青来有一氏のメタフィクション

  • 2018.09.16 Sunday
  • 16:10

「小説についての小説」その147

 

青来有一の『フェイクコメディ』(「すばる」2018年9月号)を読んだ。

 

主人公の長崎原爆資料館の館長である「わたし」は、小説家でもある。

「来年三月、わたしは定年をむかえる。三十代のなかばから公務のかたわら、物書きとして小説を書くようになり、これからようやく自由に書くことができるという待ち遠しさが大きい」

とあるので、「わたし」は青来有一氏自身であるようだ。

 

このブログの「その134」で、私は同じ青来有一氏の小説『小指が燃える』に触れたが、『フェイクコメディ』は、小説の書き方が、『小指の燃える』に似ている。

どのような書き方かと言うと、『フェイクコメディ』の中で、筆者がこんな風に書いている。

「わたし自身のなにげない日常を私小説仕立てにして、そこに現実に存在はしても、まず出会うことのない人物を登場させ、現実と小説世界を融合した一種のメタフィクションだ。」

と。

 

「現実に存在はしていても、まず出会うことのない人物」は、『小指が燃える』では、「元都知事で作家の石原慎太郎氏」であり、「被爆者である作家の林京子さん」だった。

そして、今回の『フェイクコメディ』で、長崎原爆資料館を密かに訪ねてくるのは、なんと、「キッシンジャー元国務長官」であり、「ドナルド・ジョン・トランプアメリカ合衆国大統領」なのだった。

 

資料館の展示を見たあとに、トランプ大統領はこんなことをキッシンジャー氏に言う。

「この施設は申し分がない……、小さいがすばらしい展示ではないか。ナガサキのこの原爆資料館を、どうだろう……、マンハッタン計画の関連施設を国立公園にするという計画があっただろう? わが国でここをそっくり買い取って、その関連施設のひとつにくわえるのはどうだろうかね。」

 

キッシンジャー氏はうなずいて、

「なるほど、他国の国民への警告にはなるかもしれませんなあ」「核の抑止力を補完するうえで、民衆の無意識への心理的な効果ぐらいは発揮するかもしれません」

などと応える。

 

「ちがう、ちがう、そうじゃない」

と「わたし」は、トランプ大統領とキッシンジャー氏の間に割り込んでいこうとする。

「ここは核兵器の威力を誇る施設ではない、その恐ろしさを伝える施設なのだ、アメリカの偉大さを讃える施設でもなく、人類の未来への警鐘となる施設であって、わたしはその館長なのだ。」

と。

 

ところがそのとき、後ろから複数の腕が伸びてきて、「わたし」は眠りに落ちてしまう。

その夜、「わたし」が目を覚ましたのは、自宅マンションの近くの公園のベンチの上だった。

 

その夜にあったことを忘れてしまったと思ったが、やがて記憶が戻ってくる。だが、

「トランプ大統領が原爆資料館におしのびで見学にきたなど、だれが信じてくれるだろう。」

とも思う。

「結局は一夜の茶番劇、コメディとして語るしかないのかもしれない。」「ニセの大統領やニセのキッシンジャー元国務長官が登場するコメディとして、こうなったら書くしかないのだろう……」

 

そうして、話は小説の冒頭に戻り、小説『フェイクコメディ』の幕が上がっていく。

 

「メタフィクション」

一歩間違えれば、穴がボロボロと開いた、話にならない小説になってしまう危険性があるように感じる。

しかし、自由な小説世界を創造する手法として、『小指が燃える』そして今回の『フェイクコメディ』を、興味深く読んだ。

北朝鮮で作家になるには…

  • 2018.09.12 Wednesday
  • 21:21

「小説についての小説」その146

 

2012年の8月、ヤン・ヨンヒ脚本・監督の映画『かぞくのくに』をテアトル新宿で見た。

1970年代に「帰国事業」で日本から北朝鮮に渡った兄が、病気を治療するために、特別に許されて日本に戻ってくる。(兄役=井浦新)

その兄を迎える妹(安藤サクラ)をはじめとする家族たちの心情。そして、突然もたらされる、北朝鮮への帰国の指令。

フィクションではあるが、ヤン・ヨンヒ監督の重い、切実な体験に裏打ちされ、一本、ぴんとしたものに貫かれている映画で、印象に残っている。

 

そのヤン・ヨンヒ監督が、「週刊文春」(2018年6月21日)の書評欄で、金柱聖(キム・ジュソン)の『跳べない蛙 北朝鮮「洗脳文學」の実体』を取り上げていた。

「北朝鮮」という語と、「文学」という語の取り合わせが、私には新鮮だった。

そういえば、北朝鮮では、文学がどのように取り扱われているのか、考えてみたこともなかった。北朝鮮における文学とは? その実際を知りたいと思い、『跳べない蛙』を読んでみた。

 

『跳べない蛙』の著者・キム・ジュソン氏は在日三世として日本で生まれて育ったのち、『かぞくのくに』の「兄」と同じく、1970年代に北朝鮮に帰還している。

なお、キム・ジュソン氏は、1959年から1980年代半ばまで続いた「帰国事業」について、「帰国」とか「事業」という表現をするのは適切ではないと書いている。

それでは、「帰国事業」と呼ばれるものはいったい何だったのか? キム・ジュソン氏はこう言っている。

「朝鮮戦争直後、不足している労働力と経済力などを補給するために金日成氏が誘(おび)き寄せた犠牲者たちが、在日帰国者だったのではないだろうか。」

 

北朝鮮に渡ったその日に、キム・ジュソン氏はそこが「地上の楽園」ではないことを思い知らされる。

そもそも北朝鮮に渡ったキム・ジュソン氏が、「思ったことや考えたことをノートに書き出すように」なったのは、「小説の中でならいくらでも日本に行けるんじゃないか」と考えたからだという。

「自分を作中の人物に設定して舞台を日本にすれば、いつでも日本に行けるようになる。」

キム・ジュソン氏は作家になることを目指した。

しかし、2009年に脱北し、現在は韓国で脱北者の支援活動などをしているとのことだ。

 

日本であれば、いろいろな経路をたどって作家になっていくことが可能だが(もちろん、作家になれない可能性も十二分にあるが)、北朝鮮では、そのルートが一つしかない。

それは、作家も、国の、というよりも朝鮮労働党の支配下に組み込まれているからだ。

 

朝鮮労働党には宣伝扇動部という部があり、その下に朝鮮文学芸術総同盟が組織されている。

この文学芸術総同盟の中に、音楽家、美術家、舞踊家、演劇人、映画人、写真家、作曲家、そして作家と、個々の同盟が設けられている。

さらに作家同盟には、道・直轄市ごとに支部があり、本業作家(正式同盟員)、兼業作家(候補同盟員)、アマチュア作家(群衆文学通信員)という階層がある。

 

キム・ジュソン氏は、大学を卒業し、体育の教員をやっていた頃に、本格的に小説を書き出した。

そして、作家同盟の「群衆文学通信員」に登録した。

1年に1度、通信員の講習があり、作品が「合格」すると、作家同盟の月刊誌に掲載される。この月刊誌に、短編小説が3作以上、エッセイが2作掲載されると、アマチュア作家から兼業作家に昇格するシステムになっているらしい。

キム・ジュソン氏は、兼業作家の地位までたどりついたものの、本業作家にはなれなかった。

 

作家になるためには、好きなことを好きなように書いていてはいけない。

北朝鮮では、作家は「職業的革命家」とも呼ばれている。つまり、「革命を本職とする者」であるということだ。

そして、「あの国での“革命”とは、ひたすら金氏(一族)だけを敬い、彼(ら)のお導きによって、完璧な社会主義制度を建てるための活動を指す。」

その理念を実現させる役割が作家にあり、だからこそ「職業的革命家」なのだ。

 

従って、北朝鮮で最も評価されるのは、「金一族の功績と人物を題材にした物語」ということになる。

「抗日パルチザン物」や、「朝鮮戦争後から現在までの社会を背景にした物語」も評価が高いが、キム・ジュソン氏は「日本を背景にした」「総連幹部と在日を主人公にした物語」を書いていた。そのような題材を扱った小説は「海外物」と呼ばれ、思想的・政治的に評価の低いジャンルに属していた。

キム・ジュソン氏はついに、本業作家になる夢を諦めた。

 

ありきたりな感想になるが、好きなことを好きな風に書ける環境というものの有難さを『跳べない蛙』を読んで感じた。

文学に限らず、芸術全般をお上が支配し統率する世界には馴染むことができないと、書くことは容易いが、そのような体制の中に置かれたときに、果たして自分がどのように生きていくのか、いけるのか、考えると、立派なことは言えない。

「ザ・空気 ver.2」の中の”空気”

  • 2018.09.07 Friday
  • 16:23

「小説についての小説」その145

 

永井愛氏の戯曲『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』が「悲劇喜劇」2018年9月号に載っていたので、読んだ。

 

舞台は国会記者会館の屋上。

国会議事堂を臨むことのできる場所に、記者クラブの会館があることを初めて知った。

インターネットで調べたら、記者クラブが自力で建てたわけではなくて、1969年に、衆議院の事務局が約5億6千万円かけて建設した建物なのだそうだ。土地と建物は国有で、国会記者会に所属していれば、使用料は無料ということだ。

 

登場人物5人のうち、4人が、記者クラブに所属している。全国紙の政治部記者が2人に、大手放送局の政治部記者が1人、全国紙の論説委員が1人。

この4人とは「立場」の違う登場人物が1人。……ネットテレビ局の代表の女性だ。

 

インターネットで「国会記者会館」を検索したときに、ウィキペディアに「記者クラブ非加盟記者による屋上取材の不許可問題」という記事が出ていた。

それによれば、2012年の7月、インターネットメディアがデモを取材・撮影するために、国会記者会館屋上の使用を国会記者会に求めたのだが、不許可とされたのだという。衆議院議長にも使用許可を申請したが、不許可だった。

 

そのエピソードを下敷きにしたのかどうか分からないが、『ザ・空気 ver.2』に登場するネットテレビ局の女性は、記者クラブに入っていない「立場」なので、国会記者会館を利用することが出来ず、会館の屋上にこっそりと「侵入」してくる。目的は、ウィキペディアの記事と同じく、屋上から、デモの様子を撮影するためだ。

 

登場人物の一人に作者が、

「記者会館は税金で運営されてるわけでしょう。何で記者クラブが独占してるんだって言いたい気持ちもわかりますよ。屋上ぐらい使わせてもいいのに。」

というセリフを言わせているが、なるほどそうだなと私も思う。

 

そのネットテレビ局の女性が、「侵入した」屋上で、偶然、あることを耳にする。

それは、官邸記者室の共有コピー機から、原紙を取り出すのを忘れた者がいて、政治部記者の一人がそれを手に入れたことだった。

どうということのない内容の文書であれば問題はないのだが、コピー機に残っていた1枚の文書の表題は「今日の記者会見についてのご提案」で、本文はつぎのようなものだった。

 

「今日の会見は大変にリスキーです。記者クラブの空気は、『もう総理を徹底的に叩くしかない』という方向に流れています。唯一の救いは、内閣の支持率がこれだけ落ちても、野党の支持率が上がらないこと。今回の会見さえ乗り切れば、ある種のあきらめムードとともに国民の忘却も進むでしょうから、いずれは支持率の回復も夢ではありません。以下、本日想定される質問と模範解答のQ&Aを作成いたしましたので、ご一読の上、ご活用いただければ……」

 

つまり、記者クラブに加盟している記者の誰かが、総理大臣と通じていて、記者会見の巧い乗り切り方を伝授しているということが判明したのだ。

国会記者会館という取材環境を与えられている記者クラブ。その記者クラブに居て、さらに総理大臣とつながっている記者がいるとすれば……。

政治を行う者と、政治を報道する者との関係について、『ザ・空気 ver.2』は考えさせてくれる。

 

ネットテレビ局の女性が、幕切れで言うセリフ。

「メディアをうらむな。メディアをつくれ。」

この言葉に示唆されているように、旧来からの報道の在り方を見直さなければならない秋(とき)が来ているように感じる。それはインターネットの出現によって、発信・報道する側が、一部の者に限らなくなってきたからだ。

 

ただ、『ザ・空気 ver.2』を読み進めながら、ずっと感じていたことがある。

それは、最初の、コピー機に残されていた文書の辺りから、始まった感覚だった。

文書の文面(内閣の支持率が落ちているとか、野党の支持率が上がらないといった内容)からすると、現在の内閣、現在の総理大臣が自然に思い浮かぶように書かれている。

 

ある記者が、総理大臣に記者会見の乗り切り方を提案した。ところで、「リスキー」だと言うその記者会見は、何のために開かれるのか? 具体的には分からない。

ただ、登場人物のセリフの中に、「疑惑を追及すべき」という言葉が出てくるので、ああ、長い間、国会で問題にされてきた、あの「疑惑」のことなのだろうと思う。

「総理のご意向」とか「忖度」という言葉にも、同様な効果があって、詳しく言わずとも、読者(観客)の脳裏に、あるものが浮かんでくるようになっている。

 

国会記者会館という施設の存在。そこからあぶりだされてくる、記者クラブの在り方。そのことに対する報道人の新しい動き。

作者の問題提起は具体的で、新鮮に感じられた。

ただ、現政権・現与党については、具体的な表現はなく、キーワードを使うことによって、読者(観客)に想起させる方法を採っている。私はそれに疑問を感じた。

 

きっと、現政権に対して批判的な立場・思いを抱いている人にとっては、「疑惑」「ご意向」「忖度」といったキーワードは有効にはたらくに違いない。

「ああ、あのこと!」と察知・共感して、きっと面白く見るのだろう。

 

しかし、それでいいのだろうかと、私は考える。

芝居で、現政権・現総理大臣を批判していけないとは全く思わない。

ただ、批判するのであれば、その批判を納得させるだけの論理・具体性がなければならないのではないか。

そうでないと、観客の中にあるだろう「政権批判」の空気みたいなものに、便乗することになってしまうように思う。

 

『ザ・空気 ver.2』は、現政権・現総理大臣を批判的に思っていない人には、どのように受け止められるのだろう。私は気になる。

そんな人に見てもらわなくてもいいじゃないか、という考えもあるが、私はそうは思わない。

観客が演劇を選ぶことは出来ても、演劇の方から、観客を選ぶことは出来ないと思うからだ。

 

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