占領時代の匂いー斎藤憐「ムーランルージュ」

  • 2017.06.05 Monday
  • 20:21

「劇団は今日もこむし・こむさ」その190

 

このブログの「その187」に、俳優座演劇研究所の修了公演を見にでかけたことを書きました。

演目は斎藤憐の「ムーランルージュ」。戦後すぐ、進駐軍が日本をまだ占領していた頃の話で、書かれたセリフにはその時代の雰囲気を伝える言葉がちりばめられているのに、研究生たちの演技からは、当時の匂いのようなものが感じられませんでした。

戦後すぐの頃の匂いを、若い研究生ばかりが出演する舞台に要求するのは酷だったかもしれませんが、私は休憩時間に会場を失礼してきてしまいました。

 

その後、戯曲「ムーランルージュ」(而立書房、1988年発行)を読み、敗戦時の日本の状況や日本人の様子をいろいろと知ることが出来ました。「ああ、そうだったのか」と響いてきたセリフが沢山ありました。

その中のいくつかを挙げてみたいと思います。

 

ひとつは「飢え」です。

ムーランルージュの踊り子・冬子がこんな風に言います。

“そやろ。一杯のお粥も食べられへん子供たちが「生きたい」言いながら毎晩死んでんのに、死にたい奴に飯食わせたら道理が通らへん。”

この子供たちとは戦争孤児なのかもしれません。

 

飢えているのは、ムーランルージュの踊り子たちも同じです。

ナナ子は踊ったあと倒れてしまいます。ムーランルージュの役者・北川が、“大丈夫か、ナナ子。”と声をかけると、ナナ子は、“大丈夫、ちょっと目眩が。”と答えます。

すると、やはり踊り子の園子が、こう言います。

“ろくなもの食べてないからよ。”

別にナナ子はダイエットをしているわけではありません。

 

毎日死んでいくのは子供だけではありません。

倉庫に忍び込んでいた復員兵を助けようとして、冬子が支配人の東條に言います。

“な、あの人、放り出したら、地下道で凍え死んでしまうわ。”

東條はこう応えます。

“馬鹿、この新宿だけで毎日百人行き倒れが出てるんだ。いちいちかまってられるか。”

死因は「飢え」だけではなく、病気や寒さもあったことでしょう。

 

当時の日本人が「占領」をどのように受け止めていたのか? その点も知ることができます。

「ムーランルージュ」には、太宰治の戯曲「冬の花火」に関するエピソードが、それとなく紹介されています。

新派が上演を申し入れたが、「CIE民間情報教育局が新橋演舞場での上演を不許可にした」こと、また、雑誌(1946年6月「展望」)に発表する段階で検閲を受け、セリフも切られたことが、登場人物たちの会話の中で明かされます。

冒頭の数枝という女性の、

“負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに”

というセリフの、「日本の国の」以下がカットされたのです。

「占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜」になった。痛烈な言葉です。

 

ムーランルージュの文芸部のリーダーの河西は、CIEの職員である日系人のジェシーに誘われて、進駐軍のCIE(民間情報教育局)で、日本人が書いた手紙を翻訳する仕事を始めます。始めたものの、やがてCIEを辞めたいとジェシーに伝えます。そのときの河西のセリフ。

“月に二千万通の封書のうち、四百万通を開けて読んだ。GHQが懸念した日本語簡略化への批判もアメリカ製憲法についても、批判はおろか触れられてる手紙を見つけることさえできない。”

“ディーン課長は言う。歴史上、軍隊が他国を占領したら、かならずレジスタンスが組織される。反米闘争を呼びかける手紙があるはずだ。お前らは反米分子の手紙を隠しているんだろうって。(首を振って)一通もない。そんな日本が恥ずかしい。”

“あるのは生活が苦しいって愚痴、泣き言ばかり。”

本当のことだろうかと疑いたくなりますが、「日本語簡略化」や「アメリカ製憲法」について、批判はおろか触れている手紙もなかったというのですから、「反米闘争」などもってのほか、ということでしょうか。

 

CIE職員のジェシーのこんなセリフも、皮肉がきいています。曰く、

“……私たちは日本人に人種差別はいけないと言い続けてきました。しかし、GHQでもアーニー・パイルでも、トイレはカラードと白人は別です。”

(アーニー・パイルとは進駐軍に接収された東京宝塚劇場の、当時の名前です。)

 

私はかねてから、現在の日本人に、自分は「有色人種」だという意識がどれくらいあるのだろうか? と疑問を抱いています。

歴史始まって以来、日本人は白人と同じ地位にいるかのように、錯覚している日本人が多いのではないかと思っています。

もし仮に今、日本人がかつてのように白人から差別を受けず、それなりに尊重される位置に立っているのだとすれば、それは広島で、長崎で、東京大空襲で、日本各地で、「黄色い猿」として無残に殺されていった先人たちのお蔭であると思います。

 

そうして、「ムーランルージュ」で興味深いのは、敗戦後の日本人が、あの戦争をどうとらえていたか、という点です。

「ムーランルージュ」には劇場の大道具を担当している、佃という棟梁が登場します。ほかの登場人物たちよりも、おそらく年長で、職人かたぎの人物に思えます。この佃が、ときどき面白いセリフを吐きます。(この役は上手く演じたら、もうけ役になると思います。)

 

例えば……、役者・北川が、

“軍部は日の丸掲げて、民衆を侵略戦争に送り出したんですからね。”

といった、今の時代でもよく聞かれるようなセリフを言うと、それに応えて、佃はこんな風に言ったりします。

“ねえ、今んなってああこう言ってるけど、あっしらみんなで戦争をやったんだから。”

あっしゃシンガポールが陥落したとき心底うれしかった。あっしと一緒に日の丸振ってた人たち、あの人たちみーんな心の底では戦が嫌だと思ってたんでしょうかね。”

 

佃は戦争中の庶民を代表するような役回りでこのお芝居に登場しているようですが、庶民らしく、案外「覚めた」部分も持っています。

文芸部の川西が、“みんなで防空壕掘って、竹槍訓練して。”と言うと、佃はこう返すのです。

“はは。B29に向かって、火叩きだ、鳶口だって、『め組の喧嘩』じゃないんだから。”

 

「ムーランルージュ」には、ニューギニアから帰還した男も登場します。ムーランルージュで構成作家をやっていた下向です。

下向は、“日本は進駐軍の力で旧体制から解放されて自由を手に入れた。”という北川の言葉を聞いて、

“外国の軍隊に占領されて自由になった? そんな話、聞いたことがない。”

と言います。

 

また、北川に、“お前はアジアの国々を真面目に侵略したわけだ。”と言われ、こう応えます。

“南の島で死んだ兵隊たちはまったくの犬死にだって言うのか。”

“もういい。俺は……戦友たちがみんな死んで……生き残っちまったことが後ろめたい。”

 

大道具の棟梁・佃のような、また、帰還兵・下向のような声は、現代においては、直接聞くことはできません。

だからこそ、小説や、戯曲として遺されたものの中に生きている、当時の人々の一色ではない思いを、汲み取っていくことが大切なのだろうと思います。

 

このように戦争後の世の中と人々をリアルに描いている「ムーランルージュ」の作者は、当時何歳くらいだったのだろうかと思い、調べてみました。

斎藤憐は1940年生まれでした。敗戦の年、5歳だったことになります。進駐軍の占領が終わったのが、その7年後ですから、斎藤憐が12歳のときになります。

幼いとき、米国が日本を占領していた時代の空気をじかに吸っていたことが、戯曲「ムーランルージュ」に漂う戦後日本の匂いの素になっているのだと感じました。

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  • 2019.09.18 Wednesday
  • 20:21
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    コメント
    ブログ拝見して斎藤憐氏に対する漠然としたイメージは、
    私の勝手な思い込みで、実際の人物とは違う可能性が高い
    様な気がしてきました。
    • poetryman
    • 2018/02/27 10:30 PM
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