「天皇」執筆中の2氏の対談

  • 2019.04.18 Thursday
  • 19:28

「小説についての小説」その164

 

『「ポスト平成」の皇室論』と題して、作家・赤坂真理氏と大学教授・原武史氏の対談が掲載されたのは、「文學界」の2019年2月号だった。

文学の世界で、天皇や皇室について語られることには大事な意味があると考えていたので、「文藝」の2019年夏号が、「天皇・平成・文学」という特集を組んでいるのを知って、さっそく読んでみた。

 

特集の中の、池澤夏樹氏と高橋源一郎氏による、『「なぜ今、天皇を書くのか」戦後の終わりと天皇文学の現在地』という対談が(私には)興味深かった。

池澤氏は「ワカタケル」、高橋氏は「ヒロヒト」。2人とも、天皇を主人公にした小説を、現在執筆・連載中であるとのこと。

そんな2人からどんな言葉が聞けるのか、大いに関心を抱いて読んだ。

 

先の戦争の責任問題について、池澤氏はつぎのように語っていた。

「裕仁さんには戦争責任論がずっとついてまわった。彼個人の資質あるいは倫理的ふるまいによってではなかったとしても、彼の名において死んだ人間がたくさんいる。サイパン島でバンザイ・クリフから飛び下りた人たちは、戦争に負けたらこの国はないと言われて死んだわけでしょう。その死に対して裕仁さんには象徴的な責任があった。だって国は残ったんだもの。」

 

ここで池澤氏が、実質的な責任ではなく、象徴的な責任という言葉を使っているのは、つぎのような考えに基づいているからであるらしい。

 

赤坂真理の『東京プリズン』の中でも、大日本帝国憲法下、天皇を「統治機構の一機関」と見るか、「統治権の主体」と見るか、ディベートの形をとりつつ究明されていた。

池澤氏はこの問題について、こう話す。

「今になって考えると、結局、天皇機関説が正しかった。わかりきった話で。つまり天皇というのはゲゼルシャフトですよ。それをゲマインシャフトにすり替え、国民統合の象徴に仕立てて戦争を始めたと。だから三島由紀夫の「英霊の声」は間違いなんです。」

 

そして……

「最初から天皇は人間なんですよ。勝手に祭り上げておいてバカな軍人どもの仕組んだ戦争に負けたからと言って、それを私のせいにするな、と裕仁さんは言いたかったんじゃないかな。折口信夫は『天子非即神論』を言っていますよ。「『天子即神論』が、太古からの信仰であつたやうに力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」と明言している。」……と。

 

さらに、池澤氏のつぎのような言葉は、私にとって初めて聞く話だった。

「たしか原さんが書いてたと思うけど、昭和天皇は戦前に彼自身が天皇機関説をもっぱら信じていたと。」

 

昭和天皇自身が天皇機関説を信じていたのだとすれば、天皇とは何だと考えていたのか?

……なんと、象徴に近いものであった、と池澤氏は言う。

「そこにおける天皇のあり方はほとんど象徴に近かった。象徴という概念がいきなり出てきたんじゃなくて、いろんな形で戦前からちらほら見え隠れしてた。だから日本国憲法における象徴という言葉も、最終的に受け容れやすかったのではないかと。」

このこともまた、私には新しい情報だった。

 

池澤夏樹氏が日経新聞に書いている、雄略天皇を主人公にした「ワカタケル」。

高橋源一郎氏が「新潮」に連載中の、昭和天皇を主人公にした「ヒロヒト」。

いずれ完結して、単行本化されたときには、さっそく書店に出掛け、手にしてみたい。

 

小手鞠るい「アップルソング」−ある写真家の軌跡

  • 2019.04.16 Tuesday
  • 20:09

「小説についての小説」その163

 

「その162」の続きです。

 

小手鞠るい『アップルソング』の主人公=鳥飼茉莉江は、報道写真家の岩井蓮慈と出会い、お互いに結婚を考えるようになった。

だが、チャイナタウンで2人で食事をしている最中に、茉莉江は岩井に突然言われる。

「あしたの夕方から、行くことにした。堪忍な、急な話で」

そうして岩井は日本の米軍基地を経由して、またベトナムの戦場へと向かってしまう。

 

1972年、日本に里帰りをしていた茉莉江のお腹の中には、岩井の子が宿っていた。

ある朝、何気なく手にした新聞を読み、茉莉江は連合赤軍のメンバーが浅間山荘にたてこもっている事件を知る。

そして、茉莉江は思う。浅間山荘に「行かなくてはならない」。

 

茉莉江は岡山から上京して、民放テレビのディレクターを訪ね、浅間山荘に行きたいと申し出る。

「あれっ? もう、写真はやめたんじゃなかったっけ?」

「はい、私は、やめることをやめました」

こうして茉莉江はテレビ局の系列の雑誌社の臨時スタッフとして浅間山に向かうことになった。

 

しかし、妊婦であるにも関わらず、雪中での苛酷な写真撮影をしたために、茉莉江は岩井との間に授かった子を流産してしまう。

一方、岩井蓮慈はベトナムのダナンで、ベトコンのスパイと間違われて射殺されてしまうのだ。

 

その後、鳥飼茉莉江は「報道写真家」として、タイの学生運動、神奈川大学の内ゲバ、ソウルの反政府デモ、ポルトガルの軍事クーデター……と、取材を重ねていく。

偶然、居合わすことになった三菱重工爆破事件もカメラにおさめた。

日航機の墜落事故の際にも現場に向かった。7時間かけて御座山(おぐらさん)の頂上にたどりついたものの、そこは墜落現場ではなかった。遠くの御巣鷹の尾根に、墜落の現場と思しきものを見やりながら下山した。下山しながら、茉莉江は思う。

 

「この世界は、美しくないもので満たされている。この世界は美しくない。醜い。むごい。残酷で冷酷だ。非情で非道だ。私は、この醜い世界を撮りたい。悪、憎悪、暴力、虐待、争い、奪い合い、殺人、殺傷、殺戮、人の悪がもたらす悲劇。私はそれらを撮りつづける。写真とは、偶然の産物ではない。それは、シャッターを切る瞬間に至るまでの、写真家の全人生が注ぎ込まれているもの。」

 

そして鳥飼茉莉江は、1994年の第一次チェチェン戦争から、第二次チェチェン戦争に至るまでの5年間、一貫してチェチェンに関わり続けた。

チェチェン民族が、「ロシアという大国からくり返し、くり返し、被りつづける、残虐非道な破壊と大量殺人行為を取材しつづけ」たのだ。

 

だが、その間に、茉莉江がカメラを手放したくなった瞬間があったのではないかと、作者は書いている。

「もしかしたら、あるとき茉莉江がこのニコンF3をふっと手放したくなったのは、この、戦争とも呼べないような、一般市民に対する攻撃、略奪、市民を対象にした拷問、虐殺、処刑など、まさに少数民族の殲滅にほかならない軍事行動の残忍さに、この悲劇に、耐えきれなくなったからだろうか。」……と。

けれど、それでも鳥飼茉莉江は写真を撮り続けた。報道写真家としての仕事をし続けた。

 

やがて2001年の9月11日がやってくる……。

その朝、茉莉江はニューヨーク、チェルシーのアパートに居た。管理人がドアをノックする音に起こされ、アパートの屋上に連れて行かれる。そこで見たものは、世界貿易センタービルのツインタワーあたりから噴き上がっている煙だった。

 

「茉莉江は、のちに『爆心地(グラウンドゼロ)』と名づけられることになる911テロの現場を目指した。」

立ち入り禁止のバリケードがあったが、世界中の戦地を渡り歩いてきた茉莉江にとって、封鎖された場所に潜入するのは容易いことだった。茉莉江は危険な場所に踏み込んでいく。彼女はシャッターを切りながら、奥へ奥へと進んでいく。

「この先に、まだ生きている人がひとりでもいるのであれば、その人を救わなければならないと、茉莉江は思っていた。撮らなくてはならない、は、救い出さなくてはならない、に、変わっていた。ひとりでもいい、救わなくてはならない。」

 

このあとに、圧倒的、そして決定的な描写がなされる……。

「わずか一メートルほど先に、かすかに見え隠れしている、白いものがあった。それはかすかに動いていた。ものではない。人の手だ。手のひらだ。指だ。中指と人さし指が動いている。そのことに気づいたとき、茉莉江は首から下げていたカメラを毟り取るようにして、投げ捨てた。二台とも。意思はなかった。気がついたら、捨てていたのだ。捨ててから、理解した。写真よりも大切なものがあると、茉莉江は覚った。カメラよりもフィルムよりも大切なものがある。あの人を救い出すために、あの手を握りしめ、あそこに埋まっている人を助け出すために、そのためにあと一メートル、四つん這いで進んでいくためには、カメラは邪魔だった。」

 

鳥飼茉莉江は瓦礫に埋まった人を助け出した。しかしその後、茉莉江はなおも人を助けるために進んでいき、そして帰ってこなかった。

 

美しいものを撮りたいという欲求を満たすためには、まずカメラが必要だった。貧しい暮らしの中で、カメラはあまりにも高価な物だった。

美しいものを撮り続ける茉莉江に、インスピレーションを与えたのは女性編集者のジェニファーだった。

ジェニファーがこうあるべきと茉莉江に説いていた「写真」を、現実のものとしてこの世に出現させていたのが、岩井蓮慈だった。

その岩井蓮慈からバトンを受け取るように、「報道写真家」として写真を撮り続けた茉莉江。

しかし、茉莉江は最期、カメラを「投げ捨てた」のだった。何故?

「あそこに埋まっている人を助け出すために、そのためにあと一メートル、四つん這いで進んでいくためには、カメラは邪魔だった」……から。

 

こうして、『アップルソング』を、茉莉江の「写真」との葛藤・格闘、というテーマに絞って追ってきてみると、またしても、ジェニファーの言葉が、需要なキーとして思い浮かんでくる。

ジェニファーは「芸術」について、若き日の茉莉江に、こんな風に語っていた。

 

「ただ、ひとつ、このことだけはよく覚えておいて。芸術の世界には、努力だけでは乗り越えられない壁がある。才能だけでも、駄目なの。運だけでも、もちろん駄目よ。(中略)幾ばくかの運と、多大なる才能と、尋常ならざる努力。これらを束にして立ち向かっても、壁はなお、かたくぶあつく立ちはだかっている。これはもう、誰にもどうしようもないくらい、絶望的な壁よ。それを乗り越えていった人だけが、真の意味でのアーティストになれるの。それによって、幸せが掴めるかどうかは別として」

 

鳥飼茉莉江はジェニファーの言う「真の意味でのアーティスト」になっていったのではないか。

だからこそ、最後にカメラを棄てるところまで、突き抜けていったのではないだろうか。

そう考えると、茉莉江の死はもしかしたら、アーティストとして、幸せな死だったのかもしれない。

 

小手鞠るい「アップルソング」−ある写真家の軌跡

  • 2019.04.15 Monday
  • 17:19

「小説についての小説」その162

 

小手鞠るいの『アップルソング』(ポプラ文庫)もまた、斎藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)を読んで、ぜひ読みたいと思った作品だ。高橋氏は『アップルソング』について、このように書いていた。

「一九四五年、空襲の瓦礫の中から救出され、渡米して報道写真家になった女性の、評伝と見まがうような波乱万丈の人生の記録。」

 

『アップルソング』は時間的にも、空間的にも、壮大なスケールを持った作品だった。

文庫本448ページの中に、下記のような、多くの歴史的な出来事が現出してくる。その現出の仕方は、説明的なものではなく、出来事の只中にあった人々の生々しい体験として描写される。

 

1945年 岡山大空襲

1964年〜1975年 ベトナム戦争

1969年 新宿駅西口地下広場 反戦フォークゲリラ事件

1972年 連合赤軍 浅間山荘事件

1974年 東京丸の内 三菱重工爆破事件

1985年 日本航空123便墜落事故

1994年 第一次チェチェン戦争

1999年 第二次チェチェン戦争

2001年 アメリカ同時多発テロ事件

 

まことに骨太な作品だと、圧倒される思いで読み終わった次第だが、読後、何週間かを経て、胸の底のほうから浮かび上がってきたのは、1945年から今日まで、日本および世界が辿って来た歴史に対する思いではなく、それとは別の事柄だった。

主人公・鳥飼茉莉江は写真家に成るのだが、その、「写真」に対する向き合い方が、不変ではなく、大きく変容していくのだった。茉莉江の、「写真」についての考え方が進化・発展していく、その軌跡がドラマチックに感じられた。

 

当初、茉莉江の夢は、大学に入って絵の勉強をすることだった。

ところが、ワシントン・スクエアで知り合った、黒人青年のジョーが撮った写真を見たことから、その夢が変わっていく。

「ジョニーの写真の大多数は、家族や友人の肖像だった。カラーもあれば、モノクロもある。じっと見つめていると今にも、人々のしゃべり声や笑い声や叫び声、子守歌や祈りやささやきが聞こえてきそうだった。生命力があると思った。躍動感があると思った。絵画とは違った息づかいがあり、脈拍があり、輝きがあり、羽ばたきがあると、茉莉江は感じていた。」

 

さらに茉莉江は、自分なら、何を撮るかを考えた

「私なら、人ではなくて、植物を撮る。花を撮る、葉っぱを撮る、木の枝や芽を撮る。小さな生き物を撮る、小鳥を撮る。雛鳥を撮る。蝶々を撮る。この世界にある美しいもの、可愛らしいもの、愛されるべきもの、守られるべきものを撮る。それらを包み込んでいる無限の空を、青をたたえる空を、空に宿る永遠の光を。」……という風に。

 

そうして茉莉江は、「絵の勉強をする」という「夢」を捨て、「写真を撮る」という「意志」を持つようになる。

 

ちょうどその頃、茉莉江は知り合った日本人の写真家=坂木真人から、絵と写真の違いについて、こんな風に教えられもする。

「――絵は額縁のなかに世界を閉じ込めるもの。額縁のなかが世界。写真は、そこに写っていないものも含めて、その外には世界が広がっているということを表現し、見た人に世界の広がりを感じさせるもの。」……と。

 

写真を撮りだした茉莉江は、自分の作品をおさめたアルバムのようなもの(「ブック」と言うらしい)を、ある女性編集者に見せる。

この女性編集者=ジェニファーとの邂逅がまた、茉莉江をつぎのレベルに引き上げることとなる。茉莉江の写真を見て、ジェニファーはこう言う。

「美しいわね、確かに。とても美しい写真だと思います。あなたは、美しい写真を撮ることができる。センスも才能もやる気もある。そのことは認めます。けれど」

 

「けれど」のあとに続いたジェニファーの言葉は、茉莉江には、まるで銃弾のように感じられた。

曰く「でもね、現実に在る美しいものを、ただ、あなたが感動して、賞讃して、写し取っているだけではいけないの。そんなのは、暇な人の趣味に過ぎない。自己満足に過ぎない。」

 

曰く「あなたにしか表現できない特別な『美』を提示しなくては。あなたの写真の前に、人々の首根っこを掴んで引っ張ってこられるような、人々があなたの写真の前から一歩も動けなくなるような、そういう力を孕んでいなければ、それはアートであるとは言えません。」

 

曰く「写真家は『目』なんです。あなたは外の世界を、時代を、社会を、しっかりと目を見開いて見て、空気を、風を、匂いを、外に出て吸い込んでみなくては……」

 

そんなことがあったのが2月のこと。それから約1年ののち、茉莉江はニューヨークの本屋で、大判の報道写真雑誌『APERTURE』と巡り合う。

彼女はその雑誌の表紙の写真を見て、「一歩も、動けなくなっていた。」それはまさに、1年前にジェニファーが言っていた、写真に「首根っこを掴まれて、引っ張ってこられたような恰好」だった。

「累々と折り重なる人々の死体。これ見よがしに放置されている死体。男女の区別もつかなくなっている死体。殺される前に、リンチに遭ったと思われるベトナム人兵士の死体。少年兵の姿もある。ちぎれた手足、ねじ曲げられた背中と腹。首から上がない死体、死体とも思えないほど破壊されてしまった肉片。ピラミッドのように積み上げられた死体の山のなかから、そのすきまから、外をのぞいている、少女の一対のまなざし。レンズはまっすぐに、そのまなざしに向けられていた。この子はまだ生きている。幼い女の子だ。彼女が掴んで、握りしめて離そうとしていないのは、おそらく、母親の死体の腕だろう。あるいは、乳房か。」

その写真を撮ったカメラマンは、岩井蓮慈という日本人だった。

 

1969年6月、茉莉江は日本で、新宿駅西口地下広場のフォークゲリラの集会に遭遇する。

そこで茉莉江は、今までしたことの無かったことを始める。

「茉莉江は撮影を始めた。自分でも自分の行為に驚かされていた。『人を撮りたい』と思ったことは、今までに一度もなかった。人よりも植物、小さな生き物、美しい景色に関心があった。しかし今、撮りたいという思いよりも先に手足が動いてしまったのは、おそらく、ここに集まっている人々の放出している熱気のせいだろうと、茉莉江は分析した。」

 

やがて機動隊が催涙ガスを発射し始めた。茉莉江は、何か硬いもので頭部を殴られ、その場にうずくまる。頭部から流れる血にまみれた手で、茉莉江は写真を撮り続ける。

そして、そのときに撮った写真は、のちにニューヨークの雑誌社に買い取られ、

Tokyo June 28, 1969 新宿駅西口地下広場にて、歌う東京の戦士たち」

というキャプションを付けられてニュース雑誌に掲載された。

 

茉莉江が岩井蓮慈に紹介されたのは、そのニュース雑誌社主催のクリスマスパーティの席でのことだった。

二人は恋に落ちる。

茉莉江の心境にも変化が生じていく。

「今の茉莉江にはもう、写真で身を立てていこう、自分にはそれしかない、という一途な思いは、ない。写真は、趣味や娯楽でいいと茉莉江は思っている。たとえば家族のスナップ写真を撮る。赤ん坊が生まれたら、赤ん坊の写真をいっぱい撮る。写真もカメラも、家族には、かなわない。」

茉莉江は写真よりも、岩井蓮慈と幸福な家庭を築く道を選ぼうとするのだ。

 

しかし、茉莉江の写真に対する考え方は、これで終着点とはならなかった……。

茉莉江のその後の歩みについては、また次にご紹介させていただきます。

天安門事件ー考え続けるべき課題

  • 2019.04.09 Tuesday
  • 22:41

「小説についての小説」その161

 

中国出身の楊逸が2008年に芥川賞を受賞した『時が滲む朝』を、読んだことがなかった。最近、斎藤美奈子氏の『日本の同時代小説』(岩波新書)の中で、

「民主化運動に参加した二人の大学生(梁浩遠と謝志強)が天安門事件で大きな挫折を味わうも、後に日本で再会する骨太な青春小説」

と紹介されているのを読み、そういう小説ならば、ぜひ読まなければと思った。

 

茶色く変色した1枚の新聞の切り抜きが手元にある。

切り抜きの端に「讀賣新聞」の文字があるが、日付は分からない。ただ、リードを読むと……

「きょう四日は、一九八九年に北京・天安門広場で起きた天安門事件の悲劇からちょうど八年。」

とあるので、おそらく1997年6月4日の新聞だと思われる。

 

新聞記事の見出しは……

 「天安門」の真実に迫る

 ドキュメンタリー映画「天安門」

 ヒントン監督 学生の迷い、対立―証言をもとに検証

と、3つ付けられている。

 

アメリカのカーマ・ヒントン監督が、ニュース・フィルムと、インタビューによって、事件当時の様子を再構成した映画が、日本で公開されているという記事だった。

私はこの映画を見ていないのだが、切り抜きだけは捨てずに残してきた。

 

2019年2月に、世田谷パブリックシアターで、『CHIMERICA』(作 ルーシー・カークウッド、演出 栗山民也)が上演された。

どんな内容か確かめもせずに、人気俳優が幾人もキャスティングされていることを理由にして、「見にいきたい芝居」のリストから外してしまった。

あとで、天安門事件を扱っている芝居だと知ったときは、もう後の祭りだった。

 

幸い、「悲劇喜劇」2019年3月号に戯曲『CHIMERICA』(小田島則子訳)が掲載されたので、読むことができた。

天安門事件の有名な写真――戦車の前に、無防備な姿で立ちはだかる1人の男性の写真。

その写真を撮影したというアメリカ人が、写真の男性の所在を突き止めようとする、そういう戯曲だった。

 

『CHIMERICA』を読んだのが3月、そして4月に入って楊逸の小説を読んだ。

読んで分かったのは、『時が滲む朝』は北京で起きた天安門事件の当事者を描いたものではないということだった。

主人公の梁浩遠や謝志強は北京の大学生ではなく、秦都の秦漢大学の学生だった。

これも『時が滲む朝』を読んで知ることができたのだが、民主化や愛国の運動が起きていたのは北京だけでなかった。秦都でも(ということは、おそらくほかの都市でも)若者たちの運動が発生していたのだった。

従って、天安門事件による挫折・喪失感は、北京の大学生だけでなく、梁浩遠や謝志強ら地方の大学生たちにも及んでいったということが、よく分かる。

 

天安門事件――「よその国の、過去の事件」と切り捨ててしまってはいけない事件であるように思う。

「天安門」は、考え続けるべき、一つの「課題」であるように感じている。

成河は何故役を変えたのか?「BLUE/ORANGE」

  • 2019.04.08 Monday
  • 19:57

「お芝居つまみ食い」その267

 

2019年3月29日〜4月28日

主催・製作 シーエイティプロデュース

作 Joe Penhall、翻訳 小川絵梨子、演出 千葉哲也

『BLUE/ORANGE』

DDD青山クロスシアター

 

成河のストレートプレイが見られる、ということで、また、DDD青山クロスシアターに出向いた。

「また」というのは、2018年の7月にも、成河の芝居『フリー・コミティッド』を同じ劇場で見たからだ。

 

『フリー・コミティッド』は一人芝居だったが、今回の『BLUE/ORANGE』は男性3人だけの会話劇だった。チラシの裏の「STORY」に、こう書かれていた。

 

「ロンドンの精神病院。境界性人格障害のために入院していたアフリカ系の青年クリスは、研修医ブルースによる治療を終えて退院を迎えようとしている。しかしブルースには気がかりなことがあり、退院させるのは危険だと主張していた。上司のロバート医師はそれに強く反対し、高圧的な態度で彼をなじる。納得のいかないブルースはクリスへの査定を続け、器に盛られたオレンジの色を問う。彼はそのオレンジを『青い』と答えた――。」

 

アフリカ系の青年クリストファーを演じたのは章平。

研修医ブルースを演じたのは成河。

上司のロバートを演じたのは、この芝居の演出もした千葉哲也。

 

この3人それぞれの演技が良かった。

舞台の両側に観客席が設けられ、演技者はほとんど360度、どの方角からも見られている中で演技をする。想像するに、裸で舞台に立っているのと同じ感覚なのではないだろうか?

どこから見てもクルストファーであり、ブルースであり、ロバートでなければならない。

けっこうな演技力を要すると思うのだが、3人は破綻を見せずに演じ切っていた。

 

観劇後、パンフレットを見て、この『BLUE/ORANGE』は、2010年に成河(クリストファー)、千葉哲也(ブルース)、中嶋しゅう(ロバート)によって上演され、クリストファーを演じた成河は読売演劇大賞を受賞したことを知った。

 

また、今回『BLUE/ORANGE』をまた上演することになったとき、成河がブルース、千葉哲也がロバートを演ずることが先に決っていたらしい。クルストファー役はどうする? ということになって、成河が『テイク・ミー・アウト2018』の章平を見、「この佇まいはクリストファーだ!」とひらめいた、というようなことも知った。

 

章平のクリストファーは躰の大きさや、風貌、年恰好から考えても適役なのかもしれない。 

しかし、今回の上演にあたって、どうして成河は、クリストファーからブルースに、役を変えてしまったのだろうか? その辺についてはパンフレットには書かれていなかった。

 

2010年の上演のときは、24歳という設定のクリストファーを29歳の成河が演じた。

2019年の今回、成河は38歳になっている。だから、クリストファーよりも設定年齢が高い(20代後半)ブルースのほうを演じたのだろうか?

俳優として、1度演じたクリストファーをまた演じるよりも、ブルースを新しく演じることのほうに意欲が湧いたのかもしれない……。

 

けれど、私は観客として夢想してしまうのだが、今回の公演で、成河がクリストファーを演じていたら、『BLUE/ORANGE』の舞台はもっと強烈な印象を残したのではないだろうか?

今回の3人の演者の演技は、バランスがほど良くとれていたと思う。スマートだったと思う。

しかし、38歳になった成河が、クリストファーという人物(イギリスという国において、黒人であり、労働者階級であり、精神を病んでいるらしい若者)を再び演じていたら、きっと危険な感じが増し、不穏で不安定な世界が現出したのではないだろうか?

 

上手に演じられた芝居にとどまらず、鋭い刃をつきつけられるような芝居がやはり観たい。

アンコールまで聴きましたーwacciのライブ

  • 2019.04.07 Sunday
  • 22:45

「劇団は今日もこむし・こむさ」その258

 

「その248」に「頑張って3曲聴いたライブ」という文を載せさせていただいた。

2018年11月、あるバンドのライブに行ったものの、のっけから全員総立ちのノリについていけず、3曲だけ聴いて退散してしまったという文だった。

 

そのバンドのライブに2019年4月6日、再び出掛けてきた。

11月に退散してしまったバンドのライブに、何故また出掛けたのかというと、この間に彼ら(wacciというグループ)のアルバムを買って聴いたからだった。

アルバムのタイトルは『群青リフレイン』、その中にいい曲がいくつも収録されていて、生でその歌を聴きたいと思ったのだ。

 

wacciは2018年11月17日の豊洲PIT(東京)をかわきりに、全国47都道府県ツアーをおこなってきた。私が3曲で出てきてしまったのは、そのツアー最初のライブだった。

そして、2019年4月6日、神奈川県民ホール(大ホール)で行われたのがツアーの最終回で、そこで、5カ月前、豊洲PITで聴きのがしてしまった数々の歌を、あらためて聴かせてもらうことが出来た。

 

とはいっても、ロック調というのだろうか、速いテンポで、会場がズンズン鳴り響くような曲は、よく聞き取れないし、胸に入ってこないしで、やはり「苦手」に感じた。

けれど、ボーカル(橋口洋平)が真摯に歌い上げる何曲かのバラードには、強く惹きつけられるものがあった。

 

〽僕の喜びにはまるで自分のことのように泣き虫で

 辛い事の時は決して泣かないで

 ただ大丈夫だと

 

 僕はこの僕は

 あなたの願ったようになれていますかわからないけれど

 少しでもあなたが笑っていられるように

 生きてくよ

 ……

 

子供が親に向かって、「ありがとう」の思いを花束にして贈る歌。(その思いは、子供と親の間だけに限らないものでもある)

アルバムを聴き、「いいな」と思っていた「花束にして」という曲を、ライブで聴くと、また一層の感動が生まれた。

 

演奏の合間に語られる話の中にも、印象深いものがあった。 

彼らが、何故、47都道府県ツアーを実施したのか? その訳。

「ネットとかSNSとか、もっと簡単にwacciを知ってもらう方法はあるのかもしれないけれども、僕たちは47都道府県ツアーをする方法を選んだ。古いやり方かもしれないけれど、僕たちはお客さんの目を見たかった。お客さんに直接会いたかった。自分たちのほうから足を運んでいこうと思った。」

そういう意味のことを話した。

 

劇団の第5回公演で、携帯電話やスマホに頼らず、子供と常に同じ場に立ち、同じ場の空気を吸うことを信条とする教師を、主人公にした芝居を創った。その芝居の思いと軌を一にする言葉を、まさか耳にするとは思っていなかったので、驚きもし、心強くも感じた。

 

豊洲PITも、神奈川県民ホールも、会場は広く、観客は相当な数にのぼっていた。

大きな会場の、遠いステージにバンドのメンバーが居る。声はマイクが拾ってくれるし、動きは見える。けれど、表情までは分からない。そんな風に、47都道府県のどこでも、多くのファンに囲まれて、演奏をしてきたのだろうと思っていた。

ところが、こんなエピソードが紹介された。

 

ある県のライブでは、観客が15人だったというのだ。

15人だったけれども、もちろんライブはおこなわれた。

15人のお客さんたちも、一生懸命(?)演奏に反応してくれて……。

ライブ後、普段は言葉をあまり発しないスタッフの一人が、「今日のライブは良かった」と言ってくれたというのが、このエピソードのシメだった。

華やかなだけではない現実の中に彼らが居て、そのことを彼ら自身が自覚しており、努力をしている。それを知ることが出来た。

 

47都道府県ツアーの中には、「アコースティック編成」でおこなわれたライブもあったらしい。

「アコースティック編成」と聞くと、さらに興味が増してくる。

つぎは是非、アコースティック編成のwacciのライブに出掛けたい。

俳優座稽古場での公演ー「血のように真っ赤な夕陽」

  • 2019.04.04 Thursday
  • 15:39

「お芝居つまみ食い」その266

 

2019年3月15日〜31日

劇団俳優座 第338回公演

作 古川健(劇団チョコレートケーキ)、演出 川口啓史

『血のように真っ赤な夕陽』

劇団俳優座5階稽古場

 

古川健が俳優座のために書き下ろした作品と聞いて、六本木に出掛けた。

俳優座の稽古場での公演。脇道を入ってすぐの入り口からエレベーターに乗って5階へ。

さすが俳優座ということなのか、稽古場といっても狭い感じはしない。

演技をする空間も手狭な感じはなく、その空間に対して、L字型に階段状の座席が設けられていた。

 

会場は稽古場だが本公演であるらしい。

本格的な劇場ではなく、四角い箱のような空間に、舞台や座席を作って公演の場所としているケースは沢山あるし、そんな芝居に、もう慣れてもいる。

しかし、新劇を代表する俳優座も、今は(昔から稽古場での公演をしていたのか分からないが)こんな風な形でも芝居を上演しているのかと思うと、やっぱり時代の変化を感じざるを得なかった。

 

といって、稽古場での公演が良くないと思っているわけではない。歴史のある新劇団であろうとなかろうと、芝居を打てる場所を大いに活用して、やりたい芝居をどしどし創って見せてくれるのは、いいことだ。

出来ればチケット代も安くなればいいと思うが、今回は全席指定で5,400円。

文化庁の助成金も受けているらしいが、それにしては? と思われる値段に私は感じた。

 

稽古場の四辺のうち、二辺は観客席、一辺の両サイドが登場人物たちの出入り口になっていた。私が気になったのは、残りの一辺の処理だった。

登場人物たちが出たり引っ込んだりする一辺には、大きな布が斜めに掛けられ、それが透けたり、あるいはスクリーンになったりしていた。

しかし、残りの一辺は、稽古場の太い梁が露呈したままで、観劇の気分が削がれる気がした。

そこにも、大きな布を掛けるなどして、梁を隠しても良かったのではないか。

 

その残りの一辺には、各場面で使われる小道具(机やら椅子やら)が置かれていて、その雑然とした感じも(私には)気になった。

小道具そのものに、また小道具の置き方・組み合わせに、ある種の「美」が感じられればいいと思うけれども。

稽古場という機能的な空間を、「劇場」に化けさせて見せてもらえたらと思った。

 

お芝居は旧満州に入植した開拓民の3家族の物語だった。

日本では小作として苦労していた人々が、自分の土地を持つ夢を抱いて満州に渡ったものの、敗戦でその夢が泡のように消えてしまう。どこまでも報われない庶民の、行き場のない辛さを受け止めることが出来た。

 

私が「これは重要だ」と感じたのは、池田家の家長、池田一郎の人物造形だった。

彼は同胞に対しては威張らないのだが、満州人に対しては、高圧的な態度・言葉遣いをするのだ。日本では小作として、さぞかし頭を低くして暮らしていたのだろうに、相手が満州人と見ると、居丈高になる。そんな、いかにもありがちな人間を古川健は描いた。

それを鋭く察知して、息子をたしなめるのが母親のマツだった。

満州人と同じ、低いところからものを見ることの出来る、この老婆の「思想」、と言っては大げさかもしれないが、その生き方の基本的なスタンスが、一緒に入植した3家族の精神的な共通項になっていく。

その精神は、満州人の心にも響いていく。だからこそ、やがてソ連が侵攻してきたときに、満州人の手助けによって、3家族は無事に引き揚げることが出来たのだった。

 

3家族の中の長老である池田マツを演じたのは、岩崎加根子だった。

岩崎加根子は今も俳優座に所属し(1952年に入団したそうだから、今年で67年)、こうして、芝居の要の役を演じ続けている。そのことは、どんなに貴重なことか。

 

一つ、「これは難しいのでは?」と感じた役があった。

それは、ソ連侵攻後のこと、近くの開拓団の幹部(学校の先生であるらしい)が、3家族の所にやってくる。彼の口から語られるのは、その開拓団の集団自決の様子だった。彼は自分の家族をはじめ、多くの人をその手にかけなければならなかった。そうして今、彼の憎悪は満州人に向かい、満州人を殺そうと血眼になっている。

この人物は、全3場の最終場で初めて登場する。3家族の誰かと交流があったわけではないので、自分が何者で、どのようなことが隣りの開拓団で起き、これからどうしようとしているのかを、すべて自分の口で語らなければならない。

……リアルに演じつつ、説明的にならないように工夫しながら、緊迫した状況が伝わるようにしなければならない。……これは、難役だと思った。

この役を演じた役者さんも、充分消化しきれていないように感じられた。

 

終演後、稽古場を出て、エレベーターに乗ろうとしたが、混み合うだろうと思い、階段を使った。ビル内の階段ではなく。鉄の非常階段を下りていく。

俳優座劇場は1980年に改築されているそうだから、少なくとも改築後40年近くが経っている。非常階段も古びていて、お世辞にも綺麗とは言えない。そんなところにも、時の流れを感じたりした。

 

市原悦子の訃報に接して、「新劇」を想う

  • 2019.04.03 Wednesday
  • 17:24

「お芝居つまみ食い」その265

 

2019年1月12日に市原悦子(敬意を込めて、敬称を略させていただきます)が亡くなった。

新聞でも大きく報じられた。テレビドラマ、アニメ、映画、舞台と、それぞれにいくつもの代表作を持っている女優さんだということを、あらためて認識させられた。

 

私がまだ十代の頃、市原悦子は新劇の女優さんとして活躍していた。その頃の彼女の仕事に触れているせいだろう、その死にあたって、それがどのように振り返られるのか関心があった。

 

1月13日の産経新聞には、渡辺美佐子氏のコメントが載った。

「俳優座でたくさんの作品に出ていて、女優として素晴らしいと注目していた。舞台『アンドロマック』で共演したのが思い出。俳優は自分を通して何かを表現する。その人間を通してこういうことを訴えたいというのが、すごくはっきりしている女優だった。」

 

同じく産経新聞に、仲代達矢氏が市原悦子を追悼する文章を寄せていた。(1月23日付)

「昭和39年、私は日生劇場(東京都千代田区)で上演されたシェークスピアの『ハムレット』で市原さんと共演した。私がハムレットで彼女はオフィーリア、演出は鬼と恐れられた千田是也さん(1904〜94年)。私は千田さんの指示におどおどして萎縮したが、市原さんはどこ吹く風だった。」

 

その「どこ吹く風」とは、こんなふうだったらしい。

「あのほがらかな声で、『もう一度お願いします』と稽古のやり直しをお願いしたのだ。気が遠くなるほど何度も何度も…。私と違って、肝が据わっていた。後で市原さんは私に『納得のいく芸を見せたい一心だった』と語った。天才女優といわれたが、努力に関しても天才だった。」

……「納得のいく演技」ではなく、「納得のいく芸」というのがいい。

 

渡辺氏のコメント、仲代氏の文章に出てきた2つの芝居を見た記憶があり、昔のパンフレットを探してみると、やはり在った。

 

1965年2月2日〜27日

日生劇場/俳優座提携公演

作 シェイクスピア、訳 三神勲、演出 千田是也

『ハムレット』

日生劇場

 

この公演のパンフレットを読み直してみて、注目したのは、演出家であり日生劇場の取締役である浅利慶太氏の文章だった。(その文章は千田是也演出による『ハムレット』が1964年に初演されたときのもので、再演にあたって再録されていた。)

「はっきり申し上げて、千田さんは社会主義的リアリズム、私は新古典主義、芸術上の立場には相違があります。

 しかし日生劇場を設立するとき、この劇場を演劇人にとっての共通の広場にしたいという私の訴えを、千田さんは快く聞いて下さいました。(中略)

 新劇五十年の積みあげた努力の結晶を目のあたりに見せて頂き、私たち若い演劇人は、その遺産を後世に伝えていかねばなりません。遺産をうけついだうえで、同調するにせよ、反逆するにせよ、それは立派に伝統を継承したことになると私は思います。」

 

日生劇場は日本生命が創業70周年を記念してつくられた劇場だ。その劇場と、新劇を代表する俳優座が提携して公演をする。そのことに、今となってはなんの不思議も感じないだろうが、1960年代の当時は思想的・政治的な意見が表に出ていた時代だったので、日生劇場と俳優座の組み合わせに批判的な意見があった。

そういう批判のある中での、両者による提携公演だったのだが、浅利慶太氏の文章をよく読むと、「遺産」という言葉を使っているのが、今にして思うと、気になる。

「遺産」が、「〇犖紊飽笋靴榛盪此比喩的に、前代の人が遺した業績。」(広辞苑)という意味であるとすれば、浅利氏は、意識してか、無意識でなのか分からないが、新劇を過去のものと認識していたように受け止められる。

 

1966年5月6日〜29日

作 ラシーヌ、訳 宮島春彦、演出 浅利慶太

『アンドロマック』

日生劇場

 

『アンドロマック』のパンフレットには、浅利氏は演出者として、「ラシーヌ雑感」という文章を掲載している。

この中で、浅利氏は、「日生劇場は芸術的なねらいをもちながら同時に商業演劇としての経営も成り立たせるというむずかしい意図をもった劇場である。私たちは年に一回だけは、純粋に芸術的意図のみを貫く作品をとりあげようという方針をかため昨年から実施している。」

『アンドロマック』は、この、「芸術的意図のみを貫く作品」として上演されたものだ。

 

『アンドロマック』の主要な登場人物の配役は、つぎの通りだった。

ピリュス……平幹二朗

オレスト……日下武史

アンドロマック……市原悦子

エルミオーヌ……渡辺美佐子

そのほかにも、北村昌子、新村礼子、林昭夫、宮部昭夫といった、それぞれに魅力をもつ実力者たちが出演していた。

 

こういった役者陣について、浅利慶太氏はこう書いている。

「私はまた、この『アンドロマック』が、未来の演劇に無限の可能性をあたえるだろう、若く、実力のある俳優たちによって演じられることを誇りに思っている。この人たちは新劇が育てたもっとも優れた部分を代表している。」……と。

 

浅利氏が言うように、新劇は多くの優れた役者を育てたことは、間違いのないことだ。

『ハムレット』も『アンドロマック』も、新劇で鍛えられ、輝かしい肉体と声をもつ役者たちが、丁々発止と、その芸を競い合った作品と言える。

 

『アンドロマック』のパンフレットに、当時の新聞(おそらく朝日)の切り抜きが挟んであった。筆者の名前は無く、文末に(展)と記された劇評である。

評者は、「浅利慶太の演出がみのらせた果実であり、新劇の新しい可能性を開いた、貴重な公演である。」と評価している。

役者についても……

「新劇界の若手の俳優が、浅利演出のきびしい要求に耐えてこの公演を成功させたことは、若手陣の演技の幅の広さを証明したわけだ。平、日下、市原、渡辺、この四人の俳優は、間違いなく、次の時代の新劇界の第一人者であろう。」と書いている。

 

この劇評の見出しは、「新劇の新しい可能性」だ。

しかし、個々の俳優たちはともかく、新劇自体はその後、時代の推移とともに、退潮していくことになる。

退潮していく少し前に、華々しいというのか、目覚ましいというのか、新劇隆盛の時代があった。その中に市原悦子の姿も確かに在った。

市原悦子の訃報に接して、新劇というものについて、改めて考えさせられることになった。

乃南アサ「水曜日の凱歌」−その礎

  • 2019.04.03 Wednesday
  • 00:22

「小説についての小説」その160

 

斎藤美奈子氏の『日本の同時代小説』(岩波新書)を読み、その中で取り上げられている小説の中で、まず読みたいと思った小説が何編かあった。その中の1編が、赤坂真理の『東京プリズン』だった。

 

『東京プリズン』を読み、つぎに乃南アサの『水曜日の凱歌』(新潮文庫)を読んだ。

斎藤美奈子氏は『水曜日の凱歌』について、こう書いていた。

「敗戦直後、米軍将校のために設立されたRAA(特殊慰安施設協会)に身を寄せた母と娘の変転と成長の軌跡」

 

文庫本の裏表紙の紹介文はこうだ。

「昭和20年8月15日水曜日。戦争が終わったその日は、女たちの戦いが幕を開けた日。世界のすべてが反転してしまった日――。14歳の鈴子は、進駐軍相手の特殊慰安施設で通訳として働くことになった母とともに各地を転々とする。苦しみながら春を売る女たち。したたかに女の生を生き直す母。変わり果てた姿で再会するお友だち。多感な少女が見つめる、もうひとつの戦後を描いた感動の長編小説。」

 

主人公の二宮鈴子(国民学校高等科1年生)は勤労動員されていた埼玉から、1945年3月10日の午後、東京に帰ってくる。

 

列車が上野駅に着いたとき、「地獄さながらの光景を目の当たりにする」。

「町は未だに所々煙がくすぶっており、異臭が漂い、山のような黒焦げの死体が転がり、その間を、たとえ怪我はしていない様子でも、まるで幽霊のように虚ろにさまよう人々がいた。」

 

鈴子は自分の家があった場所までたどり着き、貼り紙を見つける。

「二宮つたゑブジ。言問国民学校ニ避難シテヰマス」

その国民学校で、鈴子は母親のつたゑと再会することが出来た。

 

本所区で運送会社を経営していた二宮家は7人家族だった。

しかし、父親が交通事故で命を落とし、長男は満州で戦死、長女は嫁入り先で空襲に遭って亡くなり、次男は応召されたまま消息不明、三女は東京大空襲で行方不明となって、……今は2人だけになってしまった母親と鈴子。

この2人の女性が、敗戦後すぐの時代をどのように生きていくのか? それがメインのストーリーとなっていく。

 

物語のスタートの場所が、私自身が生まれた「本所」であったので、いっぺんに小説の世界へと入り込むことが出来た。そこは、東京大空襲の記憶が今も遺る地であることから、登場人物たちの体験の描写も、他人事として受け止められないものがあった。

 

母親の二宮つたゑは、英語が話せる能力を生かして、「特殊慰安施設協会」(RAA)の職員となる。

つたゑは鈴子に言う。

「明日にはアメリカの占領軍が上陸してくるそうよ。そのアメリカ兵たちに、日本中の女たちが襲われたり乱暴されたりするのを防ぐためには、どうしても、自分たちの身を挺して、防波堤になってくれる女の人たちが必要なの」……と。

 

この母親の言葉を聞いて、鈴子の中に浮かんだ言葉がある。それは……

「慰安婦、という言葉が、鈴子の頭にぽん、と浮かんだ。戦争の間中、戦地の兵隊さんの相手をするために大陸や南方に行っているという女の人の話を聞いたことがある。」

 

私は、『水曜日の凱歌』を読むのと並行して、劇団の第6回公演用の戯曲を書いていた。

その戯曲は、南方のトラック島に渡り、そこで慰安婦をしていた女性を主人公にしたものだった。

戦争中、日本兵を相手に躰を売らなければならなかった女性が居た。その無残なシステムは、敗戦によって、崩れて消えたと思われたが、全くそうでは無かった。

戦争が終わったとたん、今度は進駐軍の兵士に躰を売るシステムが構築され、稼働していったのだ。同じく「慰安」という名のもとに……。

戦争は、厳密に言えば、1945年8月15日に終わったのではなかったのだ。

 

RAAについて、文庫本の解説で、斎藤美奈子氏はこのように書いている。

「GHQが公的売春に否定的だったこともあり、RAAは一九四六年の三月に閉鎖され、四九年四月には正式に解散しますが、稼働していた七ヶ月間に、慰安婦として半ば強制的に売春をさせられた女性は数万人におよぶといわれています。」

そして氏は『水曜日の凱歌』を、「RAAを真正面から描いた本邦初の小説といってもいい」としている。

 

『水曜日の凱歌』にはプロローグとエピローグがある。

プロローグの題は「その日も水曜日」。

……昭和20年8月15日。敗戦の、あの日は、水曜日だったという。

エピローグの題は「また水曜日」。

……昭和21年4月3日。第22回衆議院選挙の立候補締め切り日。この日も水曜日だったそうだ。

そして、4月10日、水曜日、「戦後初の、新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が行われ、これにより、三十九人の婦人代議士が誕生した。」

 

普通選挙制度によって、選挙権を得た日本の女性が、「凱歌」を上げた水曜日。

その礎には、あの戦争で亡くなった人々や、戦中戦後に亘って「防波堤」にさせられた女性たちの存在があるのだということを、考えざるを得ない。

 

いつもと何かが違う?「Das Orchester」

  • 2019.04.01 Monday
  • 19:54

「お芝居つまみ食い」その264

 

2019年3月19日〜31日

パラドックス定数 第45項

パラドックス定数オーソドックス シアター風姿花伝プロミシングカンパニー

作・演出 野木萌葱

『Das Orchester』

シアター風姿花伝

 

1年間に亙って、シアター風姿花伝において7作品を連続上演するという「パラドックス定数オーソドックス」。

最初の『731』から、ずっと見続けてきたが、6番目の公演『トロンプ・ルイユ』は見ることが出来なかった。本当に残念だったのだが、自分の劇団の台本を書く時期と重なっていたので仕方がなかった。

最終公演『Das Orchester』は見ることが出来た。見ることが出来て、まずは嬉しかった。

 

『Das Orchester』の舞台では、そのチラシの裏に、

「世界最高峰の楽団と理想の国家第三帝国。/激動の時代を背景に繰り広げられる、芸術対政治の物語。」

と印刷されている通り、ナチスが、(ベルリンの?)名立たる交響楽団に食い入り、政治の道具と変容させていく過程が描かれていった。

 

どのようにして、ナチスは楽団を我が物にしていったのか?

まずは、「お金」だ。

ナチスの宣伝相は言う。

「我々は優れた芸術に援助を惜しみません。積極的に推奨しなければと考えております。」

 

一見、けっこうなことのように思えるが、実は違う。

これまで楽団は、市から補助金をもらっていた。

ところが、ナチスは、野党の党員である市長を更迭してしまう。そうやって、市から補助金を出させないようにした上で、その代わりにナチスが財政的な援助をするというのだ。

さらに、宣伝相は、楽団を有限会社から、「我が国国営の楽団としましょう。」と言う。

 

楽団の事務局長は、ナチスの財政的な援助を受けざるを得ない立場に立たされていく。

事務局長としては、ナチスの援助は金銭的な面のみで、楽団の活動内容には口を挟まないという前提で受け入れたのだが、それは甘かったことがすぐに分かっていく。

ナチスの将校が、

「これを演奏会場に掲げていただきたいのです。」

と言って、懸垂幕を持ってくる。赤地に黒の鉤十字の懸垂幕である。

 

ユダヤ人という言葉は劇中で使われず、「劣等人種」という言葉が使われているのだが、ナチスの将校は、「劣等人種は全員解雇していただきたい。」と、つぎの要求をしてくる。

楽団員の三分の一が「劣等人種」なのだった。

 

さらには、宣伝相がこう言い出す。

「次は是非、我が党大会でも演奏を。」と。

常任指揮者が断わると、宣伝相が切り返す。

「これは命令です。誤解のないよう。」

ついに、ナチスから「命令」が下されるようになってしまったのだ。

 

常任指揮者の態度を見て、宣伝相は言う。

「劣等人種の擁護。」「マエストロは我々に反抗していらっしゃる。」

こうして、ナチスの矛先が、常任指揮者に向けられていく。

 

「劣等人種」の楽団員を含めての最後の演奏会。

曲はベートーベンの九番。

しかし、ナチスの将校は、楽団の国営化に賛成する書類にサインをしなければ、常任指揮者を舞台には上がらせないと、立ちふさがる。

 

常任指揮者は、演奏会に先だって、新聞に文章を発表していた。

「自分が反政府的な人間であることは自覚しています。しかし反政府的な行動はその政府のもとにいる時に初めて取ることが出来ます。私がこの国を離れない理由。それは政治に服従する為ではありません。私は鉤十字ではなくベートーベンやブラームスを生み出したこの国を、心より愛する愛国者であることをここに記します。」

 

その信念を貫くためなのだろう、常任指揮者は国有化の書類にサインをして、舞台に上がっていく。

やがて、交響曲第九番第一楽章の演奏が始まり、……お芝居は幕となる。

 

パラドックス定数の芝居。……どの作品も、同じ風合い、同じ色であるわけがないことは分かっているつもりだが、今回の『Das Orchester』は、今までに観てきたパラドックス定数のお芝居と、どこか違うように感じた。

どこが違うのか? いろいろ考えている。

 

パンフレットの作者の「MONOLOGUE」を読むと、

「この作品の初演は1997年。今から22年前。学生時代に書いたものです。」

とあった。そのせいなのだろうか?

 

今回の『Das Orchester』には、女優さんが1人、常任指揮者の秘書官の役で出演していた。

私は2015年あたりからパラドックス定数のお芝居を見るようになっただけなので、正確なところは分からないが、私が見た限りでは、女優さんが出演している作品を見たのは初めてだった。

そのあたりからも、テイストの違いが生まれた? ということも考えられるような気がする。

 

男優だけの芝居といえば、Studio Lifeが思い浮かぶ。しかし、Studio Lifeの場合は、女性の役も男優が演じるのに対して、パラドックス定数の場合は、登場人物がすべて男性なので、必然的に男優のみになっている、という違いがある。

この、「登場人物がすべて男性」というところから醸し出されるテイストというのは当然ある訳で、今回の『Das Orchester』には、そこに紅一点が加わることによって、ある意味、「普通」の世界に近くなっていたかもしれない。

 

もう一つ考えられるのは、芸術に対するものとして、国家社会主義ドイツ労働者党=ナチ党の画策・横暴が描かれていることだ。

ナチズムについては、それを語るのに、あまり多くの言葉を要しない面がある。ハーケンクロイツを見せられれば、すぐに歴史的な事実が想起されるし、それに対する自分の立ち位置に悩むということもほとんどない。

100人の人がいれば、おそらく100人近くの人がナチズムを否定するのに違いないと思う。

 

『Das Orchester』は、そんなナチズムに対峙するものとして音楽を取り上げ、まっすぐに闘わせている。そのまっすぐな描き方が、野木萌葱らしくないと言えるのではないだろうか? と思うのだが、どうだろうか。

そのまっすぐさは、この戯曲が学生時代に書かれた、ということから来ているのでは、などとも考えてしまう。

しかし、これほどの作品を学生時代に書けたということが、そもそも脅威なのではあるけれども……。

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