青い糸

  • 2017.12.11 Monday
  • 11:25

母の裁縫箱を開ける

青い糸の先に

なぜか結び目が一つ

 

認知症を患った母

結び目は

好きな裁縫に

自らつけた終止符か

 

逝く前にそっと

糸にほどこした悪戯か

 

「みつかっちゃった」

今頃笑っているのかな

 

(2009年4月5日)

「気がつけば、こんな詩が」212

不条理劇?森新太郎演出「管理人」

  • 2017.12.10 Sunday
  • 10:38

「お芝居つまみ食い」その212

 

2017年11月26日〜12月17日

主催 公益財団法人せたがや文化財団、企画制作 世田谷パブリックシアター

作 ハロルド・ピンター、翻訳 徐賀世子、演出 森新太郎

『管理人』

シアタートラム

 

ハロルド・ピンターというと、不条理劇という言葉がすぐに浮かんでくる。

また、『管理人』は1959年に書かれたというから、58年前の作品だ。

だが、徐賀世子翻訳、森新太郎演出の『管理人』は、不条理劇と感じさせなかった。また、古さも感じさせなかった。(古さを感じさせないところが、不条理劇らしいのかもしれないが)

 

現代のイギリスの、どこかの町に、実在しそうな建物の中の一室。

(装置が面白い。奥の窓に向かって、部屋の天井が低くなっていく。一見、遠近法によって、部屋の奥行きを表しているようだが、舞台の一番手前では、天井が人の背丈の何倍もあるのに、突き当りの窓の所では、天井に頭がつきそうなのだ。いびつで、不安定で、在りえない空間に、自分も居る、居させられている感じがする。美術 香坂奈々)

 

その部屋の住人であるアストン(兄)が、行きどころの無いデーヴィス(老人)を連れてきて、泊めてあげるという話も、ありそうなことだ。

アストンが精神的に病んでいるように見えるのも、現代では珍しくない。

そんなアストンのところに、ミック(弟)がときどきやってきて、様子を窺う気持ちも理解できる。そのミックがまた、過剰なほど雄弁なのも、妙に現代的だ。

 

ベケットの『ゴドーを待ちながら』のように、ドラマらしいドラマが起きないのが不条理劇だと思ってしまうが、『管理人』にはドラマがある。

アストンに寝場所を与えられたデーヴィスは、最初のうちは卑屈で、弱々しく見えたが、そのうちミックの口車に乗せられて、アストンに対して横柄な態度をとり、アストンの使っているベッドに眠らせろという要求をするようになる。

デーヴィスを演じたのは温水洋一だったが、この辺りのデーヴィスの変化を、まざまざと表現していた。ゴリゴリのエゴイスト振りが露呈され、それもまた「現代風」に感じた。

しかし、要求は通らず、部屋から出ていくように宣告されるデーヴィス。

 

デーヴィス(温水洋一)、アストン(忍成修吾)、ミック(溝端淳平)による、3人だけの芝居。それぞれの個性が、演出によって生かされていた。戯曲は、演劇は、役者の数の問題ではないのだと、改めて認識した。

アンケートのお言葉

  • 2017.12.08 Friday
  • 20:34

「劇団は今日もこむし・こむさ」その212

 

今回の公演でも、アンケートのご記入をお願いしました。約半数の方が、ご協力くださいました。ありがとうございました。

 

アンケートを拝読しますと、ドキッとするようなお言葉に遭遇します。

その一部をご紹介させていただきます。

 

「想いから想いへ 大切なことですね。」

 

「最近自分も死について考えるようになりました。思いがつないでいくというのも、とても共感できました。死というのは、今をどう生きるかというテーマに直結すると思うので」

 

「死者をして語らしめよ。死者の想いを言語化しなければ彼と彼女は浮かばれない。それが無念の死であればなおさら。」

 

「人の生死が、死に往く者の意志を残されし者が理解することの大切さを再考できるチャンスとなりました。」

 

「過去と現在をつなぐ視点を提供してくれたことに意味があったと思います。」

 

「生きのびた方々の気持ち、なくなった方々の気持ち、なくなった方々の気持ちをしらずに生きてしまっていました。」

 

「重たいテーマでしたが、反対に思えてきました。暖かい、人と人とのつながり、大切さを思いました。」

 

お芝居を創る。

ご感想をいただく。

そのご感想から、また思いが深まっていく。

つぎのお芝居へとつながっていく。

……

第4回公演が終わったばかりですが、すでに次の公演に向けて、自分が歩き始めていることを実感しています。

小池真理子『欲望』ー海に還っていった秋葉正巳

  • 2017.12.07 Thursday
  • 15:01

「小説についての小説」その117

 

小池真理子の長編小説『欲望』(新潮文庫)を読んだ。

裏表紙にこんな紹介文が印刷されている。

 

「三島由紀夫邸を寸分違わず模倣した変奇な館に、運命を手繰り寄せられた男女。図書館司書の青田類子は、妻子ある男との肉欲だけの関係に溺れながら、かつての同級生である美しい青年・正巳に強くひかれてゆく。しかし、二人が肉体の悦びを分かち合うことは決してなかった。正巳は性的不能者だったのだ――。切なくも凄絶な人びとの性、愛、そして死。小池文学が到達した究極の恋愛小説。」

 

私は小説を読みながら、作者の、「恋愛」についての「実験」につきあっている(あるいは参加している)ような気がした。作者とともに、小説世界の理科室に居て、実験・研究をしているようだった。その感覚が面白かった。

 

主人公の「私」=青田類子は、妻子のいる男と肉体だけの関係を継続している。その一方で、性的に不能な秋葉正巳を愛している。

その秋葉正巳は、美しい容姿を持つ阿佐緒を愛している。阿佐緒は秋葉正巳が不能だということを知らない。

阿佐緒は年の離れた袴田と結婚をする。しかし、袴田は阿佐緒の美しさを愛するばかりで、その肉体を求めることをしない。阿佐緒は子供が欲しいのに、その願いは叶えられないでいる。

 

作者は、こんな風に、登場人物たちにタガをはめ、その人生を生きさせ、愛の在り方を探求させる。

 

主人公の青田類子は、秋葉正巳と互いに愛し合う関係になっていく。私は正式な結婚でも、事実婚でも、二人が結ばれればいいと思った。正巳が不能であったとしても、世の中にはさまざまな「二人」が居る。二人独自の形で、精神的にも、肉体的にも結ばれる方法はあり得るのだと思うから。「普通」の形ではない、愛の形が在っていい。

 

実際、小説では、青田類子と秋葉正巳は、そういう方向へと近づいていく。

二人は、沖縄の「小浜島」を訪れる。そこで、二人らしい愛の形を完成させることが出来たように思えたのだが……。

正巳は、ある選択をしてしまう。その場面が、実に印象的である。

 

「正巳はいつものように、非のうちどころのない美しい歩き方で海に入って行った。浅瀬は遠く連なっていて、いつまで歩いても、正巳の上半身が水に隠れることはなかった。」

「わずかな白波をたてながら、彼は泳ぎ始めた。クロールだった。ゆったりと左右の腕を交互に掻きながら、凪いだ海を彼はすべるようにして遠ざかって行った。」

「私は波うちぎわまで走って行き、さらに浅瀬に入って行って、膝まで水に浸かったまま、正巳の名を呼んだ。何度も何度も、呼び続けた。

 何度目かの呼びかけの後、正巳がこちらを振り返るのがわかった。彼は立ち泳ぎをしながら、私に向かって手を振った。グラスゴーグルをつけたその顔は、遠目には彼の顔のようには見えなかった。水に浮く小さな昆虫の顔のようだった。」

「すでに正巳の姿は肉眼では見えなくなっていた。かすかな点のようなものが波間に見え隠れしているような気がしたが、それが正巳の頭なのかどうか、見分けはつかなかった。」

そうして、その晩、沖合で、正巳の水死体が発見される。

 

「この場面が、実に印象的である。」と私が書いたのには、訳がある。

 

文庫本の解説で、池上冬樹氏が、

「本書を語る場合、やはり忘れてならないのは、三島由紀夫のことだろう。」

と書いている。

「本書のさまざまな場面で三島の小説が語られ」ており、「おそらくこれほど作家三島由紀夫を小説のなかで純粋に捉えた作家はいなかったような気がする。」

と言っている通り、『欲望』には三島由紀夫の影が強く射している。

池上氏が指摘しているように、『欲望』のラストシーンは、三島由紀夫の『天人五衰』のラストと照応している。それは意識的な「本歌取り」であり、「オマージュ」なのだ。

 

秋葉正巳が水平線に向かって去っていった場面を読みながら、私に浮かんできたのは、三島由紀夫の小説『禁色』の1シーンだった。

作家・檜俊輔が、砂浜で、ある光景を目撃するシーンである。

 

「このとき青い海水の只中に一つの水脈が現はれ、白い波頭のやうな繊細な飛沫が上つた。その水脈はまつしぐらにこなたの岸へむかつて近づいた。淺瀬に達したとき、遊泳者は崩れようとする波の中に立上つた。一瞬彼の體は飛沫に掻き消され、また何事もなげに立現はれた。強靭な足で海水を蹴ちらしながら歩いて来る。」

 

それが檜俊輔と、『禁色』の重要人物・南悠一との邂逅の瞬間だった。

南悠一は青い海水の中から現われた。秋葉正巳は凪いだ海に入っていき、消えていった。

はたして、小池真理子が、『禁色』のこの場面を意識して、南悠一とは逆に、秋葉正巳を海に入らせたのかどうか、分からない。

しかし私には、小池真理子が、南悠一が出現した海へと、秋葉正巳を還らせたように思えて仕方がない。

深読みかもしれないが、そう思うことで、『欲望』と三島由紀夫の紐帯がより深まるような気がして、小説を読むことの悦びが深まる。

 

噴水へ

  • 2017.12.06 Wednesday
  • 13:05

雨に打たれながらも

決して雨に同化しない

君が好きだ

 

強風にあおられて

軌道を大きくそれても

なお歯をくいしばる

君が好きだ

 

誰かが見ていても

誰も見ていなくても

あの高い空を掴もうと

指の先を伸ばし続ける

君がなにより好きだ

 

(2009年2月23日)

「気がつけば、こんな詩が」211

絶望に至る前に『戦後歌舞伎の精神史』

  • 2017.12.05 Tuesday
  • 12:43

「お芝居つまみ食い」その211

 

渡辺保氏の著書『戦後歌舞伎の精神史』(講談社)は、私にとって、今年読んだ書物の中で「最も」と言っていいくらいに大切な本になった。

『戦後歌舞伎の精神史』で教えられたことや感じたことを、3回書かせていただいた。そして今回が4回目、渡辺保氏の言葉に強い共感を覚えた点について書きたい。

 

渡辺氏は、芸とは、

“本来目に見えないものを形にし、その形を生きることによって目に見えないものを空間に見せるものであ”り、

“歌舞伎とはそういう演劇であり、型とは、こういう一連の体系の中核に位置するものである。”

と書いている。

 

“しかし「曾孫の時代」に至ってついにその機能が問われ、崩壊が始まった。”

と渡辺氏は言う。

「曾孫の時代」というのは、四代目松緑、七代目染五郎、四代目猿之助、十一代目海老蔵、四代目鴈治郎、三代目扇雀、六代目勘九郎、五代目菊之助、二代目七之助、四代目梅枝の世代だそうだ。

 

ただし、

“その型を考えているという点では、「曾孫の時代」では唯一松緑だけだろう。”

と言っている。

「崩壊」の時代においても、踏みとどまろうとしている若い役者さんもいるとのことだ。

海老蔵も、“型について敏感である”と書いている。

 

だが、「崩壊」は止まらない。渡辺氏はハッキリとものを言っている。

“吉右衛門の「熊谷陣屋」や仁左衛門の「いがみの権太」や玉三郎の「桜姫」よりも大衆は猿之助の「ワンピース」を好む。いや猿之助の「千本桜」の忠信がいかに優れていてもその芸よりも宙乗りの一瞬を好むのである。そういう現象のなかで徐々に歌舞伎の造形システムは崩壊しつつある。”

 

“この危機を避ける方法は一つしかない。”

氏は、

“今まで歌舞伎は他の演劇との共通点を強調してきた。(略)しかしこれからは、その反面その特異性を強調することが必要だろう。それこそがたとえ大衆社会に反するとしてもより深いところで現代につながる道であり、演劇の本質につながり、時代の深層の普遍性につながっているからである。

 そのためにはなにをすべきか。三つある。

 第一に先人の業績を研究すること。第二にその方法論に自覚的であること。そして第三にそれによって目に見えないものを見つめ、耳に聞こえないものに耳を傾けること。”

と書いている。

 

今、歌舞伎界は隆盛を誇っているように見える。だが、渡辺保氏は、そこに「危機感」を感じている。その危機感が、氏に『戦後歌舞伎の精神史』を書かせた。

「あとがき」においても、氏の思いは濃く、深い。

“私が、敗戦後の七十年たった、いま、なにに興味を感じ、なぜ振り返ろうとしたのか。その理由は二つある。

 一つは、戦後七十年たった時に、この時代は一体なんだったかという思いにとらわれたこと。もう一つは今の時点で歌舞伎に強い危機感を持つようになったことである。“

“この危機感はどこから来るのか、そして歌舞伎は、私たちはどこへ行くのか。「なんでもありの世の中」でいいのか。”

 

そうして、その危機感は……

“(略)観客にはまだまだ歌舞伎の真価が理解されていないと思わざるを得ない。少なくともその表現の精神が理解されぬままに表現の断片や気分やデザインだけが横行し、拡散している。それを見るたびに私は絶望感にかられる。未来は一体どうなるのか。むろん一筋の光明がないわけではない。が、それよりも深い絶望感が私を襲う。”

 

危機感から、さらに絶望の淵へと、すでに渡辺氏の思いは沈み始めているようだ。

 

私が、歌舞伎に「違うのではないか?」という思いを抱きはじめたのは、いつのことだったろうか。

振り返ると、三代目猿之助が「宙乗り」で人気をとり、「スーパー歌舞伎」が作られるようになった頃からのように思える。

現代演劇をいつのまにか見ないようになった私は、ほそぼそと歌舞伎だけは見続けていた。けれど「スーパー歌舞伎」には心が動かなかったし、十七代目中村勘三郎の息子や孫たちの活動についても、冷めた目で見てきた。

 

そういう私にとって、『戦後歌舞伎の精神史』は、自分の歌舞伎界に対する違和感の、よってきたるところを解き明かしてくれる書物になった。

渡辺氏が感じている危機感に、共感するものがあった。

 

そして、この本のテーマは歌舞伎なのだが、歌舞伎にとどまらず、現代の演劇界全般にも通じる問題を指摘しているように感じ、「ひとごと」とは思えない。

「なんでもありの世の中」でいいのか? 「目に見えるものだけが全て」でいいのか?

危機は現代演劇にも存在している。

第5回公演へのチャレンジ

  • 2017.12.03 Sunday
  • 14:31

「劇団は今日もこむし・こむさ」その211

 

「水の中の塔―東京スカイツリー異聞」上演後のご挨拶の中で、こんなことをお話しした。50年近く前、10代から20代にかけてやっていた第一次の劇団こむし・こむさは、第4回公演までおこなった。第二次の劇団こむし・こむさも、今年、同じく第4回公演まで来た。第一次のときに果たせなかった「第5回目」の公演を実現できたらと考えている。……という意味のことを。

 

自分の口から出た言葉なのだが、口にして以降、その言葉についていろいろと考えている。

 

まず、ただ回数を追い、長く続けることに価値がある、ということではない。中身の乏しいものを惰性的に続けていくのであれば、止めた方がいい。

より良いものを創り出すための持続・継続にこそ価値があるのだろう。それが前提だ。

 

その上で、「第5回公演」を志向するのは、第一次の劇団こむし・こむさの終わり方を、不本意なものと感じているからだ。

完全に、とまでは行かないまでも、充分に燃焼し尽くしての中断ではなく、火が急速に弱まって、消えてしまったという思いが残っている。

 

高校を卒業しての4年間。まさに「若い季節」だった。「芝居を作りたい」その一心。若い、熱い気持が結束してグループを形成し、夢中になって作った、いくつかの芝居。

「展望」があるわけではなく、気持ちのおもむくままに4年間はともかく芝居作りをしていった。

 

今思えば、第一次の劇団こむし・こむさが第5回公演、第6回公演と続けていくためには、仕事をしながら、お芝居を続けていく方途について、論議をする必要があった。

劇団こむし・こむさのメンバーの中には、プロの演劇集団を目指そうとする人は、おそらくいなかったと思う。であるならば、働きながら、演劇を作っていく方法を考えていかなければならなかった。

 

墨田区には「区民劇場」という、仕事を持ちつつ演劇活動をしている劇団があり、私たちも交流させていただいていた。その活動から学ぶことも出来た。しかし、そういう、いわば地域の劇団を目指すという発想は、少なくとも私にはなかった。

第4回公演を終えた頃、大学生だったメンバーは、社会人となっていった。すでに就職していた私は、職場の組合活動に関心が移っていった。

そういった、それぞれの諸条件を乗り越えて、どうしたら演劇を続けていけるのかという話し合いも、おそらく持つこともなく、消滅していったのが第一次の劇団こむし・こむさであったのだと思う。

 

そうして、第一次劇団こむし・こむさには、どういう演劇を創造するのかという、「核」のようなものが欠けていた。一人一人には、動機がそれぞれにあったに違いない。しかし、全体として目指すものが見えていなかった。

そういう意味では、自分たちの意欲の発露が先で、観客への「責任」がどれだけ意識されていたか疑問だ。

 

第一次劇団こむし・こむさが、第4回公演で終わってしまったことに「後悔」を感じるとすれば、そこにある。

自分たちの情熱はお芝居にかけた。しかし、それは一人芝居、自己満足だったのではないかという思い。

50年近く前、そろいもそろって二十歳前後だった若い集団の行いとして、それは許してもらえるのかもしれない。だが、繰り返してはならないと思う。

 

そこで、第一次の劇団こむし・こむさと比較して、現在の劇団こむし・こむさには、どれほどに「核」のようなものが存在しているかという話になってくる。

 

(1)まず、どのような舞台を目指すかという点については、

「戦後生を受け、昭和、平成と生きてきて、私たちが今、このとき、表現したいこと、表現しなければならないこと、表現できることの演劇化」

という共通認識を持っている。

 

(2)戯曲については、既成のものではなく、オリジナル作品を上演することが、一貫したポリシーになっている。

共通認識の「私たちが今、このとき、表現したいこと、表現しなければならないこと、表現できること」という言葉を具現化するためでもある。

 

(3)劇団と名乗ってはいるものの、組織的な体制は無きに等しいが、作・演出を担当している私が、「代表」となっている。

 

これら三つの事柄は、第一次劇団こむし・こむさのときには無かったものだ。

どういう演劇を目指し、どういう作品を創っていくかという考えが、不十分ながらも話し合われてきたということは、観客への責任という点からも、大事なことだと思う。

「代表」についても、どこまで責任を負うのかという点が曖昧であるにしろ、集団というものを形成する上で欠かせない。内部的にはともかく、外部的には、その責任の所在が明確になっている。

 

第4回公演は、シアターXの門を叩き、受け入れていただいたことによって、また一つのチャレンジを経験することが出来た。

ほとほと、果てしがないと実感させられるのだが、第5回公演の実現にあたっては、さらにチャレンジが必要になると考えている。

劇団こむし・こむさが、初めて体験する「第5回」。

その「第5回」が、昔々、4年間で消えてしまった若者集団が、やり残したものを取り返す「第5回」に成ればいいと思う。

それが出来たときに、劇団こむし・こむさは、もう後ろを振り返ることなく、前を向いて歩き出せるのではないだろうか。そう考えております。

「おらおらでひとりいぐも」七十数歳の造形について

  • 2017.12.01 Friday
  • 17:45

「小説についての小説」その116

 

「文藝」2017年冬号に掲載された、若竹千佐子氏の「おらおらでひとりいぐも」を読んだ。第54回文藝賞受賞作だ。

その筆力、東北弁の妙味、発想の自由さなど、圧倒されるものがあった。

 

どのような小説なのか、選考委員の一人、斎藤美奈子氏の選評を引用させていただく。

『(略)口承文学をも思わせる東北(岩手)の言葉の圧倒的な迫力。「私」でも「桃子」でもない「桃子さん」という三人称と「おら」という一人称が渾然一体となった独特の語り口。息子も娘も独立し、一五年前に夫を亡くした七〇代女性の自問自答。

 石牟礼道子や森崎和江をはじめて読んだときの興奮を思い出しました。七〇年代に芽吹いた第二波フェミニズムの達成のひとつと考えて間違いないんじゃないでしょうか。

 (略)東京オリンピックの年に上京し、二人の子どもを産み育て、主婦として家族のために生き、夫を送って「おひとりさまの老後」を迎えた桃子さんは、間違いなく戦後の日本女性を凝縮した存在です。』

 

主人公の年齢については斎藤美奈子氏の選評でも触れていたように、作中「満二十四のときに故郷を離れてかれこれ五十年」と書かれている。

主人公の女性の年齢は、七十数歳なのだが、私は、この作品を読んだときに、その年齢にひっかかるものを覚えた。

 

まあ百人百色だから、どのような七十数歳の人が居てもおかしくはないのだが、私は、今時の七十数歳にしては、主人公の女性は老人くさ過ぎるように感じるのだ。

 

小説の冒頭に、主人公の女性が暮らす部屋の描写があるのだが、そこから醸し出されるイメージも、「今」を感じることが出来ない。

例えば、ねずみが、「部屋の隅の床の破れ穴から出たり入ったりかじったりつっついたり」している。

また、「何もかもが古びてあめ色に煮染まったような部屋」にはロープが張られ、いろいろな洋服とともに「干し柿が四連ぶら下がり、その向こうに荒縄で括られた新巻鮭が半身、バランスを失って風もないのに揺れている」のだが、この干し柿や新巻鮭の登場も、老人らしさの表出のための小道具臭さを感じてしまう。

「割れたガラス戸を蜘蛛の巣状にテープで補修した食器棚、隣にある冷蔵庫の扉は子供が貼ったシールを半分はがして断念したに違いない」といった描写もあるが、斎藤美奈子氏が書かれている「二人の子どもを産み育て、主婦として家族のために生き」た女性にしては、(部屋に張ったロープもしかり)生活の工夫や、身についた家事力が感じられない。どうやったらシールをきれいに剥がせるか、暮らしの知恵を持っていそうなものなのに。

 

主人公の女性の肉体について書かれた部分にも、「そうだろうか?」と疑問を抱いた。例えば、

「何とはなしに手を見る。使い込んだ手である。子供のころ、ばっちゃの手の甲を撫でてさすって引っ張って、おまけにくるんとつねってみたことがある。血管の浮き出た手の甲にへばり付いた厚い皮はびっくりするほどよく伸びた。少しも痛くないと言った、というか痛くない。骨ばって大ぶりのガサガサした手だった。今その手が目の前にある。」

そうだろうか、と思う。「ばっちゃ」の手の甲の描写は素晴らしい。リアルだ。目に浮かぶようだ。しかし、「今その手が目の間にある。」というのはリアルだろうか?

「ばっちゃ」の労働の内容や厳しさが、主人公の女性のそれと同じとは思えない。時代の変化、生活環境の変化もある。「骨ばって大ぶりのガサガサした手」には、相当の労働を積み重ねないと、たとえ成りたくても成れないだろう。

七十を越えれば血管も浮き出てきて、老いや衰えを感じるというのは在り得るとは思う。だが、主人公の女性の祖母の年代の方々が持っていたような「手」。「その手が目の前にある。」と書くのは、短兵急な表現だと思う。

 

こんな部分もある。

「母さん、買い物たいへんじゃない。持ち重りのするのだけでも私がやってあげようか、と直美がにこやかに言った。

 近くのスーパーが閉店してからというもの、買い物カートを引きずっての夏のかんかん照りや、今日のような雨降りの日の買い物は正直たいへんだったから、桃子さんは娘の申し出がうれしかった。」

たしかに、買い物をするために「カートを引きずって」歩いている方を、たくさん見かける。皆さん苦労なさっているのだと感じる。

しかし、七十代の先輩方が、いや、八十を越えても、自転車を走らせて買い物に来ている姿を日々目の当たりにして私としては、「買い物カートを引きずって」という像が、近頃の七十数歳の方々のイメージに繋がらない。

個人差のあることだから、まちまちであるとは思うものの……

 

さて、私はいったい何が言いたいのかというと、年齢を七十数歳としている主人公の女性の、造形の仕方が、これでよかったのだろうかと書きたかった。

その精神、心の持ち方ではなく、暮らし方や肉体についての描写・表現が、過去の「おばあさん」像に近く、リアルな、現代の七十代の人間から離れているように感じるのだ。

作者は六十三歳ということだが、七十数歳を想定したときに、どうして、昔の御老人のイメージに寄っていってしまったのだろうか? 六十三歳と七十数歳といえば、ちょうど一回りの差だ。

私は作者より五つ年長で、七十数歳にはもうすぐ手が届くところに居る。だから、七十数歳の人物の造形の仕方に、神経質になるのかもしれない。六十代は言うまでもなく、七十代だって八十代だって、まだまだ元気なんだと思いたいのかもしれない。

 

「おらおらでひとりいぐも」を読んで感動し、励まされたという方々がいるという話を聞いた。

そういう方々の年齢は、いくつ位なのだろう。

主人公の女性と同じ年代の方が、「おらおらでひとりいぐも」を読んだときに、どのような感想を抱くのだろうか。「あら、いやだ。私、こんなおばあさんじゃないわよ」という反応が出てきやしないだろうか?

 

 

 

石の瞳

  • 2017.11.30 Thursday
  • 12:40

お濠のほとり

石垣に見入っていた

 

水際の小ぶりの石

あれが自分

 

どの世にもいただろう

石に自分を重ねる人

 

その人々の眼差しが

石に染み入り瞳となり

 

石の奥から見ている

この時代 私の生き方

 

(2008年12月10日)

「気がつけば、こんな詩が」210

桂真菜氏の指摘ー「怒りをこめてふり返れ」

  • 2017.11.29 Wednesday
  • 12:05

「お芝居つまみ食い」その210

 

「悲劇喜劇」2017年11月号の「演劇時評」に、7月、新国立劇場で上演された「怒りをこめてふり返れ」に対する批評も載っていた。「怒りをこめてふり返れ」については、

9月6日、すごいな―「怒りをこめてふり返れ」の装置

10月5日、「怒りをこめてふり返れ」は1956年のオリジナル

2回もこのブログに書いたのに、また書きたくなってしまった。

 

「演劇時評」の評者は、山内則史氏(読売新聞東京本社編集局管理部次長)と桂真菜氏(舞踊・演劇評論)のお二人。

書きたくなったことの1つは、「ああ、まったく、そうだなあ」と思わされたことだ。

 

イングランドの大きな町。下層階級に生まれた夫・ジミーと、中産階級出の妻・アリソンが暮らす屋根裏部屋。そこに、ジミーの友人で、やはり下層階級出身のクリフが同居しているという奇妙な構図。

この三角形の構図について、桂真菜氏が鋭い指摘をしていた。桂氏曰く、

「ジミー、アリソン、クリフの三人の関係ですが、クリフは男性としてのアリソンへの愛をもっと示すと、ドラマが立体的に弾むでしょう。」

 

今回、クリフ役にキャスティングされたのは浅利陽介、友人の妻と同居していても、決して間違いを起こさないだろうと感じさせる、安全な男として演じられていた。浅利陽介の「人(にん)」に合った配役だった。

しかし、桂氏は、クリフの男性性を示した方が、もっと「立体的」になると指摘する。

 

「なるほど」と思わざるを得ません。

男性二人・女性一人の共同生活は、男性二人の友情がたとえ深いものであったとしても、絶対安全とは言えない。その方がむしろ自然に思える。が、クリフを演じた浅利陽介には、その危険な要素が薄かった。

 

桂氏の指摘を受けて、山内則史氏もこう言っている。

「実際、クリフはアリソンを守ってあげるただのいい人にしか見えなくて。もしかしたらクリフがアリソンを奪うんじゃないか、という不穏さが少しくらいは漂わないと、ドラマとして動いていかない気がします。」

さらに、「構造的に言うとクリフは緩衝地帯でありつづけましたよね。」とも。

 

男性性が黙っていても匂ってくるような役者さんがクリフを演じたら、また違っていたかもしれない。「危険」が目に見えてきて、ハラハラさせられたかもしれない。

 

書いておきたくなった、もう1つのことは、装置のことだ。

これも桂氏の指摘だが、氏はこう語っている。

「美術も惜しい。屋根裏部屋の装置は窓などの光をきれいに受け止めます。傾いた壁に貧しい暮らしと不安定な関係が象徴されていますが、現代建築のデザインに見える重厚な素材感には再考の余地がありますね。」

 

ああそうか、あの「傾いた壁」は「貧しい暮らしと不安定な関係」の「象徴」だったのかと、初めて気づかされた。

しかし私には、よもや、そのようには感じられなかった。

むしろ、桂氏も言うように、デザイン性が高く、「重厚」で、立派に見えた。

「再考の余地」があるという桂氏の言に私も賛成だ。

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