小説と「読む戯曲」の合体ー「ひかりごけ」

  • 2018.08.03 Friday
  • 22:03

「小説についての小説」その142

 

武田泰淳の小説「ひかりごけ」を読んだのは、1973年だった。(新潮文庫『ひかりごけ・海肌の匂い』所収)

40数年ぶりに、また読んでみた。

 

1973年に読んだときは、おそらく、人が人を食べるという、その重いテーマを、どのようにとらえればよいか、「ひかりごけ」を読むことによって、つかみたかったのだと思う。

そのテーマについて、私の中ですでに解決したというわけではないが、今回40数年ぶりに読んだのは、「ひかりごけ」が変わった構造の小説で、何故、そのような構造をもった小説を武田泰淳が書いたのか、その訳を知ることができればと思ったからだった。

 

「ひかりごけ」は、文庫本で、55ページの小説だ。

そのうち22ページまでは、普通の小説のような書き方で進んでいく。

だが、22ページ目の中程から、戯曲になっていくのだ。

戯曲の第一幕目が21ページくらいに亘って書かれ、そのあと、第二幕目が13ページくらい書かれる。

最後は、第二幕の幕が「しずかに下りる」という言葉で終わる。

小説で始まった小説が、戯曲で終わるのだ。

 

小説のはじまり、「私」は「羅臼」の村を訪れる。

「私」が村の中学校の校長からいろいろな話を聞いた中に、「ペキン岬の惨劇」の話があった。

「私」は、校長の紹介でS青年に会い、Sが編纂した「羅臼村郷土史」を譲りうける。その中に、難破船の船長の、人喰事件の記述があった。

 

その記述とは…… 

昭和19年12月、船団「暁部隊」が根室港を出帆。

第五清神丸(乗組員は船長以下7名)が、羅臼北方の海上で、機関部に故障を生じて航行不能になった。乗組員は海に入り、吹雪の波打ち際に打ち上げられる。

 

昭和20年の2月、船長が、羅臼から21キロ離れたルシヤに姿を現わす。

船長の自白によると、冬期は使用されずにいる漁民の小屋に、船長と西川だけがたどりついた。

西川の死後、「しかし私とても食物は一切ありません。結局は西川君と同様、死を以て終らなければならぬのだと考えた時、むらむらと野獣のような気持が燃え上り」船長は西川の肉を食べた。

 

S青年は、事件についての記述のあとに、「推理小説的な想像」を付け加えていた。

〇 「西川と船長は、ついに発見されなかった三名の船員の死体を食用に供したこと。」(漁民の小屋にたどりついたのは、西川と船長だけではなく、ほかに3人いた。西川と船長は、その3人の肉を食べたのではないかということ)

〇 もう一つの想像は、「船長が西川を殺害したこと。」

 

「私」は北海道旅行から帰ってきて、「この事件をどのような形式の小説の皿に盛り上げたらよいのか」迷う。

「この事件には、私たちに、サルトルの嘔気とはちがった意味の、嘔気をもよおさせる何物かがあります。あまりにも重苦しい象徴、あまりにも色彩鮮明な危険信号、あまりにもコントラバスの効いた低音部の重圧があります。」

 

そして、小説が始まって22ページ目、武田泰淳は、「読者にはあまり歓迎されそうにない題材に、何とかして文学的表現を与え」るために、「私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案」した、と書く。

 

どうして戯曲として表現するかというと、「それは、『読む戯曲』という形式が、あまりリアリズムのきゅうくつさに縛られることなく、つまりあまり生まなましくないやり方で、読者それぞれの生活感情と、無数の路を通って、それとなく結びつくことができるからです。」としている。

 

そして、読者に対して、「この上演不可能な『戯曲』の読者が、読者であると同時に、めいめい自己流の演出者のつもりになってくれるといいのですが。」と、要請をしたのち、戯曲の部分が始まっていく。

 

第一幕は「マッカウス洞窟の場」、登場人物は「船長、船員西川、船員八蔵、船員五助」の4人。

 

まずはじめに、五助が死ぬ。

五助の肉を八蔵は食べない。船長と西川は食べた。

五助の肉を食べた西川の「首のうしろに、仏像の光背のごとき光の輪が、緑金色の光を放つ」。

その光を見て、八蔵が言う。「昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと。」

 

つぎに八蔵が死ぬ。

西川は、八蔵のつぎに自分が死ねば、船長が自分を食べるだろうと考える。

「おら、海にはまって死ぬだ。おめえの手のとどかねえところで、死ぬだ。」

西川は、洞窟を去って行こうとする。

「おめえに喰わせるくれえなら、フカに喰わせるだ。」

そう言って出ていった西川を、船長が追っていく。

……やがて、船長が戻ってくる。西川の屍をひきずって。

 

第二幕は「法廷の場」、時は「第一場より六カ月を経過せる晩春の一日。」

登場人物は、「船長、判事、検事、弁護士等、一般の法廷に必要なる諸人物、及び傍聴人。」

 

第二幕は、ほとんど、船長と検事の対話から成り立っている。

この幕で、最も印象的な場面。

船長が、検事に向かって、こう言う。

「あなた方と私は、はっきり区別ができますよ。私の首のうしろには、光の輪が著いているんですよ。よく見て下さい。よく見ればすぐに見えますよ。これが証拠なんですから。」

 

この船長のセリフのあとの、ト書きは、意外なものだ。

「検事の首のうしろに光の輪が点る。次々に、裁判長、弁護士、傍聴の男女にも光の輪が著く。互いに誰も、それに気づかない。群集は光の輪を著けたまま、依然として右往左往する。」

 

今回「ひかりごけ」を読み直してみて、なぜ武田泰淳が、小説の後半部分を「読む戯曲」にしたのか、分かる気がした。

そのポイントは、「ひかりごけ」のように光る「光の輪」にあるのではないだろうか。

 

もし、「人の肉を食べた人間の首のうしろには光の輪が出る」というモチーフを、普通のリアルな小説の中で使って書いたとしたら、その小説は、おとぎ話や寓話めいたものになってしまう気がする。

(現代ならばファンタジー小説という分野もあるようなので、そのような小説として書くことも可能かもしれない。)

武田泰淳は、「『読む戯曲』という形式」は、「あまりリアリズムのきゅうくつさに縛られること」がないので、戯曲として表現することにした、と作中に書いていた。

その、リアリズムのきゅうくつさに縛られないやり方というのが、「光の輪」なのではないだろうか。

演劇であれば、「光の輪」を一つの演劇的な表現として効果的に使用し、観客(読者)に訴えかけることができる。現実の世界ではありえないことも、演劇の世界では存在させることが出来る。

 

武田泰淳は1954年に「ひかりごけ」を書いた。

作者は、小説中の戯曲を「この上演不可能な『戯曲』」と言っているが、現在でもやはり、この戯曲は上演不可能だろうか?

おそらく1954年当時、「光の輪」を陳腐なものではなく、自然なものとして、舞台上に創り出すことが難しく思われたのではないだろうか。そのため、上演不可能と考えたのだと思うが、現代の照明の技術でも、やっぱり「光の輪」を創り出すのは難しいだろうか。

「ひかりごけ」の光とともに、人々の首のうしろに浮かぶ「光の輪」を、「読む戯曲」としてではなく、実際の舞台でも見てみたい気がする。

 

また、「ひかりごけ」は、「読む戯曲」を小説の中に取り込んで、創り上げた成功例であると今回感じたが、このように、戯曲と小説を合体させたり、融合させたりする自由な実験は、いろいろと試みる価値があるのではないかとも思った。

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