観光客で生活しているからです。」

最後に銀行員はグスタフに警告する。

「すぐお発ちになるのが賢明です。2・3日中に交通が途絶えます。」

 

早稲田松竹で『ベニスに死す』を見て、45年後の今、記憶に残っているのは、グスタフが床屋さんの椅子に座っている姿だけだと、はじめに書いたが、その場面がこのあと登場する。

 

グスタフは床屋さんに勧められて、髪とヒゲを黒く染める。それだけではなく、顔に白いクリーム(?)を塗られ、唇にも紅をさされる。それはかえって、老残、醜悪さを露呈させたように見受けられるのだが、その姿で、グスタフはベニスの町を(医者の家に向かって)歩いていくタージオの家族を、さながらストーカーのように追って行く。

町のあちこちには、コレラで亡くなった人の持ち物を焼き捨てようとするのか、赤い火柱と黒い煙が立ち上っている。

 

コレラはついにグスタフにも及ぶ。

苦しくなってネクタイをゆるめ、水飲み場にへたり込んだグスタフは、ふと、ほほえむ。

やがて、声を上げて彼は笑いだす。笑いながら泣きもする。

……と、ここで、映画は過去にさかのぼる。

 

グスタフの(おそらくは新曲の)演奏会の場面。

ヴィスコンティの演出が素晴らしいのは、この場面に来るまで、ずっと音楽が流れていて、同じ音楽の流れる中、場面だけが、ベニスの水飲み場から演奏会へと自然に移っていく点だ。

指揮をしているグスタフ。新曲の演奏が終了して、タクトを下ろす。すると、そこに起こったのは喝采ではなく、激しいブーイングの嵐だった。

これによって、ベニスに来る以前に、作曲家であるグスタフがどのような苦悩を抱えていたかが想像されるのだった。

 

映画の終わり。

グスタフも、タージオの家族も、ベニスを離れる日のこと。

グスタフは浜辺にやってくる。そこには友人と遊ぶタージオの姿があった。

友人と戯れるうちに諍いになり、タージオは一人、海に入って行く。タージオは立ち止まり、左手を斜め上に上げて、虚空を指さす。

砂浜の椅子に腰をかけて、その姿を目で追っているグスタフ。グスタフの額から頬にかけて、黒い血がしたたっていく。

タージオは空を指さし、グスタフに、「天に還れ」とでも伝えたのだろうか? グスタフはついに、息絶えてしまう。

 

 

何故『ベニスに死す』を見ようと思ったのか自分でも分からなかった。だが、もしかすると、記憶の底に、コレラという伝染病の流行が、その物語の背景にあることを、覚えていたのかもしれない。……と、見終わった今、思っている。

 

トーマス・マンの『ヴェニスに死す』は、家にあるはずと思って探したら、やはり在った。新潮文庫、昭和三十三年発行、昭和四十年七刷。定価60円。

茶色く変色しかかった薄い本。これを機会に、読みなおしてみたい。

これって、”脱走”ですか?

  • 2020.05.26 Tuesday
  • 19:33

「劇団は今日もこむし・こむさ」その299

 

2012年の8月に、こんな「詩のようなもの」を書いたことがある。

 

  リスの尻尾

 

嵐がきて

リスの檻に穴が開き

リスが檻の外に出た

 

すると

「リスが脱走!」と

ニュースになった

 

檻に穴が開いても

檻の中にいれば

餌はもらえる

 

けれど

リスは穴をくぐり

檻の外の樹にのぼって

餌をさがした

 

それを

人は

脱走と呼んだ

 

枝の上で

尻尾を高くかかげ

ただ黙々と

餌をさがしつづけていた

リス

 

小さな脱走者の尻尾が

誇らしげに揺れていた

 

 

こんなものを思い出したのは、2020年5月26日の新聞(産經)に、

“大井の誘導馬脱走

 交差点で車と衝突“

という見出しの、小さな記事を目にしたからだった。

 

「大井競馬場(品川区勝島)から脱走した馬がワゴン車と衝突。逃げ出したのは競走馬を先導する誘導馬で、事故後に確保された。」

 

私の感覚がおかしいのかもしれないが、“脱走”とか、“逃げ出した”という言葉遣いが、いつものことながら「変だなあ」と私は思う。

なぜ人は、動物を一定の範囲に囲って、その範囲から動物が出ると、“脱走”とか、“逃げ出した”と言うのだろう?

 

一定の範囲に囲むことを、対象の動物が納得しているかどうか、どうして分かるのだろう?

もしかしたら、動物は仕方なく、一定の範囲の中に居るだけなのではないだろうか。

檻とか囲いは、人間が勝手に作って、その中に動物を入れただけのことなのに、そこから出たからと言って、どうして“脱走”とか、“逃げ出した”と言うのだろう。

……まるで、それが犯罪みたいに、“脱走”とか、“逃げ出した”という言葉を遣う理由が、私には理解できない。人間の傲慢さが顕われているような気がする。

 

2012年のリスのニュースも、台風か何かで、檻に穴が開いたので、リスがそこから出ただけのことだ。

「穴が開いた」という認識さえ、リスには無いに違いない。檻の内側、外側という認識も無いだろう。穴が開いて、動ける範囲が広がったので、ただ動いていっただけのことなのだ。

 

大井競馬場の誘導馬は、「閉鎖した門を飛び越えて公道へ脱走」したという。

すると、これは明らかに、意図的な(?)脱走であったのか……、と思ってしまうところだが、競馬場の人の話によれば、こういうことだったらしい。

「午前11時ごろ厩舎付近で運動をさせていたが、大きな音が聞こえて驚いたようだ」

馬が門を飛び越えたのは、大きな音に驚いたからだった。

 

動物が檻や囲いの外に出たときに、すぐに“脱走”という言葉を遣ってニュースにするのは、報道する人の、長い間続いている、癖のようなものなのかもしれない。

そういう言葉遣いをした方が、インパクトがあると思ってのことなのかもしれない。

けれど、もういいかげん、その安易な発想は止めたらどうかと思う。

 

ワゴン車とぶつかってしまった誘導馬は、“確保された”(犯人扱いのよう)と記事にはあったが、ワゴン車を運転していた人も、馬も、無事だったのかどうか? 記事を読むかぎり、分からない。触れていないということは、たぶん無事だったのだろうと推測している。

滝口悠生「火の通り方」の不穏な気配

  • 2020.05.14 Thursday
  • 15:04

「小説についての小説」その193

 

「文學界」2020年6月号に滝口悠生の『火の通り方』が載っていたので、読んだ。

このところ滝口悠生が飛び飛びに「文學界」に書いている、「夫」と「妻」が、イタリアに住んでいる「由里さん」と「チコ」の家を訪問したときの話の続きだ。

 

「続き」とは言っても、前の短編で描かれていた時から、2年半が経っている。小説の視点人物である「夫」も「妻」も、当然ながら日本に帰ってきている。2年半の間には離婚の危機もあったようだ。

由里さん・チコ夫婦は、イタリアを離れて、なんと今は、由里さんの山形の実家に住んでいるという。

 

『火の通り方』を読んでいて驚いたのは、新型コロナウイルスについての記述が出てきたことだった。

もう小説の中に新型コロナウイルスが登場している!

その早さに驚きを感じたのだった。

しかし、小説を読み終わってみると、『火の通り方』の中に新型コロナウイルスが出てくることは、きわめて順当なことなのだと気づかされた。

 

『火の通り方』は、不穏な気配を感じさせる小説だった。

 

イタリアを離れる前の夜に、由里さんが「妻」に、生活や育児など、たくさんの「不安」を抱えていることを話すところがある。

「妻」は、「私にも不安はたくさんあった。」と思う。

「私たちはいくら年をとっても、仕事を得ても、家族をつくっても、不安はなくならないのだといまではわかってきた。慣れるしかないのかもしれない。慣れて鈍感になるしかない。けれどもときどき、鈍ったはずの神経が鋭くなって、不安で死にそうになる。」

 

一人ひとりの人間が抱えている「不安」の存在とともに、時代の不安定な状況というものもある。それを具体的に表すものとして、ロンドンの地下鉄の爆発事件が、『火の通り方』には出てくる。

「夫」と「妻」がイタリアを去る日の朝、その事件が起きたことをスマホで知り、「夫」は思わず「うあ」と声を出す。

ほんの2日前、「夫」と「妻」はロンドンにいた。移動のほとんどの手段は地下鉄だった。だからなおさら、テロの恐怖が身近に感じられるのだ。

 

「二〇一七年に、ロンドンではテロ事件がいくつも続いて起こっていた。ロンドンだけではなくて、その前年にはブリュッセルやニースで大規模なテロがあったし、二〇一五年にはパリのシャルリー・エブドの襲撃事件があった。同じ年にはシリアでイスラム過激派に拘束されていた日本人ジャーナリストと民間人のふたりが殺害された。」

 

そうして、その恐怖の上に、さらに別の恐怖で世界を覆っているのが、新型コロナウイルスということになる。

「年明け頃から徐々に広がった新型肺炎のウイルスは、三月に入るとヨーロッパで急激に感染が広がって、イタリアの被害は甚大なものになった。日本も徐々に深刻な雰囲気になりつつあるなかで、イタリアのニュースを耳にすると、(中略)二年半前に二日間だけ過ごしたあの山のなかの家での時間のことを思い出した。」

 

「夫」と「妻」の離婚話の詳細は語られない。

しかし、今はともかくも「大丈夫だ」と思っているのは夫。

「でも、じゃあ来年の春がどうか、再来年の春がどうかはやっぱりわからない」と思っているのは妻。

 

不穏な状況の中で、不安を抱えながら一人ひとりが生きている。

そんな現実世界を明瞭に描いて、『火の通り方』は終わっていく。

私の感覚が間違っているかもしれないが、「文學界」に掲載されてきた「夫」と「妻」のシリーズは、この『火の通り方』で一区切りとなるような気がする。

それとも、由里さん・チコ夫婦と、「夫」と「妻」の、日本での話が語られ始めるのだろうか。

 

 

行動規制緩和に向かう韓国での、集団感染の発生

  • 2020.05.11 Monday
  • 16:06

「劇団は今日もこむし・こむさ」その298

 

2020年5月10日(日)、新聞(産經)の第2面を開くと、「韓国 集団感染40人」という見出しが目に留まった。

20代の男性本人や、彼が訪れたソウル市のクラブの従業員やお客さんなど40人が、新型コロナウイルスに感染したという記事だった。

 

見出しを見て思ったのは、「えっ、韓国で?」という疑問だった。韓国は日本とは違う方法で新型コロナウイルス対策をおこなって、その方法が功を奏しているという認識が、私の中にあったからだった。

 

たとえば、4月12日に配信されたBAZAARの記事(ライター ANZU ONEDA)の見出しは、

“ピークから約1か月、韓国の徹底した「新型コロナウイルス」対策のカギは、IT技術の活用と情報の透明性にあり”

というものだった。

 

韓国は、感染者数は多くなったものの、新規の感染者を縮小させた。

韓国政府はどのような対策をおこなったのか?

記事は、そのレポートだった。

 

〇 まずは、国内中で、PCR検査を徹底しておこなった。

テレビでも紹介されていたが、幹線道路でのドライブスルー型の検査や、街中での検査をおこなって、早期発見に努め、感染の広がりを最小限に抑えた。

 

〇 もうひとつ重視されたのが、「リアルタイムでの感染者情報の共有」だ。

“韓国では16歳以上の国民全員が「住民登録証」を所有しており、GPSやクレジットカード情報などそこからあらゆる情報を政府が追跡できる。”

だから、感染者が出ると、“年齢や性別、居住地域、感染前後の行動経路などが即座にスマートフォンに送信される。”これも、テレビで報道されていた。

行動経路は、監視カメラの映像とGPSを連携して割り出されるという。

 

〇 マスクについても、政府が手だてを講じた。

“生まれた年によって購入できる曜日を分け、購入時に店員が身分証とマスクの購入履歴を確認し販売するという仕組みだ。”

 

〇 欧米のような都市封鎖はしない代わりに、ここでもIT技術が活用されている。

“韓国に入国すると2週間の専用アプリでの健康状態報告と自主隔離が義務付けられる。”

(ちなみに、この「自主隔離」に関しては、こんな新聞記事(5月5日付産經)があった。

“韓国政府は自主隔離対象の違反者に対し、4月末から電子リストバンドの着用を導入した。拒否すれば指定施設に隔離される。”

 

こう見てくると、PCR検査以外の各対策は、日本で採用したくても、にわかには採用できないもののように(素人には)見える。

韓国は、韓国として持つIT技術を駆使して、このコロナウイルス禍に対応して、成果を得たということなのだろう。

 

 

感染者の増加が1日1桁台と、沈静化していた韓国。

規制を緩和する方向に向かっていたところで、新たに発生した集団感染。

私などは、意外に感じたのだったが、5月10日19:44発信のYAHOO!ニュースに、

“ソウル梨泰院の新たな集団感染にも「それほど慌てず」。背景にある日韓の事情の違い。”

という見出しの記事が掲載されていた。(ライター 吉崎エイジーニョ)

 

この記事によれば、韓国のメディアも、厳しい論調でこの集団感染を報じているそうだ。

たとえば、5月8日の「聯合ニュース」は、

“憂慮が現実に。連休の集団感染…防疫の危機、来るか”

といった感じであるらしい。

 

しかし、ライターは、“とはいえ、これが「想定外の出来事に打ちひしがれている」といった雰囲気でもない。”と書く。

それは何故かというと、韓国には、つぎのような制度やインフラがあるからだとする。

〇 韓国には、住民登録番号とクレジットカードの支払い履歴から、感染者の行動を追跡できるシステムがある。

〇 800万台も設置されている監視カメラで、集団感染の現場にいた人の特定をしやすい。

……これらはつまり、はじめにご紹介したBAZAARの記事の、韓国政府の対策そのものを示している。

 

 

こうして見てきて気づいたのは、韓国の対応について、私は誤解をしていたということだった。

韓国は韓国のやり方で成果を上げたのは間違いない。だが、その成果は、韓国の国民の努力・協力があってのことなのだ。

 

集団感染が発生したクラブに、感染源になった男性が訪れたのは、外出自粛の要請が解除される前のことだったという。

ということは、外出自粛要請中でも、クラブは営業していたことになる。営業は認められていたのだろうか?

仮に営業が認められていたとしても、外出自粛を要請されている中、深夜のクラブで遊ぶ選択をした男性の行動は、正しいものだったのか?

国民の努力・協力が得られなければ、一時ウイルスを抑え込むことの出来た韓国でも、すぐに今回のようなことが起きてしまう。

 

つまり、韓国の新型コロナウイルスへの対応策も、それだけに頼ることは出来ないということなのだろう。

人が自分を律することが出来ないと、そこにウイルスが忍び込んできてしまう。

自分を律し続けることの大変さは、つくづく知らされて、簡単に言えることではないと承知してはいるけれど……。

 

日本もまた、緊急事態宣言の出口の問題が話題になり始めている。

そういう話題が出てきたことは嬉しいことだ。けれど、韓国の今回の集団感染のニュースを知って、自分のこと、自分の国のこととして受け止めなければいけない、と感じた。

「花の影」のジョウ・シュンとレスリー・チャンの場面

  • 2020.05.09 Saturday
  • 15:12

「お芝居つまみ食い」その297

 

1996年 イギリス領香港・中国 合作映画

原案 チェン・カイコ―、ワン・アンイー

脚本 シュウ・チー

監督 チェン・カイコ―

『花の影』(原題「風月」)

 

『花の影』をBunkamuraのル・シネマで見たのは、1997年の1月のことだった。

23年前、『花の影』を見に渋谷に出かけたのは、『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年)の監督(チェン・カイコ―)、主演の2人(レスリー・チャン、コン・リー)のトリオが、再び組まれて創られた作品だったからだった。

 

今回『花の影』を、23年ぶりにもう一度見ようと思ったのは、ジョウ・シュンが出演していると知ったからだ。DVDは持っていなかったので、Amazonさんにお願いして配達していただいた。

 

DVDを見て、自分が、この映画の映像もストーリーも、ほとんど忘れていたことを知った。私の中で、『さらば、わが愛』の印象が圧倒的過ぎて、それと比べて『花の影』の印象が薄かったのかもしれない。

 

しかし、今回DVDを見ることによって、いろいろと感じたり、考えたりすることが出来た。

たとえば、「題名」についてだ。

原題は「風月」で、冒頭に画面いっぱいに細い文字で現れる。

『花の影』という日本での題名は、きれいだけれども、どこかしっくりこないところがある。「風月」の方が、映画の内容に合致しているように感じた。

 

「風月」という言葉からは、「時間の経過」が感じられるような気がする。

考えてみれば、『さらば、わが愛』も、『花の影』も、時代の大きなうねりの中で生きる人々が描かれている。変わらない自然に比して、時代も、人も、転変していく。

チェン・カイコ―監督は、時間を俯瞰して見せることによって、残酷な人の世の実相を描く。……ただし、そこに、美しさを添えて。

 

『花の影』のパンフレットがあるかもしれないと思って探したら、あった。

その中で、チェン・カイコ―監督の、こんな言葉が紹介されていた。

 

「舞台設定は1920年代ですが、これはそのまま現在に置き換えていただいても構わないと思います。変動の時期、変化の大きな時期にあって人はどういう状態にあるか、そこに生きる人の生活や愛、彼らの直面している問題を反映させたかったわけです。」

 

パンフレットには、チェン・カイコ―監督のプロフィールも出ていた。

監督は1952年に北京で生まれ、その少年〜青年期にこんな経験をしている。

「初等中学のとき、文化大革命が起こり、68年、16歳で雲南省のゴム園に下放される。75年に北京に戻る。」

 

「変動の時期、変化の大きな時期にあって人はどういう状態にあるか」

その命題は、骨身にしみついた下放の経験からも導き出され、芸術的に昇華されているのではないだろうか。

 

 

さて、『花の影』を再び見たいと思ったのは、ジョウ・シュンが、映画の中で、どのような演技をしているのか、確かめてみたかったからだった。

 

ジョウ・シュンはほんのわずかな場面にしか出ていなかった。

ル・シネマが作ったパンフレットの「キャスト」の欄にも、ジョウ・シュンの名前は載っていない。

 

登場するのは、2つの短いシーンのみ。しかも、セリフが無い。

しかし、チェン・カイコ―監督の演出は、実に丁寧に、繊細に、奥深く、なされていた。

 

1920年代の上海。

ダンスホールに入ってきた、レスリー・チャン演じる忠良(チョンリァン)が、テーブルに一人でいる若い女性に目を留める。その女性は、髪も服装も、あか抜けない。

忠良は持っていた一輪の赤いバラを差し出す。

バラを受け取った女性は、大粒の涙をはらりと落とす。

それを見て、忠良は複雑な表情を浮かべ、視線をそらす。

 

忠良は上海マフィアの配下で、ジゴロとして生きている。

若い女性は、その日、初めて店に出たのかもしれない。

女性の流す涙を見て、忠良は、自分の現在の生き方の醜さ・哀しさを悟ったのかもしれない。だから、女性を見ていられなくなった。

 

時が経って、再びダンスホール。

赤いバラの花の香りをかぎながら、白いドレスの女性がやってくる。

ウエーブをかけた髪、バラと同じ色の口紅、豪華なネックレス……、いつかの、素朴で、うぶな女性が大きく変身し、腰をくねらすようにして歩いてくる。

先に気づいたのは女性の方だった。忠良に向かって、今度は女性が赤いバラを差し出す。

 

二人はジャズバンドの演奏に乗って、踊る。

しかし、忠良は嬉しそうでも、楽しそうでもない。……あきらめか、自暴自棄か。

女性はそんな忠良に合わせて、躰をまかせている風だ。

 

忠良=レスリー・チャンと、踊り子=ジョウ・シュンの、これらの場面は、いったい何のために挿入されたのだろうか?

『花の影』の本筋とは、全く関係がないといえば、無い。

けれど、ここにも確かに、時のうつろい、人の変容があることに気づかされる。

 

ジョウ・シュンの出番は少なく、短く、セリフも無かった。

しかし、その場面は、映画全体を象徴するような、大切なものだった。

そういう大切な場面に、ジョウ・シュンをキャスティングしたことに対して、拍手したいと思った。

 

 

『花の影』が公開されたのが、1996年。

香港が中国に返還されたのは、翌年の、1997年のことだった。

 

やさしい風

  • 2020.05.08 Friday
  • 12:01

この春

なんでもない微風が

むしょうにやさしく感じられた

それはきっと

ウイルス

おまえのせいだ

 

この春に吹いた

やさしい風を

ウイルス

私はけして忘れない

 

これからの季節が

さらに苛酷だったとしても

この春のやさしい風を

ウイルス

私はけして忘れない

 

おまえが来てからは

私の中には

ずっと

やさしい風がふいている

 

やさしい風の記憶がある限り

ウイルス

私は

私たちは

おまえに負けない

 

2020年5月8日

「気がつけばこんな詩が」238

厚生労働省からマスクが届いて

  • 2020.05.06 Wednesday
  • 16:34

「劇団は今日もこむし・こむさ」その297

 

息苦しくなるので、マスクをするのは苦手だ。だから、新型コロナウイルスの感染が拡大して、マスクの着用が勧められようになって以降、「マスク」について考えざるを得なくなった。

 

初めに知りたかったのは、マスクは何のためにするのか? ということだった。

「専門家の間ではマスクの予防効果は限定的という見方が強く、世界保健機関(WHO)も症状のない人は着用する必要がないとの見解を示している。」

……という記事(産經新聞)を読んだのは、2020年3月24日のことだった。

 

「マスクの予防効果が期待できないのは、着用しても目などは隠せず、マスクと顔の間には隙間ができてしまうことが理由。」

ということだったが、それでも、飛沫をさえぎることに一定の効果があるし、人にうつさないためにもマスクをした方がいいというのが、この記事の結論だった。

 

3月18日に、甲府市の女子中学生が、布やガーゼで手作りしたマスク、612枚を山梨県に寄贈したというニュースが流れた。

女子中学生が「マスク作りを思いついたのは先月半ば。母親と薬局に行った際、リュックを背負った高齢の女性が、マスクを買えずに途方に暮れている姿を目の当たりにしたからだった。」(朝日新聞デジタル配信、平畑玄洋記者)

県は、そのマスクを高齢者施設や児童養護施設に届ける予定だという。

 

このニュースに触れたとき、「ああ、布やガーゼのマスクでもいいんだ」と私は思った。

新型コロナウイルスに感染しない(あるいは人に感染させない)ためには、従来のマスクでは駄目なのだと思っていたので、「ああ、世間的には、布のマスクも認められているんだ」と、このニュースによって知った。

 

しかし本当に、布のマスクでも効果があるのだろうか? というのが私の疑問だった。

それに関しては、4月12日付の新聞(産經、小林佳恵記者)で、北里大学で講師を務める伊予亨氏(公衆衛生学)の話が紹介されていた。

「布マスクは、つばなどの飛沫を防ぎ、他人へうつさない効果は、不織布でできたサージカルマスクと遜色ないといいます。(中略)外出の際は清潔な布マスクを1枚ずつポリ袋に入れ、数枚持ち歩くことを提案しています。さらに、布マスクは、1日の終わりには洗濯してほしいとしています。」

 

政府が布製のマスクを、全所帯に2枚ずつ配布する方針を示したのは、4月1日のことだった。

「たった2枚かよ」という声もあるようだけれど、コンビニやドラッグストアに行って「マスクありませんか?」と訊いても、「ありません」と言われ続けていた私などには、たった2枚でも有難く感じた。

 

産經新聞に「風を読む」というコラムがあって、4月28日に、中本哲也論説委員が『「戦う覚悟」が伝わるマスクを』と題する文章を書いていた。

国会中継などを見ると、首相は小振りのマスクをしている。中本氏は、

「顎の大部分がはみ出てしまう小ぶりのマスクを着用した姿からは「覚悟」が伝わらない。」

と言うのだった。

 

私には、中本氏の言うことがよく理解できなかった。

「小ぶりの布マスクにこだわる姿勢からは「意固地さ」しか伝わらない。」とか、

「小ぶりの布マスクを着けたままでは戦う覚悟が伝わらず、国民への協力要請は説得力を欠く。」

と言うけれども、本当にそうなのだろうか?

……感染を防ぐというマスク本来の意味が、ここでは、別のものに変容してしまっているような気がする。

 

コラムの締めの言葉はこうだ。

「アベノマスクへのこだわりを捨て、安心感と力強さを示す大ぶりで高性能のマスクを着用して、強い覚悟で戦う姿勢を内外に示してもらいたい。」

大振りの高性能のマスクならば、安心感・力強さ・強い覚悟・戦う姿勢が感じられるということらしい。

しかし私は、布のマスクを高性能のマスクに変えたからといって、強い覚悟などが感じられるようにはならないと思う。

マスクは、何かの「シグナル」でもないし、「お守り」でもないと思う。

政治家に強い覚悟を感じられるかどうかは、発信する言葉、言葉の内容、実行力にかかっているのではないだろうか。

 

5月に入って、我が家の郵便受けにも、厚生労働省からマスクが届いた。

その、旧来型のマスクを手にして、ふと思ったことがある。

マスクは全国5千万余りの世帯に配られている。もしかしたら首相は、そのマスクを送った者として、同じマスクをつけるべきだと考えているのではないか……と。

そうでなければ、マスクを送った者として、しめしがつかない。というのが首相の思いなのではないだろうか。

政府から届いた2枚のマスクを手にしてみて、初めて、そう思った。

「小さな中国のお針子」から「如懿伝」へとつながるジョウ・シュンの演技

  • 2020.05.04 Monday
  • 14:24

「お芝居つまみ食い」その296

 

中国のドラマ『如懿伝』は、全87話という長いものだが、見ていて飽きない。

どうしてなのか、自分なりの理由を考えてみた。

ひとつは、ストーリーの展開の仕方が巧みなこと。そのため、ドラマのさきゆきが気になってしまう。

もうひとつは、映像の美しさ。清の時代の後宮の内部や、衣裳なども美しいが、雨や雪の降るさまなども美しくとらえられている。

3つ目は、主人公の如懿=嫻妃を演じている俳優の、演技に惹かれるものがあり、目が離せない。

 

如懿を演ずる女優さんの演技を見ていると、主人公が何を思っているのかが伝わってくる。

分かりやすい表情を作って、説明的に演じているわけではない。人物の内面が顔やしぐさのどこかに微妙に現れてきて、それと知れるのだ。複雑な、あるいは繊細な感情や感覚が、的確に表現される。つまりは、芝居が上手い人なのだと思う。

冷静沈着で、賢い如懿にふさわしく、常に低い声で演じているのも、きっと意識してのことだろう。

 

如懿は後宮の妃だけれども、どこか人間臭い。

乾隆帝と幼馴染だったということなので、乾隆帝との会話も、節度を保ちつつ、決して他人行儀ではない。

脚本・演出のねらいなのだろう、如懿は、相手の身分によって接し方を変えない。ただし、ここぞというときには、妃らしい態度を見せる。

冷遇されて、悲惨な状況に置かれたときには、得意の刺繍の技術を生かしてお金を得るなど、生活力を発揮して生き抜いていく。

 

この女優さんの名前は何というのだろう? そう思って確認したら、「ジョウ・シュン(周迅)」と分かった。

プロフィールを見て驚いた。

彼女は、映画『小さな中国のお針子』に出ていた女優さんなのだった。

『小さな中国のお針子』ならばDVDがあるはずだと思って、書架を探したら、やはり在った。

 

原作・脚本・監督、ダイ・シージエ。2002年のフランス映画。

DVDのジャケットには、たしかに、ジョウ・シュンの十数年前の顔が在った。懐かしい人と、思いがけなく再会した気持ちになった。

 

さっそく『小さな中国のお針子』を見た。

初めて見たときから、まだ十数年しか経っていないせいか、シーンが移るたびに、過去に見た記憶がよみがえってきた。「ああ、そうだ。そうだった」……自分自身の記憶をたどるようにして、映画を見ていった。

 

『小さな中国のお針子』は、ダイ・シージエ監督が、自身の小説「バルザックと小さな中国のお針子」を基にして、映画化した作品だ。

1954年生まれのダイ・シージエ監督には、中国の下放政策によって、四川省の村で「再教育」を受けた経験がある。

 

『小さな中国のお針子』の主人公は、都会育ちの2人の若者だ。

1971年から1974年にかけて、彼らは山奥の村に下放され、住民たちとともに農作業や銅の採掘をすることによって、「再教育」される。

村長をはじめ、住民たちは文字を知らない。したがって、本を読むことも無い。

文字を知らなくても、若い娘たちはこんな歌は知っている。

 

「われら毛主席の紅衛兵

 大草原から天安門へやってきた

 赤旗の隊列は炎の海のごとく

 われらの革命歌 天にとどく

 偉大な指導者毛主席が われらを導く」

 

隣りの村に、ミシンで服を作る、職人のおじいさんがいた。

そのおじいさんの孫は美しく、「小さなお針子」と呼ばれていた。

2人の若者は、「小さなお針子」に恋をする。……が、一人は自分の気持ちを決して表に出さない。もう一人は、自分の思いを天真爛漫に表現する。

この、2人の若者に愛される「小さなお針子」を演じたのが、ジョウ・シュンだった。

 

「小さなお針子」は、下放されてきている別の青年が、禁じられている外国の書物を隠し持っている、ということを知っていた。2人の若者はその本を読みたいと思う。ところが本を持っているその青年は、「再教育」が終了して、都会に戻っていくこととなる。本は諦めるしかないと言う2人に、「小さなお針子」はこう言う。

「盗むしかないでしょ」

可愛い顔をして、平然と大胆な発言をする「小さなお針子」に、2人は唖然とする。

「小さなお針子」のコケティッシュな魅力が、印象的に表現されている場面だ。

 

こうして盗み出したのは、バルザック、スタンダール、ゴーゴリ、ドストエフスキーなどの小説、……中国の「紅楼夢」もあった。

若者たちは「小さなお針子」に本を読んで聞かせ、やがて彼女は文字も覚えていく。

 

映画は終盤で、27年後の世界へと跳ぶ。

2人の若者の一方は、今はバイオリニストとして活躍し、もう一人は医学界の権威となっている。「小さなお針子」については、どこで何をしているのか2人とも知らない。

彼女は、2人の若者のうちの一人と恋愛をして、実は子供をさずかっていた。だが、堕胎をしたあとで彼女は村を出て、都会へと向かったのだった。

都会から来た若者たちに、本を通して、世界の広さ、人の生き方などに目を見開かされた「小さなお針子」。彼女は、狭い旧弊な村を出て、彼女らしく生きる道を選んだように思える。

山奥の村はその後、巨大なダムの建設によって、すべて跡形もなく水底に沈んでしまった。

 

2002年の『小さな中国のお針子』のジョウ・シュンの演技は、2018年の『如懿伝』の如懿へと、見事につながっているように見える。

一本、芯の通った女性がそこに在る。

 

 

『小さな中国のお針子』のDVDには、出演者と監督へのインタビューも収録されていた。インタビューの前に、略歴も紹介されていて、それを見て私は、また驚いたことがあった。

ジョウ・シュンは、チェン・カイコーの映画『花の影』(1996年)に、踊り子の役で出演した、というのだった。

『花の影』は日本で公開された当時、映画館で見た。しかし、ジョウ・シュンを意識して見たわけではなかった。

『花の影』をもう一度見なくては、という思いが今しきりにしている。

 

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