「日本の同時代小説」を読んで思ったこと

  • 2019.01.01 Tuesday
  • 22:24

「小説についての小説」その152

 

斎藤美奈子氏の著書『日本の同時代小説』(岩波新書)を読んだ。

いろいろ教えられることがあった。

 

本書は全6章から成っている。

1 1960年代 知識人の凋落

2 1970年代 記録文学の時代

3 1980年代 遊園地化する純文学

4 1990年代 女性作家の台頭

5 2000年代 戦争と格差社会

6 2010年代 ディストピアを超えて

 

中でも、現在地、今まさに渦中にあり、まもなく2020年代に入っていこうとする、「2010年代 ディストピアを超えて」と題する第6章を最も興味深く読んだ。

著者は<2010年代は「ディストピア小説の時代」でした。>と言う。

<「ディストピア」とは「ユートピア」の反対語。ジョージ・オーウェル『1984』が描くような、絶望に支配された世界です。>とのこと。

 

<労働環境の悪化、少子高齢化、震災と原発事故、そして安全保障政策の転換と、巷で囁かれる民主主義の危機。ディストピア小説の流行は、現実の厳しさに呼応しています。小説家は時代の空気をしっかり吸っているのです。>

と書いたあと、著者がつぎのような方向に話を向けていて、「なるほど、そうだな」と思った。

<ただ、「警世の書」としてのディストピア小説は絶望しか残さない。ただでさえ絶望的な現実に絶望の上塗りをしてどうするのだ、という意見もある。>

 

そういう意見を発しているのは飯田一史氏で、氏は震災後の文学について、こう述べているという。

<震災後文学は、「被」の文学だった。被災者・被害者・被曝者ばかりを描いてきた。直接的な設定としての被災者・被害者・被曝者だけではなく、精神的な意味でのそれらを、である。しかし本当は、その先を示さなければならなかった。道を自らきりひらき、対話のなかで歩む姿を描くことも、必要だったのだ>

この飯田氏の意見に加えて、著者は<これは震災関連小説に限らず、純文学全般に当てはまる傾向です。>と書いている。

 

<なぜ文学は「その先」を示せないのか。>

著者は2つの仮説を立てる。

<ひとつは「純文学のDNA」とでもいうべき性癖です。>

<純文学はショックに弱い。もともとが敗者、弱者の芸術だっただけに、呆然と立ち尽くす以外の術を知らないか、あるいは問題の解決を先送りにしたがるのです。>

 

<もうひとつは小説の形式上の問題です。>

純文学は<開いた結末(オープンエンディング)を好みます。事件は解決せず、主人公は宙づりにされ、謎は謎のまま残り、不安な空気を残したまま、テキストはプツリと終わる。するとなんだか余韻が残って「文学らしさ」が醸成されます。>

 

第6章の最後、<いったい、では今後の日本文学に未来はあるのか。>という問いを投げかけたあと、著者は2017年から2018年にかけて200万部も売れた、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を取り上げ、<ここにはひとつのヒントがある。>とする。

 

<純文学のDNAに縛られて、ニヒリズムを気取っているだけが能ではない、絶望をばらまくだけでは何も変わらない。せめて「一矢報いる姿勢」だけでも見せてほしい。読者が求めているのは、そういうことではないでしょうか。>

 

これが、「ディストピアを超えて」いくための、ヒントであるようだ。

 

だが、ヒントをいただいたからと言って、現実にそのような小説を手品のように生み出せるものでもない。試行錯誤、小さな針の穴に糸を通すような試みの積み重ねの向こうに、それはやっと見えてくるのかもしれない。いくら試みても、見えてこないかもしれない。分からないけれど、歩いていきたいと、『日本の同時代小説』を読んで思った。

イプセン「民衆の敵」と日本の今

  • 2018.12.24 Monday
  • 14:36

「小説についての小説」その151

 

「悲劇喜劇」2019年1月号に掲載された、戯曲『民衆の敵』(作 ヘンリック・イプセン、翻訳 広田敦郎)は、2018年の11月から12月にかけて、Bunkamura シアターコクーンで上演された。

 

読み始めてしばらくして、シアターコクーンでの上演を見にいかなかったことを、悔やむ気持が起きた。

何故、そのように思ったかというと、『民衆の敵』は1882年、今から136年も前に書かれた戯曲なのだが、読んでいて、随所に「今」が感じられたからだった。

 

舞台はノルウェーの海辺の町。この町には温泉が出ていて、保養地として発展しようとしている。

……こんなところから、私はまず、日本の、地方の市町村を思い浮かべてしまった。

 

主人公のストックマン医師は、市の温泉担当の医務官で、ある発見をしてしまう。

その発見とは、温泉に腐敗した有機物が存在していて、健康に害があるというものだった。

ストックマン医師は、その発見を単純に喜んでいるように見える。

その喜びは、その発見を契機に人々が温泉の改善に向かうだろうと、ストックマン医師が信じて疑わないところから生まれているようだ。

……けれど、そんな素朴な性善説は、果たして通用するのだろうか? ストックマン医師の考え方は、あまりに純粋すぎやしないか? そんな心配が湧いてくる。

 

町の新聞「民衆の声」の編集長や、不動産所有者協会の会長がやってきて、ストックマン医師に支持を表明する。

医師は、自分のうしろに、「絶対的多数派」がついているように感じる。

 

しかし、ストックマン医師の兄である市長は、医師に敵対する。

温泉を改善するためには多額の費用がかかり、しかも、2年間という長い工事期間を要する。

「そのあいだ温泉はどうなる? 閉鎖か?」「山ほどカネを注ぎ込んできたのに――お前のせいで故郷は破滅だ。」と市長は、弟の医師に迫る。

 

形勢は逆転、味方かと思われた町の新聞の編集長も、不動産所有者協会の会長も、いつしか市長の側に立ち、ストックマン医師は群衆から「民衆の敵!」と連呼されるようになる。

そういった状況に追い込まれたときにストックマン医師が吐いた言葉がまた、「今」に通じているように感じて印象的だ。

 

たとえば…… 

「大衆、多数派、馬鹿な絶対的多数派――それこそがわれわれの精神生活に毒を注ぎ、われわれの足もとの地面を汚染してるってことだ。」

こんなセリフは、現代のポピュリズムに対する言葉とも聞くことが出来る。

 

また…… 

「いかに<民衆の声>が恥も外聞もなく、みなさんをあやつり、みなさんふつうの市民こそ、民衆こそ、社会の柱であると思い込ませたか。なんてことない、新聞の嘘です!」

ストックマン医師の発言のすべてが妥当だとは思わないが、現代社会におけるジャーナリズムの役割について、1882年の時点で、こんな風にイプセンがすでに鋭く言及していることを知った。こんなところにも『民衆の敵』の現代性を感じる。

 

ストックマン医師の、市長である兄についてのこんな評価も、私には興味深かった。

「――なぜなら兄は常に上の人間の意向をおもんばかり、上の人間とおなじ意見をもとうとする。そういう人間は精神的にはとても貧しい、ですからわたしの偉大な兄ペテルは、実際のところ上に立つにふさわしくない人間なんです――したがってまた、革新的とはとても言えない。」

こんなセリフにも、時代や国を超えた普遍性があるように思える。

 

「今」が感じられる芝居に思えたのは、広田敦郎氏の翻訳だったからなのかもしれない。

実際の舞台に接していたら、どう感じただろうか? ぜひ体感してみたかった。

イスラエルの作家の言葉

  • 2018.12.03 Monday
  • 19:02

「小説についての小説」その150

 

11月に彩の国さいたま芸術劇場で、さいたまネクストシアターの『第三世代』を見ていなければ、「新潮」2018年12月号に載っているエトガル・ケレットというイスラエルの作家の言葉に、私は興味を持たず、読むこともなく通り過ぎてしまったことだろう。

 

しかし芝居『第三世代』を見たことによって、イスラエル人、ドイツ人、パレスチナ人の関係・歴史・現状が、複雑かつ深刻なものだということを認識させられていた私は、その言葉を読まないではいられなかった。

 

エトガル・ケレットという人は、イスラエルの作家であり映画監督なのだそうだ。

その人と、日本の文学・出版・報道・映画関係者のミーティングがテル・アビブで開かれ、その記録が、「犬とエスキモー――エトガル・ケレット、日本からの視察団と語る」と題して、「新潮」に掲載されていた。(秋元孝文 構成・訳)

 

エトガル・ケレット氏は最初の方で、

「両親はホロコーストを生き延びた。父さんはナチスから逃れるために、穴の中に六一〇日間も隠れた。母さんは家族全員をホロコーストで亡くして、一家でただ一人生き残った。」

と語っている。

エトガル・ケレット氏は、『第三世代』の親の世代、つまり『第二世代』の人ということになる。

 

興味深かったのは、「パレスチナ問題についてはどう考えていますか?」という質問に対するケレット氏の答えだった。

「基本的にぼくは、二国共存案が唯一の解決法だと考えている。パレスチナ人とイスラエル人がそれぞれ自由に暮らし、選挙ができて、国のシンボルを持ち、自分たちの文化を築ける、そういう土地を持つこと。」

それが「大前提」だとケレット氏は言う。

 

しかし、「その解決に合意できるのかという議論が常に出てくる。反対する人が双方にいるからね。」

……それが現実であるらしい。

 

「合意の問題だけでなく、長年にわたる諍いや流血沙汰の歴史があるから、どちらの側も相手を信頼することがとても難しくなってしまっている。(略)その感情を乗り越えて、テーブルについて、相手も良い人生を送りたいと思っている同じ人間だと認識して、『オーケー、あんたを信用しよう』って言うのはとても難しい。そこを超えるためには相手を敵ではなくて人間だと思わなきゃ。」

 

『第三世代』である、ケレット氏の息子さんについても語られる。

「息子さんのレヴを兵役に就かせるかどうか、決断されましたか?」という質問に、ケレット氏は、

「それは、ぼくが決めることじゃない、と言うしかないな。決めるのはレヴ自身だよ。」

そのように言ったあと、こんなことを語っている。

 

「これは言っておきたいんだけど、イスラエルに軍隊は必要不可欠なんだ。必要か否か? って問える問題じゃない。軍隊がなくなればこの国は一週間ともたないよ。それが必要である限り、この国に住んでいて兵役に就かないのは、ある意味、税金を払わないようなものだと思う。もし兵役に就かないことで自分の道徳心を守りたいなら、『この国には住みたくない。もしそれがこの国に住む条件なら他の国に行く』って言うべきなんじゃないかな。」

 

兵役に就くか就かないかが、その国に住むか住まないかの判断に直接的つながっていく、そんな「国」に暮らすケレット氏およびイスラエルの人々。

そういう厳しい、究極の判断を迫られることもなく、安穏と暮らしてきて、今、ここに在る私。

その違いを鋭く突きつけられた気がした。

 

「パレスチナ問題」についても、「息子さんの兵役」についても、「D」というイニシャルの日本人が質問をしている。

「D」さんは、こんなこともケレット氏に訊いている。

「日本は最近急速に右傾化してナショナリスティックになりつつあります。そして近い将来には、いまはまだない徴兵制も導入されかねない状況です。あなたの短編『ヒエトカゲ』みたいに。このことに関してはどう思われますか?」

 

この質問に対してケレット氏は、きわめて理性的、冷静、大人の対応をしている。

「日本の国内事情について何かコメントするのは難しいよ。だってぼくの生活の現実は日本とは正反対にあるからね。」と。

 

そして、こう続ける。

「ぼくは戦争状態に囲まれた国で生きている。だから、軍隊のない国は想像するのさえ難しい。イスラエルにとって軍は必要不可欠なんだから。言ってみれば、そうだな、ぼくがエスキモーで、『クーラーについてどう思いますか?』って聞かれているようなもんだよ!」

 

さらには、

「日本が島国で、差し迫った脅威がなくって、隣で『お前のことを殺してやりたい!』っていう誰かがいない、そういう時代と場所に生きているきみたちはとてもラッキーだと思う。(略)そんな現実の中で暮らしてみたいけど、これほど極端に異なった現実に暮らしているからには、日本の国内的なことに関して意見を言うのは難しすぎるよ。」とも。

 

日本の国内事情についてコメントをするのは「難しい」と、何度もケレット氏は繰り返す。そんなところに、ケレット氏の作家として、また映画監督としての誠実さが現れているように感じた。

 

また、

「日本が島国で、差し迫った脅威がなくって、隣で『お前のことを殺してやりたい!』っていう誰かがいない、そういう時代と場所に生きているきみたちはとてもラッキーだと思う。」

という言葉は、一見平和な島国に暮らす私たちに対して、客観的な自己認識をうながす言葉なのかもしれないとも感じた。

島国という井戸の底からものを見るのではなく、世界的な視野が必要なのだと。

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