どこかの町で「むらさきのスカートの女」として生きてほしい

  • 2019.09.09 Monday
  • 20:04

「小説についての小説」その180

 

第161回芥川賞の候補に挙げられていたのは5作品だった。

そのうち私が読んでいたのは、高山羽根子氏の「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」だけだった。

 

高山羽根子氏は前回、「居た場所」で芥川賞の候補になっていたので、今回はどうだろうかと、小説に詳しい友人2人に訊いてみた。そうしたら、2人が2人とも今村夏子氏の名前を挙げた。

果たして、芥川賞は今村夏子氏の「むらさきのスカートの女」が受賞した。

 

「むらさきのスカートの女」という題名から、私がすぐイメージしたのは、中学生のときの担任の先生だった。

先生は家庭科の先生で、1961〜2年の頃の女性教師としては少し目立つ存在だった。地元のお寺のお嬢さんだったのだが、言動も現代風、お化粧もしっかり、服装も華やかだった。

紫とか、緑とか、(多分)着こなすのが難しいだろうと思われる色の服を着ていたことが印象に残っている。

 

だから、「むらさきのスカートの女」という題名から私が感じ取ったのは、良いイメージ、もっと言えば美しいイメージだった。(思えば、そもそも、そんなイメージを与えることも、作者の周到な狙いだったのかもしれない。)

しかし、小説を読みだすと、「むらさきのスカートの女」は決して、美しい人ではないと、すぐ告げられてしまう。

 

「頬のあたりにシミがぽつぽつと浮き出ているし、肩まで伸びた黒髪はツヤがなくてパサパサしている。」

……シミが出るのは仕方がないことだし、髪にツヤがなくても不衛生でなければいいと思うが、そのうち、こんな記述が出てきた。「むらさきのスカートの女」が肉まんの工場に面接を受けに行ったときのことだ。

 

「食品関係の面接は爪や髪の毛を見られるに決まっているのに。髪はパサパサのボサボサ、爪は真っ黒の女が受かるわけがない」

食品関係の工場の人でなくても、爪が真っ黒の女は、(女性だけではないだろう)願い下げなのではないか。

こうして「むらさきのスカートの女」のイメージは、いやおうなしに下がっていった。

 

「黄色いカーディガンの女」の誘導によって、「むらさきのスカートの女」はホテルの客室清掃員として働き始める。その初日、自己紹介の際に、「むらさきのスカートの女」の名前が明らかになる。彼女の名前は、日野まゆ子というのだった。

 

日野まゆ子はだんだんと変化を見せていく。

ボサボサの頭も、後ろで1つにまとめられた結果、「卵形の輪郭が現れて、ずいぶんスッキリ」したし、「こけていた頬はふっくらとし、血色が良くなった」し、「髪の毛にハリとコシが生まれた」。

小さな声しか出なかったのに、良く通る声で挨拶も出来るようになったし、職場の人たちと飲みにもいくし、なにより、仕事を短期間でマスターしてしまう。

つまりは、「普通」の人、いや、ちょっぴり出来る人になっていく。

 

この辺りまでは、まあ良かったのだが……。(「良かった」というのは、あくまでも私の感覚ですが)ところが、しだいに、日野まゆ子の否定的な側面が露呈してくる。

「否定的な側面」というのも、私のとらえ方なのだが、彼女は職場の上司である「所長」と付き合うようになるのだ(上司には家庭がある)。

 

日野まゆ子はきつい香水をつけ、指の爪を赤く塗るようになる。

公衆電話で「所長」の家に無言電話をかけるようになる。「早朝、深夜、時間は問わない。」

日野まゆ子の「所長」に対する思いは、どうやら「本気」になってしまったらしい。

「所長」が家族で旅行したことについて、こんな風に叫んだりする。

「わたしのこと、もう好きじゃなくなったからでしょう、そうなんでしょう! だから奥さんと石垣島に旅行なんか」

 

思えば香水も、マニキュアも、してはいけないことではない。不倫も「普通」のことで、珍しくないのかもしれない。

日野まゆ子を、特殊な、あるいは異常な女性と言うことは出来ない。

けれど、こんな風に「普通」になっていくのだったら、ボサボサ頭の、見た目には美しくない「むらさきのスカートの女」で在り続けてくれたほうが良かったように私は思った。

 

「孤高」というのか、周囲に対して「我関せず」の態度をつらぬいて、自分の思うように、その日暮らしをしている「むらさきのスカートの女」のほうが、生き方としても魅力的であるように感じる。

 

小説の終わり近くで、日野まゆ子の消息は不明になってしまう。

日野まゆ子は今頃、どこの町に居るのだろうか?

できれば、彼女には、その町で、変に「普通」になったりしないで、あくまでも「むらさきのスカートの女」として生きていって欲しいと思う。

 

遅まきながら、坂口安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」を読んで

  • 2019.08.31 Saturday
  • 20:37

「小説についての小説」その179

 

このブログの「その177」で、坂口安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」の文章を、高橋源一郎氏の評論「ぼくらの天皇(憲法)なんだぜ」(「小説トリッパー」2019年SUMMER号)から孫引きさせていただいた。

孫引きするのではなく、坂口安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」そのものを、まず読むべきだった……、と気になっていた。

 

新宿に出かけた折りに、紀伊國屋に寄って、検索する機械で調べたら、景文館書店というところから『天皇陛下にささぐる言葉』という書籍が出ていることが分かった。

だが、印刷した地図を頼りに書棚を探したが、見つからない。カウンターに行って話すと、探して、持ってきてくれた。

驚いた。厚い本をイメージしていたら、うすっぺらな冊子だった。価格も200円+税!

 

景文館書店発行の『天皇陛下にささぐる言葉』は全32ページで、「天皇陛下にささぐる言葉」のほか、「堕落論」「天皇小論」「もう軍備はいらない」も収録されている。「天皇陛下にささぐる言葉」だけだと10ページしかない。

 

1948年に発表された「天皇陛下にささぐる言葉」の書き出しはこうだ。

「天皇陛下が旅行して歩くことは、人間誰しも旅行するもの、あたりまえのことであるが、現在のような旅行の仕方は、危険千万と言わざるを得ない。」

 

この「天皇の旅行」というのは、1946年から1954年にかけて、昭和天皇が46都道府県を訪れた「巡幸」のことだ。

当時、「真相」という雑誌が「巡幸」を風刺して、「天皇は箒である」という写真を載せたのだそうだ。それに対して「不敬罪だ」とか「告訴だ」という声が上がったらしいが、坂口安吾は「私は『真相』のカタをもつものだ」と書いている。

 

どうして天皇が箒なのかというと、……坂口安吾はこう言う。

「天皇陛下の行く先々、都市も農村も清掃運動、まったく箒である。陛下も亦、一国民として、何の飾りもない都市や農村へ、旅行するのでなければ、人間天皇などとは何のことだか、ワケが分らない。」

 

またこうも言う。

「私は日本最古の名門たる天皇が、我々と同じ混乱の客車で旅行せよとは言わぬ。たとえ我々の旅行がどのように苦難なものであるとはいえ、天皇の旅行のため、特別の一車を仕立てることに立腹するほど、我利我利でありたいとは思わない。

 然し、特別に清掃され、新装せられた都市や農村の指定席を遍歴するなどということは、これはもう、文化国に於ては、ゴーゴリの検察官の諷刺の題材でしかないのである。」

 

坂口安吾は昭和天皇に問う。

「このような指定席を遍歴し、キョーク感激の代表選手にとりかこまれて、天皇陛下はご満足であるのか。」

 

昭和天皇を迎えて、沿道で歓呼する国民については、こう述べる。

「天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。

 地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。」

 

そうして坂口安吾は、

「人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。

 天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならぬ。」

と述べたあとに、「その177」で、高橋源一郎の評論から、私が孫引きさせていただいた、つぎの文章が続くのだった。

 

曰く、

「天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすすめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。」

 

坂口安吾が指し示している、「天皇が国民から受ける尊敬の在り方」、これが実現できたなら、天皇と国民の理想的な関係が形成されるのではないか。

電車に天皇と国民が乗り合わせて、国民が「サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい」と席をすすめる……、坂口安吾が描いた、天皇と国民の関係はメルヘンのようだけれども、何度読んでも魅力的に感じる。

そこに居る天皇は、とても人間的だし、そういう天皇ならば、「一人の人間としての基本的人権」も、高いパーセントで認められて、生きることが出来るのではないだろうか。

 

高橋源一郎氏の講演の言葉

  • 2019.08.20 Tuesday
  • 19:25

「小説についての小説」その178

 

高橋源一郎氏が6月8日、神奈川近代文学館で「江藤淳になりたかった」と題する講演をおこなった、その記録が「新潮」2019年9月に載っていた。

江藤淳にまつわることを知ることができたというよりも、講演の中の高橋源一郎氏の言葉に感じるものがあって、読んで良かった。

 

僕たちは「昭和の子」ではない

 

高橋源一郎氏は昭和26年生まれだそうだ。私は昭和24年に生まれた。だが、高橋氏は「昭和の子」ではないと言う。それは何故かというと……

 

「吉本(隆明)さんや江藤さんをはじめ、終戦時に十代だった人たちは、戦争の前と後の時代をそれぞれ知っています。この二つを合わせて初めて、昭和史の全体になる。でも、僕たちは書かれたものを通してしか戦争を知らないのです。極論を言うなら、僕たちは『昭和の子』ではない。あくまで、『戦後の子』に過ぎません。」

 

この認識は大事なことのように思う。

戦後すぐに生まれた世代も、もう70歳を超え、「昭和」を代表しているように見えるが、実は、完全に「昭和」を代表しているわけではない。

昭和20年までにあった戦争を、実際に体験しているわけではないので、「昭和」を語る資格は、完全には持っていない。

ただし、私たちの親の世代は戦争を体験しているので、その話を聞いている。生の体験はしていないが、親世代の体験を少しでも伝えていく務めが、私たち世代にはあると思っている。

ただ、「昭和」をすべて知っているような顔は、間違ってもしてはならないと思う。

 

文学とはいつも個人の側に立つものです

 

講演の最後近くで、高橋源一郎氏がこう語っている。

 

「文学とはいつも個人の側に立つものです。僕たちひとりひとりの側に。皆、いつかは必ず死ぬことになる個人です。個人の寂しい感情をかすかに掬い上げるのが文学の役割であり、創作とともにあった大きな声の一つが批評だとしたら、僕たちはいま、その声を失いつつあるのではないでしょうか。僕は今後も、おそらく純粋な形での批評文は書かないでしょうが、自分のすべての作品の中に、江藤さんが支持したであろう『最後に依るべき個人の声』を大切に込めたいと思っています。」

 

この言葉に触れたとき、感動に似たものを覚えた。「かすかに掬い上げる」ことさえ出来るかどうか心もとないけれども、私も、その作業を続けていきたいと思った。

 

 

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