問題は、そこなのだ。

  • 2019.06.18 Tuesday
  • 18:02

「お芝居つまみ食い」その276

 

2019年2月に彩の国さいたま芸術劇場で上演された『ヘンリー五世』(演出 吉田剛太郎)を、世の批評家はどのようにご覧になったのか、知りたいと思っていたところ、「テアトロ」の5月号で谷岡健彦という方が『ヘンリー五世』について触れていた。

 

「テアトロ」5月号では「斉藤淳と今井朋彦」と題する特集を組んでいて、谷岡健彦氏は「表現力ゆたかな声の持ち主」という文章の中で、今井朋彦の「口跡のよさ」と引き比べる形で、『ヘンリー五世』の舞台を取り上げていた。長くなりますが、引用させていただきます。

 

「彩の国さいたま芸術劇場で上演された吉田剛太郎演出の『ヘンリー五世』は、見た目は華やかではあるけれども、中身の乏しい舞台だった。作品の鍵となる名台詞が削除されていたり、たいして面白くもない悪ふざけが長々と続いたりなど、いくつも不満を覚えた点がある。俳優の台詞術の拙さもその一つだ。劇中で説明役(コーラス)を演じる吉田を含めて、大半の俳優がやたらと声を張り上げるため、言葉の微妙なニュアンスがあらかた吹き飛んでしまう。一本調子な台詞の応酬を聞きながら、『重要な役どころに、今井朋彦が起用されていたら』と思うことがしばしばあった。と言うのも、二〇一六年に新国立劇場で観た『ヘンリー四世』での今井の口跡のよさが際立っていたからだ。」

 

「やたらと声を張り上げる」「一本調子な台詞の応酬」という評言は、まさにその通りだったので意を強くしたが、谷岡氏はそこにとどまらず、シェイクスピアのセリフを今井朋彦がどのように言っているのか(吉田剛太郎演出の『ヘンリー五世』とどこが違うのか)、詳しく書いてくれているので参考になった。

 

その1つ目は……

「戯曲を丁寧に読み込んで、シェイクスピアの修辞の多い長台詞のなかで、どの単語を強調すべきか、どこで息を継いだらよいか、どのような抑揚が適切かを細かく計算しているのが伝わってくる。おかげで、今井が口にする言葉は、たんに明瞭であるばかりではなく、その意味が明瞭に耳に届いた。」

 

2つ目は……

「シェイクスピア劇を演じるときに、俳優がえてして陥りがちなのは、韻律の美しさに俳優自身が陶酔し、台詞を客席に向かって高らかに朗誦してしまうことだ。このように台詞を『歌う』と、相手役との間合いがおかしくなり、ただ俳優が美辞麗句を交互に口にしているだけになってしまう。今井は、シェイクスピアの言葉の美しさにじゅうぶん気を配りながらも、けっして歌いはしない。つねに相手役を意識しているため、台詞のやり取りが生気を帯びる。」

 

谷岡氏は、「森新太郎が演出した『TERROR テロ』での今井の演技も忘れがたい。」とも書いている。

「客席に語りかける声の大きさや口調が絶妙であった」「台詞の受け手との距離感の取り方が抜群に上手い」と、評価している。

『TERROR テロ』(2018年1月、作 フェルディナント・フォン・シーラッハ、紀伊國屋サザンシアター)は私も見ているが、今井朋彦のセリフ術の巧さに、ことさら気づくことはなかった。今後は心して、その演技を見ていきたい。

 

 

谷岡健彦氏は「テアトロ」5月号の文章の中で、下北沢の小劇場B1で上演された『ベッドに縛られて』(2019年3月、作 エンダ・ウォルシュ)についても書いていた。

この芝居は斉藤淳と寺十吾の二人芝居だったそうだが、「あまり楽しめなかった」と言う。

その理由は……

 

「父親を演じる寺十吾の声が大きすぎて、台詞がすんなり耳に入ってこないのである。いくら粗暴さを表現するためとはいえ、小さな空間だ。のべつ声を荒げる必要はないだろう。」

 

谷岡氏は『ヘンリー五世』については、「やたらと声を張り上げる」、『ベッドに縛られて』については(私は見ていないが)「のべつ声を荒げる必要はないだろう」と書いてくれている。

 

声が小さくて、セリフが聞き取れないのも困りものだが、馬鹿でかい声を張り上げられるのも困ったことだ。この頃は、そんなお芝居に遭遇することが増えたような気がしている。

 

2019年5月に見た、「中野坂上デーモンズの憂鬱」という劇団の『No.12』が、その典型的なものだった。

d−倉庫が「現代劇作家シリーズ」という催しを毎年おこなっていて、今年のテーマは「日本国憲法」だった。

「中野坂上デーモンズの憂鬱」は「日本国憲法」という、とてつもなく難しいテーマに果敢にチャレンジして、『No.12』という1時間の芝居を創り上げた。

……そのことは素晴らしいとは思ったものの、男女計12人の登場人物が1時間ずっと、どなり、叫び、吠え、わめきつづけるというお芝居には、呆然とさせられるしかなかった。

 

全身を使って、力いっぱい声を発散させる。言葉の色合いなどは関係ない。とにかく最大限の大声で、1時間を突っ走るのだ。芝居が終わったとき、さぞかし躰の底から声を出し切った充実感で、出演者はきっと満足感を得られたのではないだろうか?

芝居を創る側はそれでいいのかもしれない。

けれど、芝居を見る側はどうなるのだろう?

問題は、そこなのだと思う。

(しかも、その問題は小劇場に限らない。大劇場でも起きているのだ。)

 

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  • 2019.07.23 Tuesday
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