高橋源一郎氏の講演の言葉

  • 2019.08.20 Tuesday
  • 19:25

「小説についての小説」その178

 

高橋源一郎氏が6月8日、神奈川近代文学館で「江藤淳になりたかった」と題する講演をおこなった、その記録が「新潮」2019年9月に載っていた。

江藤淳にまつわることを知ることができたというよりも、講演の中の高橋源一郎氏の言葉に感じるものがあって、読んで良かった。

 

僕たちは「昭和の子」ではない

 

高橋源一郎氏は昭和26年生まれだそうだ。私は昭和24年に生まれた。だが、高橋氏は「昭和の子」ではないと言う。それは何故かというと……

 

「吉本(隆明)さんや江藤さんをはじめ、終戦時に十代だった人たちは、戦争の前と後の時代をそれぞれ知っています。この二つを合わせて初めて、昭和史の全体になる。でも、僕たちは書かれたものを通してしか戦争を知らないのです。極論を言うなら、僕たちは『昭和の子』ではない。あくまで、『戦後の子』に過ぎません。」

 

この認識は大事なことのように思う。

戦後すぐに生まれた世代も、もう70歳を超え、「昭和」を代表しているように見えるが、実は、完全に「昭和」を代表しているわけではない。

昭和20年までにあった戦争を、実際に体験しているわけではないので、「昭和」を語る資格は、完全には持っていない。

ただし、私たちの親の世代は戦争を体験しているので、その話を聞いている。生の体験はしていないが、親世代の体験を少しでも伝えていく務めが、私たち世代にはあると思っている。

ただ、「昭和」をすべて知っているような顔は、間違ってもしてはならないと思う。

 

文学とはいつも個人の側に立つものです

 

講演の最後近くで、高橋源一郎氏がこう語っている。

 

「文学とはいつも個人の側に立つものです。僕たちひとりひとりの側に。皆、いつかは必ず死ぬことになる個人です。個人の寂しい感情をかすかに掬い上げるのが文学の役割であり、創作とともにあった大きな声の一つが批評だとしたら、僕たちはいま、その声を失いつつあるのではないでしょうか。僕は今後も、おそらく純粋な形での批評文は書かないでしょうが、自分のすべての作品の中に、江藤さんが支持したであろう『最後に依るべき個人の声』を大切に込めたいと思っています。」

 

この言葉に触れたとき、感動に似たものを覚えた。「かすかに掬い上げる」ことさえ出来るかどうか心もとないけれども、私も、その作業を続けていきたいと思った。

 

 

続・令和4か月目に考えていること

  • 2019.08.18 Sunday
  • 22:28

「小説についての小説」その177

 

宇野重規氏は、『現代世界の陛下たち』(ミネルヴァ書房)の第7章「デモクラシーと君主制」の終わりの「君主制の未来」と題する節で、

「君主やその家族の、一人の人間としての基本的人権もまた問題となっていくであろう。」

と書いている。

 

言葉や言い方は違うは、1947年には発表された、中野重治の小説『五尺の酒』でも、すでに、同趣旨のことが語られている。

語るのは「僕」=中学校の校長先生だ。

 

「つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼らの最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙された個があっただろう。」

 

約70年後の現在は、『五尺の酒』に書かれているのと違って、皇室の人々にも「家庭」や「家族」があるように見受けられるけれども、果たして、皇室の人々が、「個人」として生きていくことが出来ているのだろうか?「個人」としては、だいぶ不自由な思いをしているのではないだろうか、と推測する。

 

そんな風に考えていたところ、「小説トリッパー」2019年のSUMMER号を読んだ。

高山羽根子氏の小説『如何様』が読みたくて買ったのだったが、高山氏の小説のつぎに、高橋源一郎氏の連載評論が載っていて、それも読んだ。『たのしい知識』というタイトルで、SUMMER号はその第1回目、「ぼくらの天皇(憲法)なんだぜ」という題だった。

 

いろいろと興味深いことが書かれていて、ずっと読んでいくと、宇野重規氏の言葉、『五尺の酒』の校長先生の言葉につながることを、高橋源一郎氏も書いている個所に行き当たった。少し長くなりますが引用させていただきます。

 

「ぼくたちは、この社会の中で『人間』として遇されている(たぶん)。そして、ぼくたちには『人権』があるともいわれている。いや、確かに、『憲法』の中に、正確には、十条以降に、ぼくたちの『権利』が書かれている。

 でも、そこには、天皇の『権利』は書かれていない。その代りに、天皇の『役割』だけは書かれている。それが、第1章(一条から八条)の天皇に関する条文だ。

 しかし、ぼくは、ほんとうに思うのだが、人間としての『権利』を奪われている人がいるのに、その人のことを無視していいんだろうか。天皇とは、ぼくたち国民が平和に暮らすために犠牲を強いられるための存在なんだろうか。」

 

そうして高橋源一郎氏は、連載評論第1回目の最後で、坂口安吾が1948年に書いた文章を紹介している。

「天皇陛下にささぐる言葉」という、その文章の一部が引用されていて、その言葉が実に示唆に富んでいるように受け止められた。

本当ならば、坂口安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」の全文を読んでからにしたほうがいいのかもしれないが、孫引きをさせていただきます。

 

「天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすすめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。」

 

坂口安吾のこの文章は、本当に魅力的だ。そんな国になったら、どんなにいいだろうかと思う。

高橋源一郎氏は、坂口安吾の文章の、こんな部分も紹介している。

 

「そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギもしないであろうが、道をゆずってあげるであろう。

 そのとき東京も復興したが、人間も復興したのだ。否、今まで狐憑きだった日本に、始めて、人間が生れ、人間の礼節や、人間の人情や、人間の学問が行われるようになった証拠なのである。」

 

2019年8月の今、日本で起きているいろいろな事件を知るたびに、坂口安吾の言う、狐憑きではない「人間」の誕生も、人間の礼節も、人間の人情も、まだ行われていないと思わざるを得ない。

天皇について、皇室について考えることは、(当たり前のことながら)日本について、国民について考えることなのだろう。

 

君主制とデモクラシーの両立の問題について、少しずつ分かってきたところもあるが、まだいろいろと考えていかなければならないことがあることも分かってきた。

 

 

令和4か月目に考えていること

  • 2019.08.14 Wednesday
  • 20:16

「小説についての小説」その176

 

平成から令和になって、4か月目に入った。

2019年4月までは「平成最後」という言葉が五月蝿かったが、この頃は「令和で初めて」という言い方をよく目にし、よく耳にもする。

そういう世の中の現象はともかく、天皇について、皇室について、よく考えなければならないという思いはずっと持続している。

 

「天皇について、皇室について、よく考えなければならない」と私が思うのは、皇室の人々も私も同じ人間だからだ。同じ人間なのだが、同じ人間ではないようにも見えたり、思えたりする。それは何故なのだろうか? はたして、それでいいのだろうか?……ということで、考え続けることになる。

 

一人で考えていてもラチが明かないので、本を読んだ。

ミネルヴァ書房の『現代世界の陛下たち』(水島治郎・君塚直隆編著)がためになった。

全7章のうち、宇野重規(しげき)という東京大学の教授が書かれている、最後の章「デモクラシーと君主制」が、特に勉強になった。

 

章の冒頭で、

「そもそも、君主制とデモクラシーは両立し得るのだろうか。」

と、宇野重規氏は命題を投げかけているのだが、私が知りたいと思うのも、まさにそのことだった。

氏はこう書いている。

 

「形式的な世襲の君主が存在するとしても、実際の政治的意思決定が、国民の代表者によってなされる場合、けっして非民主的であるとは言われない。その意味では、現代の政治用語において、君主制と民主制は必ずしも矛盾しないのである。」

 

……ということであれば、これにて「一件落着」のようだが、氏は、つぎのように続ける。

 

「とはいえ、だからといって、君主制とデモクラシーの間に、一切の緊張が存在しないとまで断言できるかは微妙である。何より、世襲の君主制は生まれに基づく人間の区別(差別)を前提としている。これに対し、デモクラシーとはトクヴィルを持ち出すまでもなく、人間の平等性に最も重要な基盤をもつ。民主化の歴史とは、それでもなお存在する人間の差別に対する否定の運動であったと言えるだろう。その意味では、君主制とデモクラシーの間には、原理的なレベルにおいて大きな緊張が秘められている。」

 

君主制の前提になっている人間の区別(差別)と、人間の差別を否定するデモクラシーの間には「緊張」が存在していると言うのだ。

この「緊張」は、君主制とデモクラシーが並立している社会に生きている者の感覚としても、非常によく分かる。君主制とデモクラシーのはざまで、ジレンマを感じるのは、日本の社会の仕組みから考えると、当然のことなのだろう。

 

宇野重規氏が、章の終わり近くで、これからの君主制について触れ、その中で、

「君主やその家族の、一人の人間としての基本的人権もまた問題になっていくであろう。」

と述べていて、そのことに注目させられた。

 

「世襲の君主制は生まれに基づく人間の区別(差別)」を前提としている。」……といった記述を読むと、私などは、「皇室の人々と私たち国民の間に横たわる区別・違い」という風に考えてしまう。しかし、国民の一人一人が人間であるのと同じく、皇室の人々もまた人間なのだ。

デモクラシーというのであれば、皇室の人々の基本的人権にも思いをはせなければいけないことになる。

 

そのことについては、最近、ある小説を読んで感じたことでもあった。

長くなるかもしれませんので、それは、つぎにまた書かせていただきます。

中国の人権派弁護士・王全璋氏について

  • 2019.08.09 Friday
  • 17:30

「劇団は今日もこむし・こむさ」その263

 

中国の経済学者や「人権派」と言われる弁護士たちが、軟禁されたり、逮捕されたりしている状況に関心を抱かざるを得ない。

自分の生き方を貫こうとすると、ある種の困難さが伴うのは日本でも同じだが、中国の場合、その困難さの度合いが全く異なる。「いのち」が関わってくるからだ。

 

王全璋(おうぜんしょう)氏の名前が頭に刻まれたのは、ある新聞記事を読んだからだった。2018年1月17日の産経新聞に、矢板明夫氏の「中国点描」というコラムが載っていた。

見出しは、“王全璋氏は今どこに 人権派弁護士拘束2年半…「生きていて」”というものだった。

 

2015年の7月から8月にかけて、中国各地の弁護士や人権活動家が200人以上一斉に拘束された事件があったという。その事件は「闇黒の木曜日」と呼ばれたそうだ。

このとき、王全璋氏(当時41歳)も当局に連行されたのだが、それから2年半が経過したというのに、氏の消息だけが全く不明なのだという。家族が面会を要請しても、弁護士が接見を申し込んでも、警察も司法も無視し続けている、……という記事だった。

 

2018年4月9日、インターネットで、朝日新聞DIGITALの記事を読んだ。(北京=延与光貞という署名があった。)

王全璋氏の妻の、李文足さん(33歳)たちが、氏の裁判が開かれないことに対して、抗議行動を起こした。北京から、王全璋氏が拘束されている天津まで、約120キロの道のりを、10日間かけて歩き通し、抗議の意思を表明しようとしたのだ。

しかし、この、歩き続けることによる抗議活動は、6日目に当局によって阻止されてしまった……、と書かれていた。

 

この、王全璋氏の妻の行動は、2018年7月22日、NHKスペシャルでも取り上げられた。

 

2018年12月27日、“中国人権派弁護士 非公開で初公判”という見出しの新聞記事が出た。(産経新聞、署名は北京=西見由章)

ついに12月26日に、天津市の第2中級人民法院(地裁)で、国家政権転覆罪に問われた王氏の初公判が開かれたのだ。ただし、「国家機密に関わるため」という理由で、審理は公開されなかった。

妻の李氏は天津市に行こうとしたが警察に阻まれ、天津の地裁に集まった支持者たちは拘束された……、と記事にあった。

 

年を越し、今年2019年1月29日、同じく「北京=西見由章」の署名記事が掲載された。

“人権派弁護士に実刑判決”という見出し。初公判から1カ月して、判決が言い渡されたのだ。懲役4年6月、政治的権利剥奪5年という、実刑判決だった。

国家政権転覆罪というが、具体的に、王氏は何をしたと、当局は言うのか?

起訴状を、王氏の関係者が公表したそうで、それによれば……

「王氏は海外の組織から資金提供を受けて人権に関する相談窓口を各地に設置したり、他の弁護士に『政府に対抗する方法』を伝えるなどしたほか、法輪功メンバーの弁護にあたって歪曲した事実をインターネット上に公表、中国の司法制度を攻撃した」ということだった。

 

2019年7月10日、……つい、ひと月前のことだ。

矢板明夫氏のコラム「中国点描」が、同じ新聞に掲載され、それを読んで、私は重い衝撃を受けた。

 

今、王全璋氏は山東省の刑務所に収監されていて、そこで6月28日、氏は4年ぶりに、家族との面会を許可されたそうだ。そのときの様子を矢板氏はこう記述している。

「その変わり果てた様子に家族は驚愕した。王氏の妻、李文足氏によれば、笑みを絶やさぬ温厚な面影はなくなり、目の前に現れた夫は無表情でロボットのようだった。『毎日の食事はおいしいです』などと、当局に渡されたとみられるメモを棒読みし、周りを気にして何かにおびえている様子だったという。

『夫は精神状態をおかしくする薬を飲まされたのだろう』と李氏は推察する。」

 

劇団こむし・こむさは今、第6回公演に向けて稽古を重ねている。

と同時に、台本の担当者でもある私は、併せて、つぎの第7回公演の構想を練ってもいる。

構想を練る中で、ふと、ジャック・ニコルソン主演の映画『カッコーの巣の上で』が心に浮かんできた。自分でも、どういう筋道で、『カッコーの巣の上で』が思い浮かんだのかハッキリとは分からなかったが、この6月、DVDを手に入れ、何十年か振りに見てみた。

 

刑務所で強制労働をさせられるのが嫌で、狂人を装って精神病院に入院してきた男を、ジャック・ニコルソンが見事に演じていた。男はワルだけれども、まことに人間臭く、生き生きとしていて愛嬌がある。だが、映画の最後、男は頭部の手術を受け、生ける屍にされてしまう。

……見た結果、お芝居の構想とは結び付かないことが分かったのだったが、『カッコーの巣の上で』の持つインパクトは、決して古びていないことを再確認することが出来た。

 

『カッコーの巣の上で』がアカデミー賞を受賞したのは1975年度のことだから、44年前の作品ということになる。

44年前にアメリカの映画で表現されたことと、同じようなことが、今、中国の刑務所の中でおこなわれている、という事実に愕然とする。

世界は部分的に少しは進歩しているのだろうけれど、これでは、全く進歩していないのと同じではないかと、悲観的な思いに陥りそうになる。

 

王全璋氏は、2015年の「闇黒の木曜日」、治安当局に連行される1週間前、両親に手紙を書いたそうだ。(矢板明夫氏の、2018年1月17日付「中国点描」)

「あなたたちの息子を信じてください。あなたたちから引き継いだ善良で誠実な生き方を私はこれまでに一度も捨てたことはありませんでした」

 

善良で誠実な生き方をしようにも、その意志を、思考を麻痺させられ、無力化させられてしまっては、もう術がない。

懲役4年6月の間に、当局は王全璋氏をどうしようとしているのか?

人間としての精神を氏から取り上げることは、それこそ犯罪にほかならない。

王全璋氏が、生きて刑務所を出てくることを祈ることしか、私には出来ないのだろうか? そう考えても、出口がなかなか見いだせない。

49年後の解答ー大岡昇平「萌野」

  • 2019.08.02 Friday
  • 16:59

「小説についての小説」その175

 

このブログの「その172」で、「文學界」2019年8月号に掲載された、金井美恵子氏の“特別エッセイ”「首の行方、あるいは……(四)」が、「大変に興味深かった」と書かせていただいた。

 

何が興味深かったのかと言うと、三島由紀夫が1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁、バルコニーで演説したあとで割腹自殺した、……あの行動について、大江健三郎や、大岡昇平や、石原慎太郎など、小説家たちがどのように受け止めてきたのか、追究されていたからだ。

 

1970年の11月、私は21歳で、ある組織の事務局員として働いていた。事務局には若い人が多く働いていた。

その日、三島由紀夫の事件がどのようにして伝わってきたのか記憶にない。とにかく職場で仕事をしている間に、その報がもたらされ、私も知った。

 

事務局は7階建てのビルで、道路から10段くらいの階段を上がり、自動ドアの中に入るとエレベーターと階段があった。

何の用があったのか忘れたが、勤務時間中に私は外出した。エレベーターで1階に降り、自動ドアを通って外に出たところで、階段を昇ってくる同僚の若者とすれ違った。

同僚は深刻な顔つきをしていた。まるで家族の死を知らされた人のようだった。

彼がすれ違いざまに何と言ったのか? 正確には覚えていないが、とにかく「三島由紀夫が死んだ……」という意味のことを言ったので、彼の悲壮な表情の理由が、それでつかめた。

 

21歳の私はすでに三島由紀夫を読んでいた。けっこう読んでいた。

1965年、高校2年生のとき、演劇部の公演で、三島由紀夫の戯曲「邯鄲」を演出した。1968年にも、高校を卒業後、結成した演劇グループで、同じ「邯鄲」を演出・上演した。だから、三島由紀夫の最期は、私にも動揺を与えていた。

階段ですれ違った同僚のように、身近なところに、三島由紀夫の死に衝撃を感じている人が現実に存在した……、それが私の1970年11月25日の記憶として残った。

 

三島由紀夫の行動を、どうとらえればいいのか? ずっと分からなかった。

分からないので、三島由紀夫の作品をひきつづき読みもし、三島由紀夫に関して書かれた本もたくさん読んだ。今でも私の書棚で最も場所をとっているのは、三島由紀夫の作品と、彼に関する書物たちだ。そう、……三島由紀夫の追悼会である「憂国忌」にも何度か出席したこともあった。

 

1970年から49年経った。

そして、「文學界」2019年8月号で、たまたま、金井美恵子氏の「首の行方、あるいは……(四)」と出会い、さらに、その中で引用されていた、大岡昇平のある言葉と出会った。その言葉は、大岡昇平の小説『萌野』からの引用だった。

 

そこで、大岡昇平の『萌野』(講談社)を読んでみなければと思った。

『萌野』は、1972年の4月に大岡昇平がニューヨークに滞在したときのことを、たんたんと(そんな印象を与えるが、実はきちんと計算されているのかもしれない)綴ったものだった。

大岡昇平の息子さんが、日本人の奥さんと結婚して、ニューヨークに暮らしている。奥さんは間もなく出産をする予定で、生まれてくる子供の名前として、若夫婦が考えているのが「萌野(もや)」なのだった。

大岡昇平は「萌野」という名前に反対し、息子さんとの間にぎくしゃくしたものが生じるのだが、小説が終わる頃には元の間柄に戻っていく。

さすが、老練な作家の手によって書かれた小説だと感じさせられた。

 

「三島由紀夫」は少しずつ顔を出す。279ページある小説の、73ページ目に、文学書専門の新古書籍店に勤めるユダヤ人の女性から、三島由紀夫の死について訊かれる場面がある。

大岡昇平はこう答える。

「三島さんとは個人的な交際があったので、いいにくいことが多いのですが、われわれ文学者は彼の政治的な主張にあまり重大性をおいていません。文学者は文学の上で、まだ何かすることがあれば、決して自殺しないと思います」

 

170ページには、川端康成の自殺の報を大岡昇平が知る場面があり、川端康成に対する尊敬の念をあらわしつつ、疑問をも表明している。その中に、三島由紀夫の名前も登場する。

「その後三島由紀夫など三人の作家と共に、中国の文化大革命に伴う言論統制に反対声明を出したり、(一体よその国の家庭の事情に、国交のない国の四人の作家が声明を出すのに何の意味があるんだろう)」

 

そうして、275ページ、小説の(完)まで、あと5ページというところで、「三島由紀夫」がまた出てくる。

金井美恵子氏が「首の行方、あるいは……(四)」で引用し、私を惹きつけた大岡昇平の言葉はそこに在った。その言葉は……

 

「しかし彼の死によって、私の得た教訓は、文学者はやはり言葉を武器とすべきであり、ほかのどんな手段によってもいけない、ということである。」

 

金井美恵子氏のエッセイを読んだとき、この言葉が私の中に、実に自然に入ってきて、私はそれを受容したのだった。

……ということは、三島由紀夫の1970年11月25日の行動を、否定する位置に私が立っているということだった。

三島由紀夫の行動の意味をずっと考えていて、やがて、以前のようには深く考えることもなくなって年月が経過し、2019年の7月、金井美恵子氏のエッセイを通して大岡昇平の言葉に出会ってみたら、そこに、長い疑問の解答が在った……ということになる。

大岡昇平の『萌野』は1973年の6月に出版されている。

46年も前に、すでに大岡昇平が書いている地点に、ようやく私は達した……ということになる。

 

『萌野』を読み、上の、大岡昇平の言葉のあとに、こんな文章が綴られていることを知った。

「私は自殺はしないな、というようなことを考えた。かりに私に自殺的傾向があるにしても、作品の中で私は多くの人物を自殺させている。自己解剖によって、徐々に自殺を遂げつつある。芸術院会員辞退もまた一つの自殺と考えることができる。」

 

金井美恵子氏のエッセイに導かれ、『萌野』を読むことによって、大岡昇平の文学者としての覚悟を目の当たりにしたように感じた。

 

”文化大革命”に惹かれて「ららら科学の子」を読む

  • 2019.08.01 Thursday
  • 16:58

「小説についての小説」その174

 

矢作俊彦『ららら科学の子』(文春文庫)を読もうとしたきっかけは何だったのか、思い出せない。本とか雑誌とか新聞で紹介されていて、目に留まったのかもしれないが、記憶が定かでない。

 

文庫本の表紙の紹介文を読むと……

「男は殺人未遂に問われ、中国に密航した。文化大革命、下放をへて帰還した。『彼』は30年ぶりの日本に何を見たのか。携帯電話に戸惑い、不思議な女子高生に付きまとわれ、変貌した街並をひたすら彷徨する。(後略)」とある。

 

何を見て『ららら科学の子』を読もうと思ったのかは忘れたが、「文化大革命」「下放」という文字が、私を『ららら科学の子』へと誘ったことは確かだ。日本人が「文化大革命」や「下放」と、どのような関わりを持ったのか? そのことに興味を抱いた。

 

主人公の「彼」は30年前、「特定の政治党派」に属してはいなかったが、「運動」に加わっていた。1968年10月21日には、六本木の防衛庁(当時防衛庁は六本木にあった)に突入し、占拠しようとした。

10月21日から1週間後、「白金の学生会館」で寝ていたときに、警察の強制捜査がおこなわれた。「彼」は屋上に逃れた。非常階段の降り口が、大きな金庫で塞がれていた。非常階段の踊り場には機動隊員がいた。「彼」は金庫を非常階段に落とした。

 

「彼」は、殺人未遂で指名手配された。(機動隊員は死ななかったようだ。)

新宿の深夜喫茶で、中国人から密出国を勧められる。

「文化大革命をその目で見てみませんか」「文革に挺身する紅衛兵の青年たちは、あなたがた日本の同志学生と親交を深めたいと思っていますよ」……と。

そうして「彼」は上海に向かったのだが、「罪から逃れたいという気持ち」からでは無かったという。「『国を捨てる』という言葉が真っ先にあった」そうだ。

 

上海で、「彼」は「暁声」という若者と出会った。その「出会い」の場面。

「君に中国革命の偉大な実験を体験させられることを、たいへん嬉しく思うと、十二月、美しい英語で語った青年がいた。暁声という名が印象的だった。心から笑い、固い握手を交わすと彼の手をなかなか放さなかった。夜を徹して話し合い、大いに食い、また飲んだ。」

 

翌年の秋、この「暁声」から、「彼」の「下放」が告げられる。

「君には南方の農村に行ってもらうことになったと、暁声は言った。

 今年のはじめから、わが国のすべての大学は閉鎖された。学校教師ではなく人民から学べというのが、新しい党の方針だ。高等教育を受けた知識青年は、農村で革命の真の担い手から再教育を受けるんだ。」

 

上海から汽車に乗って、四日目の朝に着いた駅でトラックに乗り換えた。

トラックに乗って五日目の日暮れ前に着いた所から、さらに数時間歩いた。そこに、「莫賓」という村があった。

 

「彼」は8人の紅衛兵たちと共に、「莫賓」に「下放」され、きつい農作業を強いられた。

紅衛兵たちはやがて故郷への帰還が許されて、1970年代の終わりには、村に下放青年がいなくなったが、「莫賓」には「彼」と、のちに「彼」の妻になる娘と、その父親が残された。

「村に残ったのは三人だったが、他の二人は奇妙なことに親子だった。紅衛兵ではなく、何かもっと別の権力闘争に敗れて都落ちしてきた人物のようだった。」

 

のちに「彼」の妻になる娘の父親(実は祖父)を、「彼」は「義父」と言い表している。

この「義父」は日本語が話せた。いったい、どのような権力闘争の結果、「莫賓」の村に落ちてきたのか?「彼」は、「下放は、思想教育に名を借りた国内流刑だった。」と言っているが、「義父」が「流刑」されたのは、何故なのか? それが徐々に明らかになっていく。

 

「義父」には、つぎのような来歴があった。

「上海の会社員の家に生まれ、十八歳で日本に留学した。一族は戦後処理で大きく儲け、中国で紡績会社を起こした。しかし北京に人民共和国が樹立され、上海が解放されると、父親は資産を金に換え、香港へ逃げた。兄たちもそれに従った。義父はひとり、それに逆らい、日本から上海へ舞い戻った。」

「義父」が香港に行かず、中国に戻ったのは、「毛沢東に未来を感じていた。」からだった。

 

「義父」は「全財産を政府に供出、見返りに配当金を受け取った。」

「赤い資本家」という「誉め言葉」で呼ばれ、上海市農産事業所所長や、国務院工業省の次官にまで成った。

けれど農業政策でも経済政策でも失敗した毛沢東は、一転して、「赤い資本家」を犯罪者扱いするようになった。文化大革命によって、「義父」は公職から追放され、「莫賓」の村に下放された。

 

小説の終盤で、「義父」によって、意外な事実が明かされてゆく。

「義父」は「彼」に、「暁声という男を覚えているだろうか」と訊く。そして言う。

「あれは、私の息子なんだ。あれが私を告発して、ここへ送り込んだんだよ」

 

息子が父親を下放させた!? ……それには訳があった。「義父」は続ける。

「恨んではいない。あいつが私を真っ先に告発して、自分の取り仕切りで事を進め、ここに送り込まなかったら、私は東北の炭鉱で死んでいただろうよ」

そうなのだった。「莫賓」は、「南の比較的温暖な土地」なのだった。

 

「義父」はさらに、意外な事実を告げる。

のちに「彼」の妻となった娘は、「暁声の娘」なのだと。

「母(=暁声の恋人)は上海大学の学生で、上海では高名な大学教授のひとり娘だった。子供ができて、彼女は親から勘当された。子供は義父が引き取って育てた。」

 

「やがて、文化大革命が始まった。母方の家は、すぐさま打ち倒され、一家は追放された。父母は再教育とは名ばかりの監獄に消えた。

 あの子を産んだ娘は、紅衛兵に引きずり回される途中、トラックから落ちて死んだ。

 あの子は黒五類の孫娘だ。堕落した関係から生まれた子だ。批判が及べば、たとえ年端の行かない子供でも同じ運命だったろう。

 暁声は、それを上手くやり過ごす方法を考えた。早々と義父を批判して、まだ事態が過熱する前にこの村へ追いやった。」

 

暁声が「彼」を「莫賓」の村に下放させたのも、そうしなければ「彼」の身が危なかったからなのかもしれない。

「彼」は、暁声が今も自分のことを覚えているだろうか、と「義父」に尋ねる。すると、「義父」はこう答える。

「もう覚えてはない。二十年も前に死んでしまった」

「事故ですか」と訊くと、

「首をくくったそうだ」と「義父」は言い、溜息をつく。そのあとの「義父」の言葉が、なんとも重い。

 

「毛沢東には気高い理想があった。燃える信念もあった。だが、一九二九年の理想は一九六六年の理想ではない。一九四八年の信念は一九六八年の信念ではない」

 

私は『ららら科学の子』の良い読者では、全く無い。

なぜなら、このように、『ららら科学の子』の部分―文化大革命や下放―にばかり目を向けて読んだからだ。

『ららら科学の子』の世界は、もっと大きく、もっと豊かに読み取ることが出来るのに違いない。

 

思えば、どうして、お隣りの国の文化大革命や天安門事件などについて、いつまでも関心を抱き続けるのだろうか? 

おそらくそれは、よその国の出来事として忘れてはいけない何かが在るからに違いない。

革命や改革や時代の、大きな潮流の中に、人間の真実がふっと見えてくる……それが大切に思えるからなのかもしれない。

 

パラドックス定数による「骨と十字架」を

  • 2019.07.26 Friday
  • 23:27

「お芝居つまみ食い」その280

 

2019年7月11日〜28日

新国立劇場 演劇 2018/2019シーズン

作 野木萌葱、演出 小川絵梨子

『骨と十字架 Keep Walking

新国立劇場小劇場

 

野木萌葱の新作を見ることが出来る! 幾日も前から楽しみにしていた。

野木氏の劇団=パラドックス定数のメンバーによる公演ではなく、新国立劇場がキャスティングした俳優たちによる上演だということを、気にしていなかった。

野木氏自身の演出ではなく、小川絵梨子氏の演出だということも、気にしていなかった。

 

(恥ずかしながら)「新国立劇場」という存在のマジックにかかっていたのかもしれない。

野木氏が「新国立劇場」に求められて、新作を提供したということ。もうそれだけで、「いい作品」「いい公演」という先入主が出来上がってしまっていたのかもしれない。 

 

パラドックス定数の公演では見ることの出来ない、立派な装置(美術 乘峯雅寛)。広々とした空間。近藤芳正、小林隆といった、パラドックス定数の俳優より(たぶん)経験年数の長い役者さんの参加。……良い条件はあったものの、実際の舞台は? というと、パラドックス定数の上演が醸し出す「濃密さ」「切迫感」が欠けていたように感じた。人間という存在の「不可解さ」「恐さ」も感じられなかった。

 

パンフレットに印刷されていた「ものがたり」は、こうだ。

「ローマ、イエズス会本部。テイヤールは、敬虔な司祭として神に身を捧げる一方、古生物学者として人類の進化の道について探求する日々を送っていた。イエズス会は、彼の信仰のあり方に対してキリスト教の教義、神の御言葉に矛盾するものとして、彼の処遇を問題視することになる。テイヤールに科せられたのは、ヨーロッパから遠く離れた北京への赴任だった。」

 

ピエール・テイヤール・ド・シャルダンは実在(1881年〜1955年)した、フランスのカトリックの司祭だそうだ。

彼の、古生物学の研究と信仰のはざまで苦しむ様子が、芝居でも描かれるのだが、どこか(私には)ピンとこなかった。

 

テイヤールが生きた時代よりも、むしろ、神の問題、宗教の問題は、私たち一人ひとりにとって、また世界の安全にとって、切実なものになっている気がする。

世界において、キリスト教が優位な立場を占めていたときと違って、例えば前回このブログでご紹介した『朝のライラック』に描かれていた「イスラーム国」のような存在が、秩序を揺るがせている。「イスラーム国」には「イスラーム国」の神があり、絶対の神と神とが衝突をしている。

 

だから、イエズス会によって危険な思想とみなされ、ローマ教皇庁から、その著作を禁書とされたテイヤールの軌跡を追うことは、その神の問題、宗教の問題に切り込んでいく、非常に現代的なテーマなのだと思う。

 

しかし、新国立劇場の『骨と十字架』からは、どこか、この世界とは別の、古い、もう終わってしまった世界を見させられたような気がしてならなかった。

その原因は、戯曲そのものにあるのだろうか? 演出・演技にあるのだろうか?

 

パラドックス定数の芝居をいくつか(まだ少ないのだけれど)見てきて感じることは、劇団のメンバーたちの演技には高度な集中力があるということだ。視線ひとつ、躰の向きひとつにも神経が行き届いていて、ぶれない。観客はいるのだけれど、観客を意識しているようには見えない。対話・会話の相手に全力を上げて立ち向かうので、そこに緊張感が生まれる。言葉と言葉がしのぎを削る。

 

……というようなことを考えていくと、今回の『骨と十字架』の舞台に、「濃密さ」や「切迫感」が感じられなかった要因は、演出の仕方、演技の方法の違いに在るのかもしれない。

 

上に書いた2人はもちろんのこと、その他の出演者(神農直隆、伊達暁、佐藤祐基)も、上手な俳優さんだと思う。5人がそれぞれに個性的で、力を発揮していたと思う。

近藤芳正の実力は、『斜光』(2017年12月、作 古川健、演出 高橋正徳、草月ホール)を観たときに、思い知らされた。吉展ちゃん事件の犯人を追い詰める刑事を見事に演じ切って、迫力があった。

 

近藤芳正にしろ、小林隆にしろ、とても「上手い」役者さんなのだろう。だから、ちょっとしたところで、観客の笑いを誘うことに長けている。観客が笑ってなごむ箇所が、何回もあった。

あの「笑い」は戯曲にもともと在るものなのか、あるいは演出家の要請であるのか、それとも役者の狙いなのか、……分からない。

私思うに、あの「笑い」は無いほうが良かった。「笑い」によって、フッと、気が抜けていくものがあったような気がする。対立関係が削がれて、舞台が弛緩していく気がした。

 

変に観客を意識せず、一途に役に立ち向かい、野木萌葱のセリフを高い熱量で発する演技こそが、野木作品には向いているような気がする。

その点では、テイヤールの弟子(?)を演じた佐藤祐基の演技がひたむき(変に遊ばない)で、野木作品に合っているように感じた。

 

野木演出による、パラドックス定数の『骨と十字架』を観られたらと思う。

軽妙だが重いー西加奈子「韓国人の女の子」

  • 2019.07.23 Tuesday
  • 15:13

「小説についての小説」その173

 

―西加奈子氏の短編小説『韓国人の女の子』について、書かせていただいています。細かい内容に触れておりますので、これから『韓国人の女の子』をお読みになるご予定の方は、小説を先にお読みください。―

 

「文藝」が2019年秋季号で「韓国・フェミニズム・日本」という特集を組んでいる。

対談やエッセイとともに、短編小説も多く掲載されていて、その中の1編、西加奈子の『韓国人の女の子』がいいと思った。

 

11ページの小説。大阪弁。難しい言葉遣いは無く、全体的に軽い感じがするのに、実は「重かった」。

 

視点人物は40歳の「ハナ」。「結婚をせずに子供を産んだことを書いたエッセイが思いのほか売れ、それからちょこちょこテレビに呼ばれるようになった」エッセイストだ。

 

大学生のとき、「ハナ」は「ガク」と知り合った。

飲み会で酔っ払って、その帰り道で痴漢に遭った。震える手で「ガク」に電話をすると、「ガク」はソアラでやってきて、南港に「ハナ」を連れていく。

そのときの描写がいい。

 

「ソアラを降りても、二人とも何も喋らなかった。東の水平線から太陽が昇ってきて、それはまるっきり馬鹿みたいな明るい光で、私より先にガクが泣いた。」

 

特に「私より先にガクが泣いた。」がいい。どうして泣いたのか分からないけれど、なんだか分かるような気がしてしまうのが、いい。

 

そのあと、2人はどうなったのか?

「そのままガクはうちに来た。そして、帰らなかった。」

「ハナ」が住む、6畳一間のマンションで一緒に暮らすようになる。

 

2人は口が悪かった。愛情を表現するときも、こんな調子だった。

「ハナ好きやでどついたろかこのオメコ。」

「うちも好きやでイテコマしたろかチョン。」

……「ガク」は在日朝鮮人だった。

 

2人はよく喧嘩をした。

「お前に在日の気持ちは絶対に分からん。」

「あんたに女の気持ちは絶対に分からん。」

 

そこで2人は、喧嘩をしないよう、ある「回避策」を編み出す。

「在日の気持ちが絶対に分からない私」と、「女の気持ちが絶対に分からないガク」の中間の存在として、「韓国人の女の子」を設定することにしたのだ。

「慈愛に満ちた微笑み」を浮かべると、それは「韓国人の女の子」になったという合図で、どちらかが「韓国人の女の子」になったら、もう1人も「韓国人の女の子」になるというルールを作って、お互いに争わないようにしたのだ。

 

これで、うまくいくかと思われたが、2人の同棲は1年で終わった。

別れ話のときも、「ハナ」よりも先に、「ガク」のほうが泣きだした。

「お前とおるのしんどい。」……と。

そうして、「ハナ」は大学を辞め、一人で東京に出てきた。

 

……それから20年近く経って、「ハナ」は仕事で大阪に帰ったときに、昔の友達から、「ガク」が結婚をして、「帰化」したということを聞かされる。「私」=「ハナ」は思う。

「ガクが帰化した。

 ガクが日本人になった。

 私たちの間にいたあの『韓国人の女の子』が、いなくなってしまった。」

 

そして、こうも思う。

「私たちは間違っていた。私たちは若かった。

 正直、韓国人の女の子がどういうものか分かっていなかったし(韓流アイドルなんてその頃はまだいなかった)、きっと私たちの振る舞いそれ自体が女性蔑視で外国人差別だった。お互いを『オメコ』『チョン』と呼び、喧嘩の時はそれを盾に罵り合って、都合の悪いことには蓋をした。蓋をし続けた。」

 

しかし、それでは、若い日に、「ハナ」と「ガク」は、いったいどうすればよかったのだろうか?

 

さらに、「私」=「ハナ」はこう考える。

「それでも、今の私には『韓国人の女の子』を作ることは出来ない。その事実だけでもう、あの頃より今の方が間違っているような気がする。」

 

……20年前に、「ハナ」と「ガク」が作り出した「韓国人の女の子」に代わる何かが、今、在り得るのだろうか?

この小説が「軽い」ように見えて「重い」のは、その現実が突きつけられているからなのだろう。

 

「世界最前線の演劇」の成果

  • 2019.07.22 Monday
  • 16:57

「お芝居つまみ食い」その279

 

2019年7月18日〜28日

彩の国さいたま芸術劇場開館25周年記念

世界最前線の演劇 3

さいたまネクスト・シアター

作 ガンナーム・ガンナーム、翻訳 渡辺真帆、演出 眞鍋卓嗣

『朝のライラック』

彩の国さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO

 

「世界最前線の演劇」の1は『ジハード』(ベルギーのイスマエル・サイディ作)、2は『第三世代』(イスラエルのヤエル・ロネン作)だった。

今回の3の『朝のライラック』は、ヨルダンのガンナーム・ガンナームの作品だ。

「世界最前線の演劇」シリーズは、3作品目にして、早くも、「成果」を生み出したように感じた。

 

パンフレットによれば、『朝のライラック』は作者のガンナーム氏が、

「中東のとある町で起きた、若い夫婦が結婚式の衣裳を身にまとい心中した事件に衝撃を受け」

書かれたものだそうだ。

なぜ「若い夫婦が結婚式の衣裳を身にまとい心中」しなければならなかったのか?

 

チラシの「STORY」によれば、こう書かれている。

「舞台は武装組織ダーイシュ(=「イスラーム国」の他称だそうです<野村>)の支配下にある、中東の架空の町テル・カマフ。

 この町に住む夫婦、ドゥハー(「朝」の意)とライラクはともに芸術教師をしている。

 学校は軍事拠点にされ、生徒たちが次々と戦闘に加わり、町が支配の闇に包まれていく中、美しいライラクを手に入れようとする軍司令官と町の長老は、それぞれに非情な選択をドゥハーとライラクに迫る。」

 

観客が入場したときに、舞台には、ひとつの部屋がすでに見えていた。

お芝居が始まると、その部屋に、ドゥハー・ライラク夫妻が、町の長老によって閉じこめられているのだということが分かってくる。

町の長老がやってきて、乱暴狼藉を働く。ドゥハーとライラクがしきりに怯え、苦しむが、その時点ではまだ私には「事の重大さ」がピンと来ないところがあった。

 

ぼやっとした感覚から、呼び覚まされたように感じたのは、武装組織ダーイシュの司令官アブー・バラ―が登場し、その演技に触れてからのことだった。

司令官アブー・バラ―を演じた役者は、そんなに上背がなかった。だが、セリフが明晰で、鋭かった。武装組織ダーイシュの、非人間的な論理を体現した存在として、そこに立っていた。

ドゥハー・ライラク夫妻の未来を抹殺する、容赦のない、宗教に裏打ちされた絶対の思想を持つ「人間」がそこに居た。

 

この時点で、演劇の対立軸が明確になった。

しかし、私が、『朝のライラック』にさらに惹きつけられ、それこそが「演劇」だと感じたのは、その少しあとのことだった。

 

司令官アブー・バラ―はドゥハー・ライラク夫妻を幽閉し、その見張りとして、1人の兵士を残して去る。

その、ダーイシュの兵士が、実はドゥハーのかつての教え子=フムードだと分かったところから、物語はグンと深いところに分け入ったように思えた。

 

両親をダーイシュに殺されたにも関わらず、今はダーイシュの兵士として生きざるを得ないでいるフムード。

ドゥハーとライラクの見張りを命じられたということは、ドゥハー・ライラクが逃亡を企てようとすれば、夫婦を銃で撃たなければならないということだ。

敵対したくない相手と、敵対しなければならない状況に置かれた者の苦悩。

ここで、『朝のライラク』は、ドゥハー・ライラク夫妻のドラマだけではなく、フムードのドラマにもなっていく。

フムードが選んだ途は……? 彼は、夫妻の頭に黒い袋をかぶせ、引っ立てていく。

 

ここで、舞台装置が転換する。

 

フムードが夫妻を連れて行ったのは、あの軍司令官アブー・バラ―が拠点にしている学校内の劇場(講堂?)だった。そこは、かつてドゥハーがフムードに演劇を教えた場所でもあった。

黒い袋をとった夫妻は驚く。なにしろ、軍事拠点の只中に連れてこられたのだから。

しかし、フムードには考えがあった。灯台もと暗し。まさか、こんな場所に潜んでいるとはダーイシュも思わない。だから、ここのほうが安全なのだと言うのだ。

フムードは夫妻と敵対する立場には立たなかった!

 

フムードは、北の方角にある重要な施設を、自爆テロで破壊し、死ぬつもりだと夫妻に打ち明ける。

そうすれば、南の方角の警備が手薄になる。だから、南に向かって逃げるようにと、夫妻に勧めるのだ。

 

夫妻はフムードが自爆テロをおこなうことに反対する。

そして、ドゥハー・ライラック夫妻が採ったのは、互いに互いの手首にナイフをあて、出血死していく途だった……。

 

 

私は、今回の公演で2人の俳優に注目した。

軍司令官を演じた堀源起と、フムードを演じた竪山隼太の2人だ。

 

堀源起の演技についてはすでに触れたが、竪山隼太の「セリフ」もいいと感じた。

『朝のライラック』はガンナーム・ガンナーム氏のオリジナルから、詩的なセリフだったのかもしれない。美しい言いまわしが日本の上演台本にもあって、役者さんによっては、そのセリフをモノにし切れない難しさがあったように、舞台を見ていて感じた。

だが、竪山隼太のセリフは、フムードの内面から発せられていて、強く惹きつけるものがあった。

 

お芝居が終わって、役者さんが舞台に並びお辞儀をした。

私は、もっと、もっと拍手をしていたかったが、役者さんは1度お辞儀をしただけで、もう出てこなかった。残念だった。

「文學界」2019年8月号のエッセー

  • 2019.07.18 Thursday
  • 15:03

「小説についての小説」その172

 

文芸雑誌を読む愉しさは、もちろん小説が読めるからだが、エッセーを読めることも、その魅力の一つだ。「文學界」2019年8月号を読んでいて、「これは」と思うエッセーに幾つか出会った。

 

石倉真帆という方のエッセーの題名は、「向田さん、野坂さん、U.S.A.」だった。

「向田さん」?「野坂さん」?「U.S.A.」?……どういう取り合わせなのだろう、と思った。

 

「昨年、ダパンプの『U.S.A.』が大ヒットした。老若男女、振り付けを真似して盛り上がる姿が普段Jポップに関心がなくとも見ていて楽しいものである。」……という書き出しだった。

 

書き出しに続けて、石倉真帆氏は「しかし私は胸が苦しく哀しかった。」と記している。

どうして「胸が苦しく哀しかった」のかというと、向田邦子と野坂昭如の作品が思い出されたからだった。

空襲体験が綴られた向田邦子の随筆。銃後の人々の死を描いた野坂昭如の小説。

向田さん、野坂さん、「ご存命ならどのような心持になられただろうか。私はこの歌を耳にするたびそればかり気になった。」と石倉氏は書いていた。

「ダパンプや楽しんでいる人達を批判する気は全くない」けれど。

 

私はといえば、……テレビで、みんなが一緒に踊っているのを何度か目にしたが、石倉氏のように深く考えることはなかった。

氏はどういう人なのかと思って、巻末の「執筆者紹介」の欄を見てみたら、なんと、ついこの間『そこどけあほが通るさかい』で群像新人文学賞をとった人だった。『そこどけあほが通るさかい』については、このブログでも書いていたのに、名前を失念していた。(耄碌)

 

 

三国三千子氏は「2019年からの手紙」と題するエッセーを書いていた。

「私はシンパではない。

 これを私はまず申し上げたい。特定の政党や、宗教、団体などを後押しする者ではない。」

と断った上で、宮本百合子の『伸子』を愛読してきた、と述べていた。

 

三国氏は『伸子』(1924年〜1926年、「改造」に発表された長編小説)について、紹介したのち、こう書いていた。

「家庭というもの、社会、いや世間というものにおける「女」のあり方が宮本百合子以来何か変化し、前むきなものとして進歩したのか。男に同等に並ぶという意味ではなく、女として、もちろん男も、男女の区分けに入れてくれるなという人々もぜんぶが、生きる時に生じる困難が、幾分ゆるやかになったのだろうか。今、2019年に生きる私は疑問に思う。」

 

文芸雑誌で宮本百合子の名前を目にすることはあまり無いことなので、少しばかりの「驚き」があった。しかし、三国三千子氏も言うように、宮本百合子の仕事は、その属した党派が何であろうと、評価すべきものは評価すべき作家だと私も考える。

40年以上も前に『伸子』『二つの庭』『道標』などを読んだことを思い出した。調べたら、それらの古い本が書棚にまだ在った。湯浅芳子の『百合子の手紙』と題する往復書簡まで在った。今のところ読み返す予定は無いが、いつか読み返す日が来るような気がする。

 

 

もう1編、金井美恵子氏が「首の行方、あるいは……(四)」というエッセーで、三島由紀夫について書かれていたのが、大変に興味深かった。

「首の行方」という言葉から、すぐ連想される、三島由紀夫が1970年に起こした行動。

あの行動を、大江健三郎、大岡昇平、石原慎太郎……など、文学者たちが、どのように受け止めてきたのか、追究してくれていた。

……このことについては、日をあらためて書かせていただきます。

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