「転校生」−同時多発的な会話の芝居を体験

  • 2019.08.26 Monday
  • 21:42

「お芝居つまみ食い」その281

 

2019年8月17日〜27日

PARCO PRODUCE

作 平田オリザ、演出 本広克行

『転校生 男子校版』

紀伊國屋ホール

 

劇団チョコレートケーキの『60‘sエレジー』(2017年、サンモールスタジオ)での演技を見てから、足立英の芝居は出来るだけ見るようにしている。

今回の『転校生 男子校版』も、どこかの劇場でもらったチラシを見ていたら、足立英の名前が出ていたので、チケットを購入した。

 

例によって、事前の情報は極力インプットしないようにしているので、どんな芝居なのか知らずに紀伊國屋に行った。

ホールに入ったら、若い女性が多かった。

観劇後に読むために、パンフレットを求めた。1300円もする立派なもので、悪い予感がした。(今までの経験では、むやみに立派なパンフレットは、俳優の写真はたくさん載っていても、内容に乏しいことが多かったから。)

 

舞台の上に、もう一つ、傾斜のついた四角い舞台が作られ、その上に学校の机と椅子が並んでいた。開演前から2人の生徒が向こう向きに座っていて、何かをしていた。

開演時間になると1人、2人と生徒たちが客席から登場して、舞台に上がっていって、会話が始まった。

 

その会話が変わっていた。いや、現実の教室は、まさにそんな調子だから、「変わって」はいないのかもしれない。

生徒は全部で20人いるのだが、あっちで何人かがしゃべっているときに、同時に、こっちでも何人かが会話をするのだ。

普通のお芝居なら、Aがしゃべっていると、ほかの人間は黙って聞いていて、Aがしゃべり終わるとBが話し始める……という具合に進行していくのが「お約束」なのだが、この平田オリザの戯曲は、会話を複雑に錯綜させながら、実際の教室に近い状況を作り出していた。

 

私にとって、このようなお芝居は(たぶん)初めてなので、なるほど、こんなお芝居もあるのかと、勉強になった。

ただ、私の耳は保守的なのかもしれないが、この手法が、非常に「うるさく」感じて、楽しむことが出来なかった。

 

お芝居のはじめの部分で、読書感想文を提出しなければならないという話題が出てきて、足立英演じる「足立」(役名は、俳優のそれぞれの名前が使われていた)は、カフカの『変身』について書こうとしていた。

……これが、そのあとで、転校生がやってくるというストーリーの伏線になっていた。

 

転校生は、どうしてこの学校に転校してきたのか、自分でも分からない、と言うのだった。

つまり、カフカの『変身』のように、朝、目を覚ますと、別の学校の生徒から、この学校の生徒に変身していた、と言うのだ。

 

20人の生徒プラス転校生で、21人。

学園モノお決まりのツッパリや、過剰なお調子者や、いやに老成したおじさんみたいな高校生は登場しない。みんな、制服をきちんと着て、すっきりしている。

集団の中に形成されがちなヒエラルキーも見当たらない。

だから、生徒間に、対立の構図も無さそうだ。

 

上演時間は1時間ちょっと、と短い。

最後、夕方になり、転校生が「明日も、この学校の生徒でいられるか心配だ」という意味のことを言う。すると、1人の生徒が、「大丈夫だよ、大丈夫」といった言葉をかけ、芝居は終わっていく。

どうやら、何故、人間は生まれてくるのか? そういった大事なテーマを内包しているお芝居のようだったが、私にはよく理解できなかった。

 

驚いたのは、カーテンコールだった。前半分くらいの人々がスタンディング・オベーションを始めたのだった。

私の前の席の人も、左右の席の人も、立ち上がって、盛んに拍手をしている。

21人の男優たちに、すでにファンがついている様子だった。

けれど、スタンディング・オベーションをするほどの演技・お芝居には思えなかった。

カーテンコールはずっと続くようだったので、私は失礼してホールを出た。

 

帰宅してから、「週刊文春」の切り抜きを取り出して、読んだ。

2019年7月25日号の「Close Up」という欄に、演出の本広克行氏に対するインタビュー記事が載っていた。観劇後に読もうと思い、切り取っておいたのだ。

 

記事によれば、『転校生』は、「高校演劇のバイブル的存在」なのだそうだ。

もともとは「女子高の教室が舞台」の作品なのだが、「今回は平田オリザさんから“男子校版”の提供」を受けて、女子校版と男子校版の両方(公演中、交互に上演)を本広克行氏が演出したそうだ。

 

私が「うるさい」と感じてしまった、複数の会話が重層的に交わされるお芝居については、本広氏はこんなことを話していた。

「戯曲のページが上中下段に三分割されていて、舞台のあちこちで同時多発的に会話が進み、音が鳴る。まるで交響曲の楽譜みたいな戯曲なんですよ」

 

ところで、立派なパンフレットには、女子校版の女優21人と、男子校版の男優21人、計42人の俳優の写真とコメントが大きく掲載されていた。やはり、読むべきものはほとんど無かった。

パラドックス定数による「骨と十字架」を

  • 2019.07.26 Friday
  • 23:27

「お芝居つまみ食い」その280

 

2019年7月11日〜28日

新国立劇場 演劇 2018/2019シーズン

作 野木萌葱、演出 小川絵梨子

『骨と十字架 Keep Walking

新国立劇場小劇場

 

野木萌葱の新作を見ることが出来る! 幾日も前から楽しみにしていた。

野木氏の劇団=パラドックス定数のメンバーによる公演ではなく、新国立劇場がキャスティングした俳優たちによる上演だということを、気にしていなかった。

野木氏自身の演出ではなく、小川絵梨子氏の演出だということも、気にしていなかった。

 

(恥ずかしながら)「新国立劇場」という存在のマジックにかかっていたのかもしれない。

野木氏が「新国立劇場」に求められて、新作を提供したということ。もうそれだけで、「いい作品」「いい公演」という先入主が出来上がってしまっていたのかもしれない。 

 

パラドックス定数の公演では見ることの出来ない、立派な装置(美術 乘峯雅寛)。広々とした空間。近藤芳正、小林隆といった、パラドックス定数の俳優より(たぶん)経験年数の長い役者さんの参加。……良い条件はあったものの、実際の舞台は? というと、パラドックス定数の上演が醸し出す「濃密さ」「切迫感」が欠けていたように感じた。人間という存在の「不可解さ」「恐さ」も感じられなかった。

 

パンフレットに印刷されていた「ものがたり」は、こうだ。

「ローマ、イエズス会本部。テイヤールは、敬虔な司祭として神に身を捧げる一方、古生物学者として人類の進化の道について探求する日々を送っていた。イエズス会は、彼の信仰のあり方に対してキリスト教の教義、神の御言葉に矛盾するものとして、彼の処遇を問題視することになる。テイヤールに科せられたのは、ヨーロッパから遠く離れた北京への赴任だった。」

 

ピエール・テイヤール・ド・シャルダンは実在(1881年〜1955年)した、フランスのカトリックの司祭だそうだ。

彼の、古生物学の研究と信仰のはざまで苦しむ様子が、芝居でも描かれるのだが、どこか(私には)ピンとこなかった。

 

テイヤールが生きた時代よりも、むしろ、神の問題、宗教の問題は、私たち一人ひとりにとって、また世界の安全にとって、切実なものになっている気がする。

世界において、キリスト教が優位な立場を占めていたときと違って、例えば前回このブログでご紹介した『朝のライラック』に描かれていた「イスラーム国」のような存在が、秩序を揺るがせている。「イスラーム国」には「イスラーム国」の神があり、絶対の神と神とが衝突をしている。

 

だから、イエズス会によって危険な思想とみなされ、ローマ教皇庁から、その著作を禁書とされたテイヤールの軌跡を追うことは、その神の問題、宗教の問題に切り込んでいく、非常に現代的なテーマなのだと思う。

 

しかし、新国立劇場の『骨と十字架』からは、どこか、この世界とは別の、古い、もう終わってしまった世界を見させられたような気がしてならなかった。

その原因は、戯曲そのものにあるのだろうか? 演出・演技にあるのだろうか?

 

パラドックス定数の芝居をいくつか(まだ少ないのだけれど)見てきて感じることは、劇団のメンバーたちの演技には高度な集中力があるということだ。視線ひとつ、躰の向きひとつにも神経が行き届いていて、ぶれない。観客はいるのだけれど、観客を意識しているようには見えない。対話・会話の相手に全力を上げて立ち向かうので、そこに緊張感が生まれる。言葉と言葉がしのぎを削る。

 

……というようなことを考えていくと、今回の『骨と十字架』の舞台に、「濃密さ」や「切迫感」が感じられなかった要因は、演出の仕方、演技の方法の違いに在るのかもしれない。

 

上に書いた2人はもちろんのこと、その他の出演者(神農直隆、伊達暁、佐藤祐基)も、上手な俳優さんだと思う。5人がそれぞれに個性的で、力を発揮していたと思う。

近藤芳正の実力は、『斜光』(2017年12月、作 古川健、演出 高橋正徳、草月ホール)を観たときに、思い知らされた。吉展ちゃん事件の犯人を追い詰める刑事を見事に演じ切って、迫力があった。

 

近藤芳正にしろ、小林隆にしろ、とても「上手い」役者さんなのだろう。だから、ちょっとしたところで、観客の笑いを誘うことに長けている。観客が笑ってなごむ箇所が、何回もあった。

あの「笑い」は戯曲にもともと在るものなのか、あるいは演出家の要請であるのか、それとも役者の狙いなのか、……分からない。

私思うに、あの「笑い」は無いほうが良かった。「笑い」によって、フッと、気が抜けていくものがあったような気がする。対立関係が削がれて、舞台が弛緩していく気がした。

 

変に観客を意識せず、一途に役に立ち向かい、野木萌葱のセリフを高い熱量で発する演技こそが、野木作品には向いているような気がする。

その点では、テイヤールの弟子(?)を演じた佐藤祐基の演技がひたむき(変に遊ばない)で、野木作品に合っているように感じた。

 

野木演出による、パラドックス定数の『骨と十字架』を観られたらと思う。

「世界最前線の演劇」の成果

  • 2019.07.22 Monday
  • 16:57

「お芝居つまみ食い」その279

 

2019年7月18日〜28日

彩の国さいたま芸術劇場開館25周年記念

世界最前線の演劇 3

さいたまネクスト・シアター

作 ガンナーム・ガンナーム、翻訳 渡辺真帆、演出 眞鍋卓嗣

『朝のライラック』

彩の国さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO

 

「世界最前線の演劇」の1は『ジハード』(ベルギーのイスマエル・サイディ作)、2は『第三世代』(イスラエルのヤエル・ロネン作)だった。

今回の3の『朝のライラック』は、ヨルダンのガンナーム・ガンナームの作品だ。

「世界最前線の演劇」シリーズは、3作品目にして、早くも、「成果」を生み出したように感じた。

 

パンフレットによれば、『朝のライラック』は作者のガンナーム氏が、

「中東のとある町で起きた、若い夫婦が結婚式の衣裳を身にまとい心中した事件に衝撃を受け」

書かれたものだそうだ。

なぜ「若い夫婦が結婚式の衣裳を身にまとい心中」しなければならなかったのか?

 

チラシの「STORY」によれば、こう書かれている。

「舞台は武装組織ダーイシュ(=「イスラーム国」の他称だそうです<野村>)の支配下にある、中東の架空の町テル・カマフ。

 この町に住む夫婦、ドゥハー(「朝」の意)とライラクはともに芸術教師をしている。

 学校は軍事拠点にされ、生徒たちが次々と戦闘に加わり、町が支配の闇に包まれていく中、美しいライラクを手に入れようとする軍司令官と町の長老は、それぞれに非情な選択をドゥハーとライラクに迫る。」

 

観客が入場したときに、舞台には、ひとつの部屋がすでに見えていた。

お芝居が始まると、その部屋に、ドゥハー・ライラク夫妻が、町の長老によって閉じこめられているのだということが分かってくる。

町の長老がやってきて、乱暴狼藉を働く。ドゥハーとライラクがしきりに怯え、苦しむが、その時点ではまだ私には「事の重大さ」がピンと来ないところがあった。

 

ぼやっとした感覚から、呼び覚まされたように感じたのは、武装組織ダーイシュの司令官アブー・バラ―が登場し、その演技に触れてからのことだった。

司令官アブー・バラ―を演じた役者は、そんなに上背がなかった。だが、セリフが明晰で、鋭かった。武装組織ダーイシュの、非人間的な論理を体現した存在として、そこに立っていた。

ドゥハー・ライラク夫妻の未来を抹殺する、容赦のない、宗教に裏打ちされた絶対の思想を持つ「人間」がそこに居た。

 

この時点で、演劇の対立軸が明確になった。

しかし、私が、『朝のライラック』にさらに惹きつけられ、それこそが「演劇」だと感じたのは、その少しあとのことだった。

 

司令官アブー・バラ―はドゥハー・ライラク夫妻を幽閉し、その見張りとして、1人の兵士を残して去る。

その、ダーイシュの兵士が、実はドゥハーのかつての教え子=フムードだと分かったところから、物語はグンと深いところに分け入ったように思えた。

 

両親をダーイシュに殺されたにも関わらず、今はダーイシュの兵士として生きざるを得ないでいるフムード。

ドゥハーとライラクの見張りを命じられたということは、ドゥハー・ライラクが逃亡を企てようとすれば、夫婦を銃で撃たなければならないということだ。

敵対したくない相手と、敵対しなければならない状況に置かれた者の苦悩。

ここで、『朝のライラク』は、ドゥハー・ライラク夫妻のドラマだけではなく、フムードのドラマにもなっていく。

フムードが選んだ途は……? 彼は、夫妻の頭に黒い袋をかぶせ、引っ立てていく。

 

ここで、舞台装置が転換する。

 

フムードが夫妻を連れて行ったのは、あの軍司令官アブー・バラ―が拠点にしている学校内の劇場(講堂?)だった。そこは、かつてドゥハーがフムードに演劇を教えた場所でもあった。

黒い袋をとった夫妻は驚く。なにしろ、軍事拠点の只中に連れてこられたのだから。

しかし、フムードには考えがあった。灯台もと暗し。まさか、こんな場所に潜んでいるとはダーイシュも思わない。だから、ここのほうが安全なのだと言うのだ。

フムードは夫妻と敵対する立場には立たなかった!

 

フムードは、北の方角にある重要な施設を、自爆テロで破壊し、死ぬつもりだと夫妻に打ち明ける。

そうすれば、南の方角の警備が手薄になる。だから、南に向かって逃げるようにと、夫妻に勧めるのだ。

 

夫妻はフムードが自爆テロをおこなうことに反対する。

そして、ドゥハー・ライラック夫妻が採ったのは、互いに互いの手首にナイフをあて、出血死していく途だった……。

 

 

私は、今回の公演で2人の俳優に注目した。

軍司令官を演じた堀源起と、フムードを演じた竪山隼太の2人だ。

 

堀源起の演技についてはすでに触れたが、竪山隼太の「セリフ」もいいと感じた。

『朝のライラック』はガンナーム・ガンナーム氏のオリジナルから、詩的なセリフだったのかもしれない。美しい言いまわしが日本の上演台本にもあって、役者さんによっては、そのセリフをモノにし切れない難しさがあったように、舞台を見ていて感じた。

だが、竪山隼太のセリフは、フムードの内面から発せられていて、強く惹きつけるものがあった。

 

お芝居が終わって、役者さんが舞台に並びお辞儀をした。

私は、もっと、もっと拍手をしていたかったが、役者さんは1度お辞儀をしただけで、もう出てこなかった。残念だった。

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