「天皇」執筆中の2氏の対談

  • 2019.04.18 Thursday
  • 19:28

「小説についての小説」その164

 

『「ポスト平成」の皇室論』と題して、作家・赤坂真理氏と大学教授・原武史氏の対談が掲載されたのは、「文學界」の2019年2月号だった。

文学の世界で、天皇や皇室について語られることには大事な意味があると考えていたので、「文藝」の2019年夏号が、「天皇・平成・文学」という特集を組んでいるのを知って、さっそく読んでみた。

 

特集の中の、池澤夏樹氏と高橋源一郎氏による、『「なぜ今、天皇を書くのか」戦後の終わりと天皇文学の現在地』という対談が(私には)興味深かった。

池澤氏は「ワカタケル」、高橋氏は「ヒロヒト」。2人とも、天皇を主人公にした小説を、現在執筆・連載中であるとのこと。

そんな2人からどんな言葉が聞けるのか、大いに関心を抱いて読んだ。

 

先の戦争の責任問題について、池澤氏はつぎのように語っていた。

「裕仁さんには戦争責任論がずっとついてまわった。彼個人の資質あるいは倫理的ふるまいによってではなかったとしても、彼の名において死んだ人間がたくさんいる。サイパン島でバンザイ・クリフから飛び下りた人たちは、戦争に負けたらこの国はないと言われて死んだわけでしょう。その死に対して裕仁さんには象徴的な責任があった。だって国は残ったんだもの。」

 

ここで池澤氏が、実質的な責任ではなく、象徴的な責任という言葉を使っているのは、つぎのような考えに基づいているからであるらしい。

 

赤坂真理の『東京プリズン』の中でも、大日本帝国憲法下、天皇を「統治機構の一機関」と見るか、「統治権の主体」と見るか、ディベートの形をとりつつ究明されていた。

池澤氏はこの問題について、こう話す。

「今になって考えると、結局、天皇機関説が正しかった。わかりきった話で。つまり天皇というのはゲゼルシャフトですよ。それをゲマインシャフトにすり替え、国民統合の象徴に仕立てて戦争を始めたと。だから三島由紀夫の「英霊の声」は間違いなんです。」

 

そして……

「最初から天皇は人間なんですよ。勝手に祭り上げておいてバカな軍人どもの仕組んだ戦争に負けたからと言って、それを私のせいにするな、と裕仁さんは言いたかったんじゃないかな。折口信夫は『天子非即神論』を言っていますよ。「『天子即神論』が、太古からの信仰であつたやうに力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」と明言している。」……と。

 

さらに、池澤氏のつぎのような言葉は、私にとって初めて聞く話だった。

「たしか原さんが書いてたと思うけど、昭和天皇は戦前に彼自身が天皇機関説をもっぱら信じていたと。」

 

昭和天皇自身が天皇機関説を信じていたのだとすれば、天皇とは何だと考えていたのか?

……なんと、象徴に近いものであった、と池澤氏は言う。

「そこにおける天皇のあり方はほとんど象徴に近かった。象徴という概念がいきなり出てきたんじゃなくて、いろんな形で戦前からちらほら見え隠れしてた。だから日本国憲法における象徴という言葉も、最終的に受け容れやすかったのではないかと。」

このこともまた、私には新しい情報だった。

 

池澤夏樹氏が日経新聞に書いている、雄略天皇を主人公にした「ワカタケル」。

高橋源一郎氏が「新潮」に連載中の、昭和天皇を主人公にした「ヒロヒト」。

いずれ完結して、単行本化されたときには、さっそく書店に出掛け、手にしてみたい。

 

小手鞠るい「アップルソング」−ある写真家の軌跡

  • 2019.04.16 Tuesday
  • 20:09

「小説についての小説」その163

 

「その162」の続きです。

 

小手鞠るい『アップルソング』の主人公=鳥飼茉莉江は、報道写真家の岩井蓮慈と出会い、お互いに結婚を考えるようになった。

だが、チャイナタウンで2人で食事をしている最中に、茉莉江は岩井に突然言われる。

「あしたの夕方から、行くことにした。堪忍な、急な話で」

そうして岩井は日本の米軍基地を経由して、またベトナムの戦場へと向かってしまう。

 

1972年、日本に里帰りをしていた茉莉江のお腹の中には、岩井の子が宿っていた。

ある朝、何気なく手にした新聞を読み、茉莉江は連合赤軍のメンバーが浅間山荘にたてこもっている事件を知る。

そして、茉莉江は思う。浅間山荘に「行かなくてはならない」。

 

茉莉江は岡山から上京して、民放テレビのディレクターを訪ね、浅間山荘に行きたいと申し出る。

「あれっ? もう、写真はやめたんじゃなかったっけ?」

「はい、私は、やめることをやめました」

こうして茉莉江はテレビ局の系列の雑誌社の臨時スタッフとして浅間山に向かうことになった。

 

しかし、妊婦であるにも関わらず、雪中での苛酷な写真撮影をしたために、茉莉江は岩井との間に授かった子を流産してしまう。

一方、岩井蓮慈はベトナムのダナンで、ベトコンのスパイと間違われて射殺されてしまうのだ。

 

その後、鳥飼茉莉江は「報道写真家」として、タイの学生運動、神奈川大学の内ゲバ、ソウルの反政府デモ、ポルトガルの軍事クーデター……と、取材を重ねていく。

偶然、居合わすことになった三菱重工爆破事件もカメラにおさめた。

日航機の墜落事故の際にも現場に向かった。7時間かけて御座山(おぐらさん)の頂上にたどりついたものの、そこは墜落現場ではなかった。遠くの御巣鷹の尾根に、墜落の現場と思しきものを見やりながら下山した。下山しながら、茉莉江は思う。

 

「この世界は、美しくないもので満たされている。この世界は美しくない。醜い。むごい。残酷で冷酷だ。非情で非道だ。私は、この醜い世界を撮りたい。悪、憎悪、暴力、虐待、争い、奪い合い、殺人、殺傷、殺戮、人の悪がもたらす悲劇。私はそれらを撮りつづける。写真とは、偶然の産物ではない。それは、シャッターを切る瞬間に至るまでの、写真家の全人生が注ぎ込まれているもの。」

 

そして鳥飼茉莉江は、1994年の第一次チェチェン戦争から、第二次チェチェン戦争に至るまでの5年間、一貫してチェチェンに関わり続けた。

チェチェン民族が、「ロシアという大国からくり返し、くり返し、被りつづける、残虐非道な破壊と大量殺人行為を取材しつづけ」たのだ。

 

だが、その間に、茉莉江がカメラを手放したくなった瞬間があったのではないかと、作者は書いている。

「もしかしたら、あるとき茉莉江がこのニコンF3をふっと手放したくなったのは、この、戦争とも呼べないような、一般市民に対する攻撃、略奪、市民を対象にした拷問、虐殺、処刑など、まさに少数民族の殲滅にほかならない軍事行動の残忍さに、この悲劇に、耐えきれなくなったからだろうか。」……と。

けれど、それでも鳥飼茉莉江は写真を撮り続けた。報道写真家としての仕事をし続けた。

 

やがて2001年の9月11日がやってくる……。

その朝、茉莉江はニューヨーク、チェルシーのアパートに居た。管理人がドアをノックする音に起こされ、アパートの屋上に連れて行かれる。そこで見たものは、世界貿易センタービルのツインタワーあたりから噴き上がっている煙だった。

 

「茉莉江は、のちに『爆心地(グラウンドゼロ)』と名づけられることになる911テロの現場を目指した。」

立ち入り禁止のバリケードがあったが、世界中の戦地を渡り歩いてきた茉莉江にとって、封鎖された場所に潜入するのは容易いことだった。茉莉江は危険な場所に踏み込んでいく。彼女はシャッターを切りながら、奥へ奥へと進んでいく。

「この先に、まだ生きている人がひとりでもいるのであれば、その人を救わなければならないと、茉莉江は思っていた。撮らなくてはならない、は、救い出さなくてはならない、に、変わっていた。ひとりでもいい、救わなくてはならない。」

 

このあとに、圧倒的、そして決定的な描写がなされる……。

「わずか一メートルほど先に、かすかに見え隠れしている、白いものがあった。それはかすかに動いていた。ものではない。人の手だ。手のひらだ。指だ。中指と人さし指が動いている。そのことに気づいたとき、茉莉江は首から下げていたカメラを毟り取るようにして、投げ捨てた。二台とも。意思はなかった。気がついたら、捨てていたのだ。捨ててから、理解した。写真よりも大切なものがあると、茉莉江は覚った。カメラよりもフィルムよりも大切なものがある。あの人を救い出すために、あの手を握りしめ、あそこに埋まっている人を助け出すために、そのためにあと一メートル、四つん這いで進んでいくためには、カメラは邪魔だった。」

 

鳥飼茉莉江は瓦礫に埋まった人を助け出した。しかしその後、茉莉江はなおも人を助けるために進んでいき、そして帰ってこなかった。

 

美しいものを撮りたいという欲求を満たすためには、まずカメラが必要だった。貧しい暮らしの中で、カメラはあまりにも高価な物だった。

美しいものを撮り続ける茉莉江に、インスピレーションを与えたのは女性編集者のジェニファーだった。

ジェニファーがこうあるべきと茉莉江に説いていた「写真」を、現実のものとしてこの世に出現させていたのが、岩井蓮慈だった。

その岩井蓮慈からバトンを受け取るように、「報道写真家」として写真を撮り続けた茉莉江。

しかし、茉莉江は最期、カメラを「投げ捨てた」のだった。何故?

「あそこに埋まっている人を助け出すために、そのためにあと一メートル、四つん這いで進んでいくためには、カメラは邪魔だった」……から。

 

こうして、『アップルソング』を、茉莉江の「写真」との葛藤・格闘、というテーマに絞って追ってきてみると、またしても、ジェニファーの言葉が、需要なキーとして思い浮かんでくる。

ジェニファーは「芸術」について、若き日の茉莉江に、こんな風に語っていた。

 

「ただ、ひとつ、このことだけはよく覚えておいて。芸術の世界には、努力だけでは乗り越えられない壁がある。才能だけでも、駄目なの。運だけでも、もちろん駄目よ。(中略)幾ばくかの運と、多大なる才能と、尋常ならざる努力。これらを束にして立ち向かっても、壁はなお、かたくぶあつく立ちはだかっている。これはもう、誰にもどうしようもないくらい、絶望的な壁よ。それを乗り越えていった人だけが、真の意味でのアーティストになれるの。それによって、幸せが掴めるかどうかは別として」

 

鳥飼茉莉江はジェニファーの言う「真の意味でのアーティスト」になっていったのではないか。

だからこそ、最後にカメラを棄てるところまで、突き抜けていったのではないだろうか。

そう考えると、茉莉江の死はもしかしたら、アーティストとして、幸せな死だったのかもしれない。

 

小手鞠るい「アップルソング」−ある写真家の軌跡

  • 2019.04.15 Monday
  • 17:19

「小説についての小説」その162

 

小手鞠るいの『アップルソング』(ポプラ文庫)もまた、斎藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)を読んで、ぜひ読みたいと思った作品だ。高橋氏は『アップルソング』について、このように書いていた。

「一九四五年、空襲の瓦礫の中から救出され、渡米して報道写真家になった女性の、評伝と見まがうような波乱万丈の人生の記録。」

 

『アップルソング』は時間的にも、空間的にも、壮大なスケールを持った作品だった。

文庫本448ページの中に、下記のような、多くの歴史的な出来事が現出してくる。その現出の仕方は、説明的なものではなく、出来事の只中にあった人々の生々しい体験として描写される。

 

1945年 岡山大空襲

1964年〜1975年 ベトナム戦争

1969年 新宿駅西口地下広場 反戦フォークゲリラ事件

1972年 連合赤軍 浅間山荘事件

1974年 東京丸の内 三菱重工爆破事件

1985年 日本航空123便墜落事故

1994年 第一次チェチェン戦争

1999年 第二次チェチェン戦争

2001年 アメリカ同時多発テロ事件

 

まことに骨太な作品だと、圧倒される思いで読み終わった次第だが、読後、何週間かを経て、胸の底のほうから浮かび上がってきたのは、1945年から今日まで、日本および世界が辿って来た歴史に対する思いではなく、それとは別の事柄だった。

主人公・鳥飼茉莉江は写真家に成るのだが、その、「写真」に対する向き合い方が、不変ではなく、大きく変容していくのだった。茉莉江の、「写真」についての考え方が進化・発展していく、その軌跡がドラマチックに感じられた。

 

当初、茉莉江の夢は、大学に入って絵の勉強をすることだった。

ところが、ワシントン・スクエアで知り合った、黒人青年のジョーが撮った写真を見たことから、その夢が変わっていく。

「ジョニーの写真の大多数は、家族や友人の肖像だった。カラーもあれば、モノクロもある。じっと見つめていると今にも、人々のしゃべり声や笑い声や叫び声、子守歌や祈りやささやきが聞こえてきそうだった。生命力があると思った。躍動感があると思った。絵画とは違った息づかいがあり、脈拍があり、輝きがあり、羽ばたきがあると、茉莉江は感じていた。」

 

さらに茉莉江は、自分なら、何を撮るかを考えた

「私なら、人ではなくて、植物を撮る。花を撮る、葉っぱを撮る、木の枝や芽を撮る。小さな生き物を撮る、小鳥を撮る。雛鳥を撮る。蝶々を撮る。この世界にある美しいもの、可愛らしいもの、愛されるべきもの、守られるべきものを撮る。それらを包み込んでいる無限の空を、青をたたえる空を、空に宿る永遠の光を。」……という風に。

 

そうして茉莉江は、「絵の勉強をする」という「夢」を捨て、「写真を撮る」という「意志」を持つようになる。

 

ちょうどその頃、茉莉江は知り合った日本人の写真家=坂木真人から、絵と写真の違いについて、こんな風に教えられもする。

「――絵は額縁のなかに世界を閉じ込めるもの。額縁のなかが世界。写真は、そこに写っていないものも含めて、その外には世界が広がっているということを表現し、見た人に世界の広がりを感じさせるもの。」……と。

 

写真を撮りだした茉莉江は、自分の作品をおさめたアルバムのようなもの(「ブック」と言うらしい)を、ある女性編集者に見せる。

この女性編集者=ジェニファーとの邂逅がまた、茉莉江をつぎのレベルに引き上げることとなる。茉莉江の写真を見て、ジェニファーはこう言う。

「美しいわね、確かに。とても美しい写真だと思います。あなたは、美しい写真を撮ることができる。センスも才能もやる気もある。そのことは認めます。けれど」

 

「けれど」のあとに続いたジェニファーの言葉は、茉莉江には、まるで銃弾のように感じられた。

曰く「でもね、現実に在る美しいものを、ただ、あなたが感動して、賞讃して、写し取っているだけではいけないの。そんなのは、暇な人の趣味に過ぎない。自己満足に過ぎない。」

 

曰く「あなたにしか表現できない特別な『美』を提示しなくては。あなたの写真の前に、人々の首根っこを掴んで引っ張ってこられるような、人々があなたの写真の前から一歩も動けなくなるような、そういう力を孕んでいなければ、それはアートであるとは言えません。」

 

曰く「写真家は『目』なんです。あなたは外の世界を、時代を、社会を、しっかりと目を見開いて見て、空気を、風を、匂いを、外に出て吸い込んでみなくては……」

 

そんなことがあったのが2月のこと。それから約1年ののち、茉莉江はニューヨークの本屋で、大判の報道写真雑誌『APERTURE』と巡り合う。

彼女はその雑誌の表紙の写真を見て、「一歩も、動けなくなっていた。」それはまさに、1年前にジェニファーが言っていた、写真に「首根っこを掴まれて、引っ張ってこられたような恰好」だった。

「累々と折り重なる人々の死体。これ見よがしに放置されている死体。男女の区別もつかなくなっている死体。殺される前に、リンチに遭ったと思われるベトナム人兵士の死体。少年兵の姿もある。ちぎれた手足、ねじ曲げられた背中と腹。首から上がない死体、死体とも思えないほど破壊されてしまった肉片。ピラミッドのように積み上げられた死体の山のなかから、そのすきまから、外をのぞいている、少女の一対のまなざし。レンズはまっすぐに、そのまなざしに向けられていた。この子はまだ生きている。幼い女の子だ。彼女が掴んで、握りしめて離そうとしていないのは、おそらく、母親の死体の腕だろう。あるいは、乳房か。」

その写真を撮ったカメラマンは、岩井蓮慈という日本人だった。

 

1969年6月、茉莉江は日本で、新宿駅西口地下広場のフォークゲリラの集会に遭遇する。

そこで茉莉江は、今までしたことの無かったことを始める。

「茉莉江は撮影を始めた。自分でも自分の行為に驚かされていた。『人を撮りたい』と思ったことは、今までに一度もなかった。人よりも植物、小さな生き物、美しい景色に関心があった。しかし今、撮りたいという思いよりも先に手足が動いてしまったのは、おそらく、ここに集まっている人々の放出している熱気のせいだろうと、茉莉江は分析した。」

 

やがて機動隊が催涙ガスを発射し始めた。茉莉江は、何か硬いもので頭部を殴られ、その場にうずくまる。頭部から流れる血にまみれた手で、茉莉江は写真を撮り続ける。

そして、そのときに撮った写真は、のちにニューヨークの雑誌社に買い取られ、

Tokyo June 28, 1969 新宿駅西口地下広場にて、歌う東京の戦士たち」

というキャプションを付けられてニュース雑誌に掲載された。

 

茉莉江が岩井蓮慈に紹介されたのは、そのニュース雑誌社主催のクリスマスパーティの席でのことだった。

二人は恋に落ちる。

茉莉江の心境にも変化が生じていく。

「今の茉莉江にはもう、写真で身を立てていこう、自分にはそれしかない、という一途な思いは、ない。写真は、趣味や娯楽でいいと茉莉江は思っている。たとえば家族のスナップ写真を撮る。赤ん坊が生まれたら、赤ん坊の写真をいっぱい撮る。写真もカメラも、家族には、かなわない。」

茉莉江は写真よりも、岩井蓮慈と幸福な家庭を築く道を選ぼうとするのだ。

 

しかし、茉莉江の写真に対する考え方は、これで終着点とはならなかった……。

茉莉江のその後の歩みについては、また次にご紹介させていただきます。

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