「美しい顔」−作者の意志に学ぶ

  • 2019.05.22 Wednesday
  • 16:24

「小説についての小説」その165

 

北条裕子の『美しい顔』は2018年の群像新人文学賞を受賞した。そのとき私は、受賞作が発表された「群像」を購入して読むことをしなかった。

『美しい顔』に「盗用問題」が持ち上がり、ノミネートされた芥川賞を果たして受賞できるのだろうかと、周囲でも話題になっていた。……芥川賞は高橋弘希の『送り火』が受賞した。

 

2019年の4月に単行本『美しい顔』が講談社から出版されたのを知って、読んでみることにした。

小説のラストの場面の2ページあとに「著者」の言葉が載っていた。そこに、

「参考文献の扱いについて熟慮し、単行本化に際して自身の表現として本作を改稿しました。」とあった。

だから、「群像」に掲載されたときと、いくぶんか違う部分があるのだろう……。

 

私にとって『美しい顔』は初めて読む小説なので、新しい作品を読むのと同じ気持ちで読み始めた。

読み始めてすぐに、読者として後戻りできない気持ちになった。

「かわいそうを撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。どのように持って帰ってもタダか。この男も、マスコミも、みんなそうだ。みんな金を払え。……」

言葉が言葉を呼んで、前に進んでいく。後戻りしないで、私も言葉を追って、前に進んでいくしかない気持ちになった。

 

また、作者が被災地に実際に足を運ばずに、この作品を書いたことが話題になったが(その代わり資料は読んでいたので、そこから「盗用問題」が起きてしまった)、そのような創作方法を採って、あの「3月11日」を小説として描こうとした、その意志のようなものを、実際に小説を読んでいて、強く感じた。

もちろん誰もが「3月11日」を作品化しなければならないということは無い。「3月11日」を作品化しないことが、意志である場合もある。

けれど、なまはんかな気持ちではとらえられない大きな問題を、自分の言葉だけで描き切ろうという意志を持ち、現実に『美しい顔』という作品として世の中に提示した、その行動は、ただの思いつきやアイデアとは別種のものだ。ちょっとしたひらめきだけでは『美しい顔』のような作品は創り出せないと感じた。

 

私は『美しい顔』を読みながら、緊張感のようなものに縛られていた。それは作者の言葉、文章が私にそうさせていたものだった。……あるときまでは。

『美しい顔』を読み終わった今、緊張感が持続して、抵抗なく、作者にひっぱられていったのは、どこまでなのかハッキリ分かる。それは単行本でいうと、120ページの3行目までだった。

 

『美しい顔』の主人公は女子高校生で、幼い弟は助けることが出来たのだが、母親を津波で失ってしまった。同じ避難所に、亡くなったお母さんの、中学時代からの友達がいて、主人公の女子高校生はその人を「奥さん」と呼んでいる。

 

120ページ以降、まず綴られていくのは、「3月11日」ではなく、それ以前に「奥さん」が交通事故で亡くした息子の話だった。

「奥さん」は事故で意識不明になり、意識が戻ったとき、息子の遺体はすでに火葬されたあとだった。そのことが「許せなかった」と「奥さん」は語る。何故許せないのかというと、

「私はあの子の姿を見て、抱きしめなければならなかった」からだ、と言うのだ。

「夫は私に息子と会わせるべきだった。あの子の遺体を冷凍保存してでも私に見せるべきだった。」……と。

 

小説では、多くの言葉を尽くして「奥さん」は語っているので、その「奥さん」の思いに同意する方もおられるかもしれないが、現実の問題として、ずいぶん無理なことを旦那さんに要求する女性だなと私などは思ってしまった。

 

女子高校生とその弟のお母さんの遺体は、すでに発見されて、小学校の校舎に安置されている。女子高校生自身はお母さんの遺体と対面を果たしているのだが、彼女は、まだ弟に、お母さんと対面させていなかった。

「奥さん」の長い話は、女子高校生に、弟とお母さんの対面をうながすためのものなのだとは理解できるのだが、この辺りから、それまで私に緊張感を持たせ、ひきつけて離さなかった作者の言葉の力が弱まっていったように感じた。

 

女子高校生は「奥さん」の言う通り、弟を亡くなったお母さんに会わせる。けれど、

「そして、彼を母に会わせた。」

と記すだけで、そのときの描写は全くなされない。何故、弟がお母さんと「再会」したときの様子を描かないのだろうか、不思議に思った。極限的な状況・場面を回避しないで、作者はそれまで果敢に言葉で表現し、小説を構築してきたのに、ここでは省略してしまっている。残念な気がした。

 

女子高校生と弟は、沼津の親戚のおばさんの家で暮らすようになる。

ラストは遠浅の海岸で、姉弟がかけっこをするところで終わる。

弟は可愛らしいし、微笑ましい場面なのだが、まるで絵に描いたようなシーンだと感じてしまった。

 

……とはいっても、「3月11日」に対して、小説を書く者として、自分の想像力と言葉を武器に挑んでいったその意志については、繰り返しになるけれども、私は学びたいと思った。そのことに変わりはない。

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