バーとスマートフォン

  • 2018.11.30 Friday
  • 12:30

「劇団は今日もこむし・こむさ」その249

 

新宿ゴールデン街の、40年以上続いたバーのママが急逝し、その店は閉じられた。

古い看板は下ろされて、同じ場所で若い人たちが新しい店を始めた。

その若い人たちとも縁があったので、新しい店にときどき顔を出している。

 

ママが亡くなったことで、消えてしまったバーは、「サロン」と自称していた通り、そこで交わされる会話というものが重要な位置を占めていた。

ママとお客との会話、お客同士の会話。いかに話し、いかに聞くか。酒の肴ではあるけれど、肴以上の美味がそこに在った。

 

ことに美味だったのは、ママが語る「話」で、何十年に亘って鍛えられた話術によって、どの話も、そのひとつひとつが興味深かった。

今思うと、安い酒代で、ずいぶん贅沢な「話」を、浴びるように聞いていたのだ。

ママの急逝による喪失感は、もちろんママという人の不在から来るものであるけれど、ママの発する言葉、言葉が積み上がって描き上げられる世界が、もう聞けない、もう見られないということからも来ているように感じる。

 

そのことに改めて気がついたのは、若い人たちが始めた新しい店で、店のスタッフに、スマートフォンの映像(写真やら動画やら)を見せてもらったときだった。

私は(携帯電話もだが)スマートフォンを持っていないので、その映像を見たことがなかった。(家のパソコンはインターネットに繋がっているので、パソコンでならば見ているが)

 

例えば、店内で、ある場所が話題になったり、ある歌手の、ある歌が話題になったりする。

そういうとき、その場所や、その歌を探し出して、スマホで見せてくれる。

それは、とても便利なことで、その場所がどういう所なのか、微細なところまで知ることができるし、歌声に直接触れて、味わい、感動さえ覚えることが出来る。

 

スマートフォンがそのように利用されることによって、ある人とある人とが共通の知識を持つことが出来るし、そのことによって、会話を広げていくことも可能になる。

店では、きっと、スマホの持つ便利な機能が、これからも有効にはたらいていくに違いない。

だから、スマートフォンの活用について、決して否定するつもりはない。

 

ただ、心配なことがある。

ある場所、ある歌……、それを目の当たりにし、直接耳にできることは素晴らしいことだけれども、ある場所・ある歌を「言葉」で伝えようとする能力や技術はどうなっていくのだろう?

相手になんとかして「それ」を伝えるために、言葉を選び、あれこれと工夫する「努力」が要らなくなったとしたら、会話の力や、話をする力は減退していってしまわないだろうか?

 

亡くなったママが持っていたような、一つのストーリーを、自分の言葉を駆使して語りつくし、人にじっくり聞かせる話術は、これからは磨かれることが少なくなってしまうのだろうか?

 

若い人による新しい店での「言葉」や「話」「語り」の位置は、亡くなったママの店でのそれと比べて、明らかに違ってきているように思える。

その違い・変化は、バーなどの店の中だけではなく、人と人がいて、スマートフォンがあるところでは、今、どこででも、普通に進行していることなのかもしれない。

 

頑張って3曲聴いたライブ

  • 2018.11.18 Sunday
  • 14:32

「劇団は今日もこむし・こむさ」その248

 

最近は「学習」をして、芝居選びに失敗することが以前より少なくなった。

過去に、どんな芝居のチケットを買ってしまい、劇場に行ってみて、失敗したと感じたかというと、熱狂的なファンが押しかけるような芝居だ。

ファンはお目当ての俳優を見に来ているので、お芝居の内容や演技については、二の次のように見受けられる。

 

ファンと言えば、歌舞伎なども、お目当ての役者がいて(私などもそうだ)、見物に行く。けれど、歌舞伎のファンは、どちらかというと年齢層が高く、場をわきまえているので、観劇のさまたげになることはない。

(しかし、歌舞伎の世界でも、最近は役者がアイドル化しているので、そんな役者の芝居に、若い女性ファンが押しかける現象は、すでに起きているのかもしれない。)

 

だが、つい最近のこと、私はまたしても失敗してしまった。

芝居ではなく、ライブだったのだが……。

 

そのミュージシャンとは、1〜2か月前に、新宿ゴールデン街のバーのカウンターで隣り合わせになった。

そのバーにはギターが置かれていて、そのミュージシャンがギターを弾きながら歌をうたってくれた。2曲。

うまかった。

昔のフォークソングの味もあり、歌詞も、曲も良かった。

 

そのミュージシャンのライブがあるというので、チケットを買って、出掛けた。

大きなライブ会場。

ほとんどが女性だが、中には男性の姿もあったし、私と同じ年恰好の人も皆無では無かったので、少しほっとした。

座席も指定席だった。

 

やがて、開演時間になり、音楽が鳴り始めた。

すると、観客が少しずつ立ち始め、やがて全員(だと思う)が立った。

ミュージシャンが観客をあおるようにして乗せていく。観客にも声を出させ、「いいか、ついて来いよ!」的な言葉で引っ張る。観客も喜んで声を上げて反応し、手拍子をする。

 

小さなバーで聞いた、生の唄声とは違う、大音響のバンド演奏とボーカル。

1曲目から全員総立ちの盛り上がり。

しっとりとしたコンサートのようなものを想像していた私は、唖然・茫然。

椅子に座っているとステージが全く見えないので、2曲目あたりで私も立ち上がったものの、3曲目が終わったところで、ついに我慢が出来なくなって、会場を出てきてしまった。

 

そのミュージシャンには何の罪もなく、これは私の勘違い・早とちりのために起こったことで、また一つ「学習」させられた出来事だった。

 

バンドの演奏に、ボーカリストの歌に、千人以上は居るだろう観客が、一緒になってリズムをとり、体を動かし、手を振り、声を上げる。観客たちは皆、楽しそうだった。

その輪の中に入って、同じように出来たら楽しいのかもしれないが、私にはとうてい出来なかった。

 

帰り道、思い出したのは、昔、20代の頃、友人と一緒に西武球場に何回も足を運んだことだった。

今は全く野球に興味がないが、その頃は西武を応援していた。

応援するチームがあるのと無いのとでは、試合観戦の面白味・楽しさが全く違う。

贔屓のチームの選手がホームランなどを打とうものなら、心底、大喜びできるのだ。

 

ライブにまぎれ込み、観客たちの熱気を目の当たりにして、もう一つ、思い浮かんできたことがある。

それはテレビで報道された、ハロウィンの日の渋谷の若者たちの姿だった。

ライブの方は統制がとれていた。渋谷のハロウィンは無軌道に近い。その違いはあるけれど、若いパワーという点では共通しているように思える。

パワーの吹き出し口が求められている。そんな気がした。

 

バーでミュージシャンと再会したら、「頑張って3曲聴いたんだけどね……」と正直に話すつもりだ。

 

「昭和元禄落語心中」−岡田将生の落語

  • 2018.11.13 Tuesday
  • 22:07

「劇団は今日もこむし・こむさ」その247

 

雲田はるこの漫画『昭和元禄落語心中』全10巻(講談社)を、2018年11月6日に読み終わった。

 

子供の頃から、あまり漫画を読まないで今日まで来てしまったので、漫画の良し悪しは分からないのだが、10巻まで楽しみながら読めた。

落語の世界の話なので、着物などの「和」の感じがいいし、

「お前(まい)さん、帰(けえ)るトコロがないのかえ?」

といった言葉遣いが何よりたまらない。

 

漫画『昭和元禄落語心中』を原作にした、NHKテレビのドラマの方は、11月9日に、第5回目の放送が終わった。(脚本 羽原大介、演出 タナダユキほか)

第5回目の内容は、漫画の方の第4巻目に当たる部分だ。

漫画についている「あらすじ」を引用すると……。(カッコ内は野村が付け加えたものです。)

 

<ほどなくして、師匠(七代目有楽亭八雲)は菊比古(後年の八代目有楽亭八雲)にひた隠してきた助六との過去の因縁を打ち明け、息を引き取った。

独りになった菊比古は、八雲を継がせるために助六を訪ねる。

しかし、久しぶりに会った助六は、落語を捨てたと一点張り。

菊比古は、助六を東京に連れて帰るために、助六とみよ吉の娘・小夏と協力し、お座敷で寄席を開いて資金を稼ぐのだった。

やがて実現した温泉旅館での有楽亭二人会。

その噂は、助六のもとを出ていったみよ吉の耳にも届き……!?

 

漫画の方は、第5巻目の前半で、温泉旅館で発生した思いがけない事件のあと、後半以降ずっと第10巻まで、第1巻に登場した、八代目八雲(岡田将生の役)に弟子入りした与太郎(竜星涼の役)の話になっていく。

テレビドラマでは、おそらく岡田将生演ずる八代目八雲を中心に、これからもストーリーが展開していくのではないかと推測するが、まだ分からない。

与太郎が落語家として力をつけ、人気者になっていく過程を、竜星涼という役者にたっぷり演じさせるのか、それとも、それはさせないのか?

ドラマは、全10話だそうだから、残り5話の話の運び方が気になる。

 

興味深く見ているドラマだけれども、一つだけ残念なことがある。

それは、落語家の話なので、俳優が落語を演じるシーンが当然出てくる。

落語を初めから終りまで語る訳ではなく、部分部分をつなげて、それらしく(落語らしく)編集し、演出して見せているのだが、映像というのは恐ろしい。たとえ、ほんの短いシーンであっても、「これは落語の語り口ではない」と感じさせることがあるのだ。

 

岡田将生は決して下手な役者だとは思わない。きっと、落語の稽古も沢山したのだと思う。しかし、「本物」になっていないように見える。

ドラマの何回目だったか、落語家の柳家喬太郎が、零落した落語家役で出演したことがある。その木村屋彦兵衛という落語家が、岡田将生演じる落語家に、「死神」の稽古をつける場面があった。

 

柳家喬太郎が語った「死神」はいかにも「本物」で、その映像が頭にこびりついているので、岡田将生が後に語った「死神」の不十分さが、逆に際立つことになってしまった。

 

ドラマの放送は、あと5回ある。その間に、岡田将生も落語の腕を上げ、いいものを見せてくれるかもしれない。

芸事は短時間で習得できるものではないので、それをやらなければならない俳優というのは、考えてみると大変な職業だ。……その大変さも苦労も、楽しいのかもしれないが。

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