高橋弘希「送り火」の”都会”と”地方”

  • 2018.08.13 Monday
  • 17:05

「小説についての小説」その143

 

第159回芥川賞は高橋弘希氏の『送り火』に決まった。

『送り火』が「文學界」2018年5月号に発表されたとき、私は読み始めたものの、数ページ読んだところで止めてしまっていた。

 

自分が読み通せずに終わった作品が、高名な文学賞を受賞したと知って、(だらしないことかもしれないが)もう一度読んでみようと思った。

 

主人公の「歩」は中学3年生、父親の転勤に伴って、東京から、津軽地方の山の中の集落に引っ越す。学校は第三中学校、同学年の男子生徒は「歩」を入れて6名しかいない。

委員決めが行われ、「晃」が学級委員長になり、転校生の「歩」が副委員長になった。

 

男子生徒たちをしきっているのは「晃」で、いじめの標的になっているのが「稔」だ。

「稔」は暴力を受け、缶ジュースやスナック菓子も買いに行かされる。

 

「1」〜「4」の章があり、「1」〜「3」の部分で語られてきたあれこれが、「4」の部分で集約され、明確化されるという構成になっている。

 

「4」で、「歩」は森の中の空間に連れていかれる。

そこには第三中学校の先輩の男たちと、第三中学校の3年生の男子たちが居た。

「晃の左瞼は紫色に腫れ上がり、唇の端には血痕が滲んでいた。」

男子生徒のリーダーである「晃」は、先輩の男たちに制裁を受けたのだろうか、すでに傷を負っている。

 

先輩の男は、かつて第三中学校で行われていたという「サーカス」という「遊戯」をする者を選べと、後輩たちに言う。

「サーカス」とは、縄で後手に縛り上げられ、駆けていって、直径60センチのボールに飛び乗る、というもの。

実は、今リーダーとして君臨している「晃」が、2年前、中学1年生のとき、上級生たちにいじめられ、「サーカス」をさせられていたということを、「歩」は知る。

 

しかし、今、常にいじめの標的になり、犠牲になるのは、「稔」だった。

「稔」は手を縛られ、助走し、ボールに飛び乗ろうとして失敗し、転倒する。……繰り返し、繰り返し。その結果、

「稔の左右の眼窩はテニスボール程にも腫れ上がり、もう顔貌が変わっていた。その赤紫色に脹れた瞼から、絶え間なく生血が染み出している。」

……それでも終わらない。さらに、陰惨な状態に陥っていく。

 

だが、ここに至って、ついに「稔」が反撃に出る。

どういう加減でか、「稔」の腕を縛っていた縄が解け、「稔」は持っていた刃物を取り出して、先輩の男の頸筋を切ったのだ。

それを見た「晃」は、「鳥の叫喚を上げ」、その場から逃げ出していく。

「歩」は、その「晃の突然の逃走の意味を理解」する。「晃は稔の復讐に怯え、子供のように泣き喚きながら逃げていった。あの男は学級のリーダーではなく、ただの弱虫の虐められっ子だったのだ。」

 

つぎに「稔」が凶器を手にして向かってきたのは、なんと「歩」だった。

「歩」はその事態の展開が理解できない。「歩」は叫ぶ。

「僕は晃じゃない! 晃ならとっくに森の外へ逃げてるんだよ!」

それに対する「稔」の言葉は意外なものだった。

「わだっきゃ最初っから、おめぇが一番ムガついでだじゃ!」

 

『送り火』はすでに文芸春秋から単行本として出版されている。

その書評を倉本さおりという書評家が新聞に書いているのを読んだ。(産経、2018年8月5日)

 

倉本氏は、主人公である「歩」について、厳しい見方をしている。

「歩は頭の良い子供だ。転勤族ゆえに場の空気を読むことに長け、物事を俯瞰しながら客観的にふるまう。だが俯瞰とはそもそも危うい言葉でもある。すなわち、高いところから見おろす――歩自身は無害で公平な立場を担っているつもりでいるが、その「視線」こそがある種の暴力であったことに読者はクライマックスで気づかされるのだ。」

 

中学3年生で転校していった、津軽の山の中の学校。少人数の学級集団の中に突然入りこむことになった少年に対して、その要求はあまりに高いのではないだろうか?

場の空気を読もうとするのは当然だし、一方に偏らずに、物事を俯瞰しようとするのも仕方のないことだし、客観的にふるまうことも、そこで生活していくためには必要なことだ。

 

これが、東京の中央線沿線に住んでいた少年が、津軽の山の中の中学校に転校していくのではなく、反対に、津軽の山の中で暮らしていた少年が、東京の区立中学校に転校していった場合でも、同じように厳しく言われてしまうのだろうか。

新しい環境の中で、できるだけ「無害で公平な立場」を維持して、知らない生徒集団に馴染み、その中で何とか生活していこうとすることに対して、それは「高いところから見おろす」視線だとされるのだろうか。

 

もし、「歩」の姿勢を批判するのなら、横暴なリーダーとしてふるまう「晃」の行動を抑制できず、「稔」にいじめと犠牲を集中させ続けている、ほかの男子生徒はどうなのだろう?

女子生徒たちはどうなのだろう? 教員たちはどうなのだろう? 親たちはどうなのだろう? 集落の大人たちはどうなのだろう?

知らなかったと言うのだろうか。少なくとも、女子生徒たち・教員たちのうちの誰かは、きっと知っていたはずだ。 

 

倉本氏は続けて、こう書いている。

「都会から来た者が地方へ向ける身勝手な感傷と蔑視。当事者であることを引き受けない態度。読者は歩の視点からつづられてきた美しい情景のすべてを無責任に消費していたことを思い知る。」

 

ここにもまた、先に引用した倉本氏の文章と同じ、ある視点がうかがえる。

「都会」と「地方」を並べ、一方を良しとし、一方に疑問符を付け、記述しているように見受けられる。

「読者は歩の視点からつづられてきた美しい情景のすべてを無責任に消費していた」と倉本氏は書いているが、作者の、津軽の山の中の情景の描写は、単純に「美しい」ものではない。表面的にはそう見えるかもしれないが、作者はもっとリアルな目でとらえているように思う。

 

おそらく、作者も、「都会」と「地方」を対立的にとらえてはいないような気がする。

それは、『送り火』の最終段落からも、分かるように思う。

 

「焔と河の畔には、三体の巨大な藁人形が置かれていた。一つの影が、松明の炎を藁人形の頭部へと掲げる。藁人形の頭が燃え盛り、無数の火の粉が山の淵の闇へと吸われていく。それは習わしに違いないが、しかし灯籠流しではなく、三人のうちの最初の一人の人間を、手始めに焼き殺しているようにしか見えない。」

 

祭りで、藁人形を焼くことを、一人の人間を「焼き殺しているようにしか見えない」、そう表現している作者の「地方」に対する思いには、複雑なものがあるのではないだろうか。

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