ダブル受賞が頷ける「蜜蜂と遠雷」

  • 2020.07.20 Monday
  • 21:55

「小説についての小説」その196

 

映画『蜜蜂と遠雷』(2019年、脚本・監督 石川 慶)を見る前に、原作は読んでいなかった。

『蜜蜂と遠雷』は国際ピアノコンクールの予選から本選までのドラマを描いた作品だ。

映画ではピアノの演奏を、(当然のことながら)実際の音として聞くことができた。

けれど、小説からは、(これもまた当然のことながら)実際の音は聞こえない。

 

映画を見たあと、ふと思った。

小説では、ピアノの演奏を、音楽を、どのようにして読者に伝えているのだろうか?……と。

それが知りたくて、原作の『蜜蜂と遠雷』(恩田 陸、幻冬舎)を読んだ。

2段組み、500ページ強の長編小説。

ページを繰るのが楽しくて仕方がなかった。直木賞(第156回)と本屋大賞をダブル受賞した作品ということに、「たしかに、そうだろうなあ」と頷ける小説だった。

 

作者は、ピアノの演奏をどのように読者に伝えているのか?

それは例えば、コンクールで第1位を獲得したマサル・カルロス・レヴィ・アナトールが、第三次予選の最初に弾いたバルトークのソナタ……。

この場合は、演奏者の内面、思い浮かべる世界を描くことによって、作者は読者に音楽を想像させてくれていた。長い描写なので、全部は引用できないが、一部引用させていただくと、こんな風だ。

 

「マサルはバルトークを弾くたびに、なぜかいつも森の匂い、草の気配を感じる。複雑な緑のグラデーションを、木の葉の先から滴る水の一粒一粒を感じる。/森を通り抜ける風。/風の行く手に、明るい斜面が開けていて、そこに建てられたログハウス。」

 

私は小説を読みながら、中学生のときの音楽の時間を思い出していた。

音楽鑑賞の授業、先生は音楽室のカーテンを閉め、クラシック音楽を聴かせてくれた。誰の、何という曲か、一つも覚えていないが、曲を聴いていると、不思議なことに、さまざまな情景が鮮やかに浮かんできたことを覚えている。

 

第三次予選で、マサルが3つ目に弾いたのは、フランツ・リスト作曲のピアノ・ソナタロ単調。

彼はこの曲を「長編小説」=「音符で描かれた壮大な物語」としてとらえる。

マサルの脳裏には、具体的に登場人物たちが現れ、物語が紡ぎ出されていく。そのイメージは6ページにも亘って叙述される。

 

曲のイメージが出来たら、今度はロ短調ソナタを一つの大きな建造物としてとらえ、曲を仕上げていく。はじめは掃除から。一部屋ずつ磨いていくうちに「この屋敷は自分のもの。自分の一部。」と思える瞬間がやってくる。

その過程が、また4ページに亘って記述されたのち、シーンはコンクール会場の舞台に戻っていき、演奏が終了する。

 

これだけでなく、作者はいろいろな工夫で、「音の出ない」はずの小説から、音を、音楽を、読者に感じさせてくれる。

音が、音楽が、作者の言葉の力、言葉の魔力によって、小説の中から湧きだしてくるように思えた。

 

 

小説『蜜蜂と遠雷』で、私が最もドキドキした個所がある。

それは、コンクールで第3位になった風間塵という少年が、本選に臨む前のリハーサルをする場面だった。彼が本選の曲として選んだのは、バルトークの協奏曲第三番だった。

 

リハーサルであるから、普通はピアノを弾いて練習するのかと思いきや、風間塵は指揮者に、オーケストラだけで第三楽章を演奏してもらいたい、とお願いするのだ。

そうして、その演奏を会場の隅で聴いてから、舞台に戻ってきて、楽団員の椅子や譜面台や楽器の位置を変えていく。(彼は、人とは違う「耳」を持っていて、そうする方がいい音になるらしいのだ。)

 

「もう一度、第三楽章をお願いします」

風間塵のやり方に、不快感を抱いた楽団員もいる中、指揮者が指揮棒を構える。

「一瞬の沈黙。/少年が最初の低音部のトリルを弾き始めた瞬間から度肝を抜かれた。/大きい。/楽団員の目の色が変わる。/音が大きい。/なんとクリアに耳に飛びこんでくることか。」

 

ここから、少年と、経験豊かな楽団員たちによる、「素敵な」掛け合い・勝負が展開されていく。

 

「楽団員の表情が真剣になっていた――いや、必死になっていると言ったほうがいい――風間塵のピアノに振り落とされまいと、置いていかれまいと、みんなが必死になっている。」

 

指揮者は、さっき風間塵が椅子や譜面台や楽器を動かしたことによって、オーケストラだけで演奏したときよりも、音のバランスが良くなっていることに気付く。

 

「誰もが、自分たちの演奏に驚愕していた。演奏しているのではなく、演奏させられている。無意識に腕が動いているのだ。/小野寺(=指揮者)は、あっけに取られて楽団員の表情を眺めていた。/このオケ、こんなに金管が鳴っていただろうか。これまで、常にパワー不足を指摘され、物足りなさを覚えていたのではなかったか?」

 

私がドキドキしたのは、ピアノ奏者とオーケストラの楽団員とが、このとき「出会い」、これまで以上の音楽を、この世界に出現させたことが、なんて「素敵な」ことだろうかと思うからだ。

一人の音楽家が、別の音楽家と遭遇したことによって、新しい魅力的な音楽が誕生する。その喜び。僥倖。それは音楽に限らずに有り得ることだろう。有り得ると思いたい。

 

 

もう一つ、『蜜蜂と遠雷』を読み、今まで私の思考の範囲に無かったことを、知らされたことがある。

 

それは、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールが第三次予選に向かう前、舞台の袖で考えていたことだ。

「マサルはまだ誰にも話していなかったが、密かな野望があった。/それは、「新たな」クラシックを作ること――こんにちいわゆる「クラシック」と呼ばれる作曲家のように、「新たな」コンポーザー・ピアニストになることである。」

 

「今でもコンポーザー・ピアニストはいるが、クラシックには少ない。」

「クラシック専門のピアニストが自曲を披露したという話は聞いたことがない。」

そういう状況の中で、マサルはピアニストであると同時に、ピアノのための曲を作りたいと考えているのだった。

 

演奏者でありつつ作曲者であろうとするマサルのような思考のベクトルは、演劇の場合ならば、採りやすいものだ。

ただ、戯曲を書き、それを演出した先人は、すぐに何人も思い浮かぶが、戯曲を書き、それを演技者として表現した先人は、すぐには思いつかない。(たしか、独り芝居などで、自作・自演をされている方がいらっしゃるように思うが。)

小さな役ではなく、作者が、大きな役を受け持って、自ら表現されている例はあるのだろうか? 今後、気をつけて見ていきたいと思った。

 

 

『蜜蜂と遠雷』……映画を見てから、小説の世界に入った。

小説を読むのに、映画の記憶が邪魔になるということは全く無かった。

小説の世界は圧倒的で、映画とは別物に感じられた。登場人物たちの容姿も、雰囲気も、映画に出演した俳優さんたちとはまるで違う人物たちが、今、私の中で生きている。

 

”アキちゃん”を思い出させた、西加奈子の「掌」の”私”

  • 2020.06.16 Tuesday
  • 20:21

「小説についての小説」その195

 

雑誌「すばる」2020年6月号の表紙に「西加奈子」という文字が印刷されているのを見て、初めは何も思い出さなかった。

何日かして再び「西加奈子」という文字を見て、今度は、「文藝」2019年秋季号に『韓国人の女の子』という短編を発表していた人であることを思い出した。

 

それどころか、私は去年の7月、『韓国人の女の子』について、ブログを書いてもいた。題して”「軽妙だが重い」―西加奈子「韓国人の女の子」”。それなのに、名前を見て、すぐに思い出さなかったとは。……。

 

『韓国人の女の子』が魅力的な作品だったので、「すばる」に発表された『掌』も、ちょっとファンになったような気持ちで、読みだした。

『韓国人の女の子』はエッセイストの「ハナ」と、在日朝鮮人の「ガク」の話だった。

『掌』は「私」と、私の叔母さんである「アズちゃん」の話だ。

 

「私」は、「日本のジェンダー教育・表現 それが及ぼす影響について」というテーマで卒業論文を書くような人であるのに対して、「アズちゃん」は、「私」に言わせれば、”自分の意見を持っていない”という特徴を持っている人らしい。

 

「アズちゃん」の名前は「梓」だから、「私」は叔母さんを「アズちゃん」と呼んでいる。

「私」は、「アズちゃん」に「ケイシー」と呼ばれているが、どうして「ケイシー」なのか、その訳は16ページの小説の16ページ目を読むまで、知らされない。

 

「アズちゃん」が「私」を「ケイシー」と呼ぶのは、「私」が、“自分の名前を「ケイシー」にすると宣言した”からだった。

“圭史という本名は残しながら、そして、ケルト語源で「勇気のある」という意味を持つという「CASEY」にするのだ”と、「私」が言ったからだった。

 

「アズちゃん」は「梓」だから「アズちゃん」……ということは、16ページの小説の2ページ目で分かった。

けれど、「ケイシー」は「圭史」だから「ケイシー」……ということは、最後になって初めて知った。

 

私は「ケイシー」って、変わった呼び名だとは思ったが、ずっと女性であると思って小説を読んでいた。

思えば「ケーシー高峰」という方が居た。昔懐かしいアメリカのドラマ『ベン・ケーシー』も男性だから、「ケイシー」も男性であると思わなければいけなかったのだろう。(でも、ベン・ケーシーのケーシーは苗字?)

「日本のジェンダー教育・表現」云々の卒業論文を書くだけあって、「私」は日頃から、男性性を表に表わすことのない人として、作者は描いたのかもしれない。だから、その言葉遣いを読む限り、「私」は、男性とも、女性とも、とらえることが出来る。

私は、視点人物の「私」と、「アズちゃん」の性に関するあけすけな会話などから、ケイシーという姪っ子と、アズちゃんという叔母さんの、女性同士のやりとりと受け止めてしまった。

 

 

そういえば、同じようなことが、ついこのあいだもあったなあと、すぐに思い浮んだのが、第125回文學界新人賞をとった『アキちゃん』だ。

『アキちゃん』についても、このブログの「その192」で書かせていただいたが、「アキちゃん」が「アキヒロ」という名前の男の子だということが分かるのは、32ページの小説の22ページ目だった。

 

そのことについて、「文學界」2020年5月号の新人賞発表の「選評」で、長嶋有氏が、『アキちゃん』を評価しつつ、こんな風に書いていた。

 

“ただこの作品は、作中の人物についてある重要な事柄があり、それを終盤まで隠している。作者が、ある効果のためにそのことを恣意的に「手でおさえている」わけだが、僕は創作におけるそういう「手」に対して常に「ズル!」と思う(エンタメの叙述ミステリならともかく)。世評の高いカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』に対してさえ思うので、それが(それでもなお)評価されることは認める一方で「ズル!」と思ってしまうことの表明も、正直にしておく。”

 

『アキちゃん』の「アキちゃん」や、『掌』の「私」は、どうして、はじめから男性とはっきり分かるように書かれなかったのだろうか?(西加奈子氏は『掌』の「私」について、そのような意図は無かったと言われるかもしれない。だとすれば、私の読みの浅さということになる。)そのような書き方をするのは、作者に、どのようなねらいがあってのことなのだろうか? 

女性と思っていた人物が、男性であったことを読者があとで知ることによって、意外性を感じ、面白さを感じるだろうから……ということなのだろうか?

 

『アキちゃん』の「アキちゃん」がはじめから男の子として分かるように書かれたとしても、「アキちゃん」は小説の中で、生き生きとした「主役」として、大いに君臨するように思う。(最後になって、別の理由から、「アキちゃん」の存在はしぼんでいってしまうけれど。)

『掌』の「私」が、「私」ではなく、「僕」として書かれたとしても、違和感は生じないように思う。叔母さんと甥っ子のやりとりや行動から、現在の日本の現実や課題が、よりリアルに浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

映画のあとの、小説「ヴェニスに死す」

  • 2020.06.10 Wednesday
  • 21:22

「小説についての小説」その194

 

ウイルス禍の中、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を45年ぶりに見て、原作が読みたくなった。高橋義孝訳の古い新潮文庫が家にあったので読んでみた。

 

映画を見て、そのあとすぐに原作を読むと、どうしても両者を比較検討するような読み方をしてしまう。

たとえば、映画では、平穏かと思われたベニスの町が、実はコレラに侵されつつあるということを示すために、唐突と思えるような(それだけに印象的な)シーンが挿入されていた。それは、主人公が、一度はベニスを離れようとして向かった駅の構内で、ある男の姿を目撃する場面だ。人々が行き交う中、突然一人の男が倒れ込む。カメラは、その瀕死の表情を映し出す。

 

しかし、原作の『ヴェニスに死す』には、そのようなシーンはない。

小説で、主人公が「異変」を感じ始める箇所の文章はこうだ。

「リドに滞在して四週間目に、グスターフ・フォン・アッシェンバッハは周囲の世界に関して不気味なことを若干経験した。第一に彼には、シーズンも頂上に近づいて行くというのにホテルの客の出入りがどうやら増すよりも減るように思われた。……」

映画は数秒で不気味な死を表現していたが、小説では、時間の流れの中の「変化」に、主人公が「不気味さ」を感受していく。

 

かと思えば、原作で描写された場面が、映画の映像として見事に再生された部分もある。それは、夕食後のホテルの中庭で、流しの音楽家の一団が楽器を演奏し、歌を披露する場面だ。

見たばかりの映画の映像を思い出しながら、小説を読んでいると、トーマス・マンとルキノ・ヴィスコンティの感性が、ほとんど双生児のように重なっているかのように感じられるのだった。

 

「大道芸人たちはマンドリン、ギター、ハーモニカ、顫える音を出すヴァイオリンを器用にこなした。(略)しかし本当に腕があって、この一座の頭を勤めているのが、二人の男のうちの一人であることは明かであった。この男はギターを弾く。」

 

ギター弾きの男は弾き語りで独唱をしたあと、ぺこぺこしながら帽子を差し出し、お金を集める。それから、もう一度、歌を唄う。

「これまでに聴いた記憶のない歌で、文句はわけのわからぬ方言で、リフレインのところは笑い声になっている。そこへくると一座はありったけの声を出して一緒に笑った。」

ワッハッハッハッハ。ワッハッハッハッハ。ワッハッハッハッハ。……映画で聞いた笑い声が耳に残っている。

 

初めは「非常に自然らしい笑い声」が、やがて変化しつつ、伝播していく。

「テラスの人たちに向って臆面もなく投げつけられる彼の作り笑いの声は嘲笑であった。(略)そして愈々笑う段取りになると、抑えるに抑えようのない哄笑が男のからだの中から、どっと一時に堰を切って流れ出る、爆発する。それがまた実に真に迫っているので、はたの者にも伝染する。テラスの客たちにも伝わって行く。(略)男は、上の方で笑っているホテルの客たちほど滑稽なものはまたとないとでもいうように、指でテラスの方を差す。するとしまいには、庭やヴェランダにいる者すべてが笑いころげる。」

 

仲間たちが外に出てしまったあとも、ギター弾きの男は、一人ふざけては笑いをとろうとする。

最後、一度門を出たと思った彼が、また戻ってくる。

そのときにした男のしぐさが、映画でも、原作でも、はっとさせられる。

「彼は突然道化者の仮面をかなぐりすてて、身をすっくと起し、いや、ぴんと立ててテラスの客共に向ってべろりと舌を出して見せて、ひらりと闇の中へ消え失せた。」

 

この場面の「笑い」には、幾重もの意味が込められているように思える。

危機のすぐ傍らで安穏としている者への嗤い。

富む者も、貧しい者も、同じ危険にさらされることの、痛快な平等性。

人を笑うことの切なさ。虚しさ。

笑わないではいられない不確かさ、心もとなさ。

狂うように笑うことでしか振り払えない恐怖。人間の弱さ。

共に笑うことによって生まれる安心と、心落ち着く負の連帯感。

……等々。

 

映画の最後、コレラに罹り、その症状が顕在化した主人公が、浅い海に入っていく少年の姿を、目で追うシーンがある。

そのとき少年は左手を斜めにあげて、宙を指さす。……あれは、死に行く主人公に、「天に還れ」とでも告げているのではないか? と、「お芝居つまみ食い」その298に記した。

さて、その解釈は当たっているのかと思いつつ、原作の最後のページを読んだ。

はたして、原作では、つぎのように書かれていた。

 

「けれども彼自身は、海の中にいる蒼白い愛らしい魂の導き手が自分にほほ笑みかけ、合図しているような気がした。少年が、腰から手を離しながら遠くの方を指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮んでいるような気がした。すると、いつもと同じように、アッシェンバッハは立ち上がって、少年のあとを追おうとした。

 椅子に倚って、わきに突伏して息の絶えた男を救いに人々が駆けつけたのは、それから数分後のことであった。そしてもうその日のうちに、アッシェンバッハの死が広く報道されて、人々は驚きつつも恭しくその死を悼んだ。」

 

私の受け止め方は、違っているようにも思えるし、そうでもないようにも思える。

 

 

昭和33年発行の、新潮文庫の『ヴェニスに死す』の解説は、訳者の高橋義孝氏が書いている。

そこに、「『ヴェニスに死す』をより面白く読もうと思ったならば、この作品を『トニオ・クレーゲル』と比較するのがいいと思う。」とあった。

『トニオ・クレーゲル』は高校生のときに読んでいるが、詳細には覚えていない。

今度は『トニオ・クレーゲル』を読み直すことになりそうだ。

 

 

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