「そこどけあほが通るさかい」の覚悟の足りなさとは?

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 17:33

「小説についての小説」その167

 

「群像」2019年6月号を購入したのは、松浦寿輝氏と吉増剛造氏の対談「魂の身ぶり、言語の動き」が掲載されていたからだった。

同じ号で、群像新人文学賞の発表がなされていて、当選作(石倉真帆『そこどけあほが通るさかい』)も載っていたのだが、読まなかった。

 

その後、石原千秋氏が文芸時評(2019年5月26日付産經新聞)で、『そこどけあほが通るさかい』に触れているのを読んだ。

 

「『ムラ』とも言えるような狭いエリアの息苦しく狂気に満ちた日常を、大阪弁で書いた。この『ムラ』をねじ曲げている大きな要因は学歴。それならば、『関西の超有名国立大学』とか『R大』などと書いてはいけない。固有名詞で勝負すべきだ。悪い小説ではないが、覚悟が足りない。」

 

「固有名詞で勝負すべきだ」「覚悟が足りない」……とは、どういう意味なのだろうか?

それが知りたくて、『そこどけあほが通るさかい』を読んでみた。

 

小説を読みながら、声を出して笑ったのはひさしぶりだった。(田辺聖子以来?)

人によって笑いのツボは違うと思うが、私が笑ったのはこんなところだった。

 

主人公の光里(ひかり)は高校受験の際に、公立の早見高校を受けることを決める。すると、同居している婆(ばば=父親のお母さん)がそれを聞き、「心底驚いたみたい」に、

「光里て、そんなにあほやったんか」

と、本人の前で言う。

 

婆が吐く毒はそんなもので終わらない。

「せやさかいあんとき堕ろしてしまえちゅうたんじゃ」

と、そもそも光里を生んだことが間違いだったとさえ言ってはばからない。それも、本人の前で。

 

「あほ」と言われ、堕ろしてしまえばよかったんだと言われ、ついに耐えきれなくなった光里の中で「ぶつん」と何かが聞こえる。彼女は叫ぶ。

「せやあああっ堕ろしてしまえてやああっ! 言うたんちゃうんかええええっ!」

この表現がものすさまじい。婆の毒に負けていない。

 

しかし、作者はこの表現のすぐあとに、こんな風な言葉を添えるのだ。

「お腹から黒い固まりがごぼっと出た。明日から演劇部に入ろうかと思たぐらいよう通った声が出た。」

 

私は、この「演劇部に入ろうかと思たぐらい」で、ゲラゲラと笑いだしてしまった。

作者は深刻、真剣、ものすさまじい場面において、冷静、客観的に、光里自身に、ボケさせているのだ。

この感性が凄いと思った。

 

私の笑いは、それだけで終わらなかった。

婆の毒に抵抗して光里が発する叫びは、さらに緊迫感を増していく。光里が自分の腕に包丁を突き刺す場面の直前の、彼女の叫び。

「出てへんがあ! キチガイが出てへんぞお! どういうこっちゃねん! アホでバカヤロウでキチガイとちゃうんかあっ!」

 

そして、この叫びに添えられた言葉は……

「こめかみがびくびくして唇はわなわな震えて閉じられへん。こんだけはらわた煮えくり返ってんのにやっぱり演劇部入ろかな応援団でもいけるんちゃうやろかてなことも考えてた。」

 

演劇部から応援団にパワーアップしたので、私の笑いもさらに大きくなった。笑ったために、涙が滲んできたほどに。

 

 

ところで、私は、石原千秋氏の「固有名詞で勝負すべきだ」「覚悟が足りない」という評言に接し、その意味を解明しようとして、『そこどけあほが通るさかい』を読んだわけだった。……けれど、現在のところ、石原氏の評言の意味を理解できたとは、まだ言えない。

 

高校の名前については、栄智高校とか、早見高校という表記がされている。これは実在する高校なのか、架空の高校なのか、私には分からない。

大学の名前については、K大、R大という表記がされている。こちらは、K……、R……という大学がきっと実在するのだろう。分かる人には、K、Rと聞いただけで、「ああ、あの大学」と頭に浮かぶのに違いない。しかし、私には(その辺の知識が全くないので)思い浮かんで来ない。

 

もしかしたら、石原氏は、「分かる人には分かる」「分からない人には分からない」……そんな書き方をしていることについて、「覚悟がない」と言っているのかもしれない。

 

大学と言えば、主人公の光里が、大学進学を当然のように考えているところが、私には不思議だった。

近頃は、高校全入はもちろん、すでに大学さえ全入の時代に突入しているのだろうか?

 

勉強が出来る出来ないが、「あほ」「バカ」の基準であるとは全く思えない。

勉強の出来る「あほ」や「バカ」はうじゃうじゃ居るし、いわゆる勉強は出来なくても立派な人は沢山居る。

光里は大学に行かないで、別の途を選択しても良かったのではないかと思った。

 

高校3年生になった光里は言う。

「ええねんもう。浪人せえへんのやったらどこでもええ、あっでもなあ……あんまり聞いたことのない大学は嫌やなぁ。まあどっか入れるやろ」

こんな気持ちだったら、大学に行く必要は無いように思われる。

 

また、高校の担任の先生について、「三流私立大卒のリーマン教師の間抜け野郎」という表現で語るのだが、「あんまり聞いたことのない大学は嫌やなぁ」とか、「三流私立大」とか、……あの、婆の毒に対する反発はどこに行ったのだろうかと思う。光里自身が、ぬるい毒に侵されているように思える。

このような光里の造形に、ひょっとしたら、石原千秋氏の指摘する「覚悟の足りなさ」の反映があるのかもしれない。

 

『そこどけあほが通るさかい』を読み、「覚悟」問題のほかにも、いくつか、この小説を読まれた方の意見を訊いてみたいことが出て来た。

 

〇 婆の毒には、認知症がどのくらい関わっているのか? 婆の毒を、認知症のせいだと捉えない方がいいのではないか?

〇 光里の「お母ちゃん」は何故、婆が亡くなったあと、死のうとしたのだろうか? 小説の冒頭と、最後に、「お母ちゃん」の場面をもってきたことの是非……など。

 

この小説が話題になり、いろいろな方がこの作品に関して書いてくださる文章を、ぜひ読んでみたい。

 

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