「おらおらでひとりいぐも」七十数歳の造形について
- 2017.12.01 Friday
- 17:45
「小説についての小説」その116
「文藝」2017年冬号に掲載された、若竹千佐子氏の「おらおらでひとりいぐも」を読んだ。第54回文藝賞受賞作だ。
その筆力、東北弁の妙味、発想の自由さなど、圧倒されるものがあった。
どのような小説なのか、選考委員の一人、斎藤美奈子氏の選評を引用させていただく。
『(略)口承文学をも思わせる東北(岩手)の言葉の圧倒的な迫力。「私」でも「桃子」でもない「桃子さん」という三人称と「おら」という一人称が渾然一体となった独特の語り口。息子も娘も独立し、一五年前に夫を亡くした七〇代女性の自問自答。
石牟礼道子や森崎和江をはじめて読んだときの興奮を思い出しました。七〇年代に芽吹いた第二波フェミニズムの達成のひとつと考えて間違いないんじゃないでしょうか。
(略)東京オリンピックの年に上京し、二人の子どもを産み育て、主婦として家族のために生き、夫を送って「おひとりさまの老後」を迎えた桃子さんは、間違いなく戦後の日本女性を凝縮した存在です。』
主人公の年齢については斎藤美奈子氏の選評でも触れていたように、作中「満二十四のときに故郷を離れてかれこれ五十年」と書かれている。
主人公の女性の年齢は、七十数歳なのだが、私は、この作品を読んだときに、その年齢にひっかかるものを覚えた。
まあ百人百色だから、どのような七十数歳の人が居てもおかしくはないのだが、私は、今時の七十数歳にしては、主人公の女性は老人くさ過ぎるように感じるのだ。
小説の冒頭に、主人公の女性が暮らす部屋の描写があるのだが、そこから醸し出されるイメージも、「今」を感じることが出来ない。
例えば、ねずみが、「部屋の隅の床の破れ穴から出たり入ったりかじったりつっついたり」している。
また、「何もかもが古びてあめ色に煮染まったような部屋」にはロープが張られ、いろいろな洋服とともに「干し柿が四連ぶら下がり、その向こうに荒縄で括られた新巻鮭が半身、バランスを失って風もないのに揺れている」のだが、この干し柿や新巻鮭の登場も、老人らしさの表出のための小道具臭さを感じてしまう。
「割れたガラス戸を蜘蛛の巣状にテープで補修した食器棚、隣にある冷蔵庫の扉は子供が貼ったシールを半分はがして断念したに違いない」といった描写もあるが、斎藤美奈子氏が書かれている「二人の子どもを産み育て、主婦として家族のために生き」た女性にしては、(部屋に張ったロープもしかり)生活の工夫や、身についた家事力が感じられない。どうやったらシールをきれいに剥がせるか、暮らしの知恵を持っていそうなものなのに。
主人公の女性の肉体について書かれた部分にも、「そうだろうか?」と疑問を抱いた。例えば、
「何とはなしに手を見る。使い込んだ手である。子供のころ、ばっちゃの手の甲を撫でてさすって引っ張って、おまけにくるんとつねってみたことがある。血管の浮き出た手の甲にへばり付いた厚い皮はびっくりするほどよく伸びた。少しも痛くないと言った、というか痛くない。骨ばって大ぶりのガサガサした手だった。今その手が目の前にある。」
そうだろうか、と思う。「ばっちゃ」の手の甲の描写は素晴らしい。リアルだ。目に浮かぶようだ。しかし、「今その手が目の間にある。」というのはリアルだろうか?
「ばっちゃ」の労働の内容や厳しさが、主人公の女性のそれと同じとは思えない。時代の変化、生活環境の変化もある。「骨ばって大ぶりのガサガサした手」には、相当の労働を積み重ねないと、たとえ成りたくても成れないだろう。
七十を越えれば血管も浮き出てきて、老いや衰えを感じるというのは在り得るとは思う。だが、主人公の女性の祖母の年代の方々が持っていたような「手」。「その手が目の前にある。」と書くのは、短兵急な表現だと思う。
こんな部分もある。
「母さん、買い物たいへんじゃない。持ち重りのするのだけでも私がやってあげようか、と直美がにこやかに言った。
近くのスーパーが閉店してからというもの、買い物カートを引きずっての夏のかんかん照りや、今日のような雨降りの日の買い物は正直たいへんだったから、桃子さんは娘の申し出がうれしかった。」
たしかに、買い物をするために「カートを引きずって」歩いている方を、たくさん見かける。皆さん苦労なさっているのだと感じる。
しかし、七十代の先輩方が、いや、八十を越えても、自転車を走らせて買い物に来ている姿を日々目の当たりにして私としては、「買い物カートを引きずって」という像が、近頃の七十数歳の方々のイメージに繋がらない。
個人差のあることだから、まちまちであるとは思うものの……。
さて、私はいったい何が言いたいのかというと、年齢を七十数歳としている主人公の女性の、造形の仕方が、これでよかったのだろうかと書きたかった。
その精神、心の持ち方ではなく、暮らし方や肉体についての描写・表現が、過去の「おばあさん」像に近く、リアルな、現代の七十代の人間から離れているように感じるのだ。
作者は六十三歳ということだが、七十数歳を想定したときに、どうして、昔の御老人のイメージに寄っていってしまったのだろうか? 六十三歳と七十数歳といえば、ちょうど一回りの差だ。
私は作者より五つ年長で、七十数歳にはもうすぐ手が届くところに居る。だから、七十数歳の人物の造形の仕方に、神経質になるのかもしれない。六十代は言うまでもなく、七十代だって八十代だって、まだまだ元気なんだと思いたいのかもしれない。
「おらおらでひとりいぐも」を読んで感動し、励まされたという方々がいるという話を聞いた。
そういう方々の年齢は、いくつ位なのだろう。
主人公の女性と同じ年代の方が、「おらおらでひとりいぐも」を読んだときに、どのような感想を抱くのだろうか。「あら、いやだ。私、こんなおばあさんじゃないわよ」という反応が出てきやしないだろうか?